㈠ ホーム案内業務
※本作に登場する地名は現実に存在するものと同一ですが、実在する地名・建物と本作中の舞台は一切関係しません。
また、作中で登場する架空の都市伝説についても、実在するものではありません。
この物語はフィクションです。
その時、男の視界に映ったのは、淡々とした様子で迫り来る電車の全面部だけだった。
目映いヘッドライトの光が、夕方のプラットホームの上を、そして線路の男を、ぎらぎらと照らしていた。
不思議とそこに、音や匂いや震動は無かった。もう既に脳が混乱して、感覚器官が狂ってしまっていたのかもしれない。
男は目を閉じた。
そして、呟いていた。
(ああ、これで良かったんだ。これで……)
直後。駅に進入してきた通勤電車は、情け容赦もないスピードで男を力強く撥ね飛ばした。
衝突の刹那、音たちが戻ってきた。けたたましく共鳴するホームの乗客たちの悲鳴が、電車の放った大音量の警笛が、車輪や線路の軋むブレーキ音が、──そこで起きたのが人身事故である事を示す全ての音が、男に押し寄せた。
どういう風に飛ばされたのか、男に知る術などない。理解できるのはただ、全身がばらばらになりそうなほどの四肢の痛みと、深く冷たい感慨だけだった。達成感と言い換える事もできたと思う。自分の目で見てきた事のあった光景のはずなのに、男にとってその衝撃は、あまりにもひどく新鮮だった。
すぐに視界は真っ赤になり、次いで視神経が壊れたのか真っ暗になった。多くの知覚を失って周囲の何もかもが分からなくなった時にはもう、男の意識はあっという間に暗転していた。
──『お前とはもう二度と、会いたくなかったのに』
最期の瞬間と思った直前。静寂の中に、そんな声が強く強く響き渡った。
男は丸く開いた瞳で、声のした方を見た。
血まみれの視線の先で、真っ黒な影がいくつも蠢いていた。触手のような醜悪な姿をした影が、不気味に線路上を蠢いていた。
すぐに視界は暗転したが、その刹那に男は確かに目にした。影が瞬時に消え失せ、不意にそこに人影が浮かび上がったのを。
──このホームには、数年前に変死体となって発見された男の幽霊が出るらしい──。
知り合いから聞いた噂話が脳裡を横切ろうとしたが、
その時にはもう、手遅れだった。
◆◆◆
──『十四番線、ご注意ください! 運転を見合わせておりました山手線内回り、渋谷・品川方面行きの電車が、池袋方より到着しております!』
アナウンスがこだますホームは、電車の運転再開を待ちわびた人々で溢れ返っていた。
「こりゃすごいわね……」
横で同僚がつぶやくのを聞きながら、高田勉は帽子を目深にかぶりなおす。胸につけられた名札が、天井の蛍光灯の光を反射してきらりと輝いた。制服を着た彼と同僚の馬場里美とは、共にここJR新宿駅の駅員だ。
「長いこと停まってたからね。一時間くらいで捌けてくれたらいいんだけど……」
「ま、要注意よね。こんな中で痴漢だの荷物盗りだのに出てこられたら、私たちも対応しにくいもの」
馬場は苦笑しながら手袋をきつく締めた。するとその背後から、困り顔の老婆が声をかけてくる。
「……あの、すみません。ここから大宮って何に乗ったらいいでしょうか」
「大宮ですか?」
老婆の方に向き直った馬場は、勉に向かって指を一本立てて見せる。私だけで対応するよ、の意か。
(じゃあ、お言葉に甘えて)
勉は人波を掻き分け、二人から離れていった。正直なところ勉は今、乗客を相手にしたいと思えなかったのだった。
「……はぁ」
誰にも聞こえないように嘆息すると、勉は凝った肩を軽く回した。
到着した山手線から人がどっと降りてきて、喧騒が二割増しになった。
東京二十三区の西の要、新宿区の南に位置するターミナル駅。それが新宿駅である。
JR線や小田急線、京王線、西武線、さらに地下鉄が四路線。ベッドタウンと都心を結ぶ多くの混雑路線を一手に抱え、さらに駅の周辺部は日本最大級の繁華街を自負する新宿副都心だ。一日当たりの平均乗降客数は三百七十万人にも上り、その数は日本最大であるばかりか世界最大の偉容を誇っている。
あらゆる電車が停車し、あらゆる人々がここを通過する。その巨大なターミナルから人の足が絶える事など、有り得ない。
しかしそれは同時に、非常事態に対して新宿駅が脆弱である事の証でもある。
ひとたび路線の遅延や運転見合わせでも起ころうものなら、構内は大混乱になる。振り替え乗車や回り道のために客の多くは他線へと流れ、混乱が一社にとどまらない事も稀ではない。まして新宿駅そのもので事故が起これば、その被害は甚大だ。
この駅に勤める数百数千もの人々は、常にその混乱のリスクと闘いながら働いている。的確な情報を流し客を誘導し、駅内の秩序と円滑な流動を取り戻すため、駅員たちは日夜奔走しているのだ。
この日の午前八時頃、山手線内回りの新大久保駅付近で事故が発生した。
ラッシュアワーの事故のもたらす影響は大きかった。渋谷方面へ向かう客層が次々にホームへ流れ込み、JR東日本の駅員はその凄まじい人波の中、別ルートで渋谷へと向かう東京メトロ副都心線などへの誘導を懸命に行わねばならなかった。事故から二時間が経過した今しがた、ようやく運転が再開されたものの、山手線のホームは未だ混雑を解消できていない。
しかし、勉が疲れているのは山手線が原因ではなかった。ましてや、昼夜を問わず発生する大混雑のせいでもなかった。
そしてその事を、勉以外の人間は概ね誰も知らないはずだった。
「また今日も、切り出し損ねたな……」
勉は壁の固さを背中に感じながら、不意に流れ込んだ冷気に肩をすくめた。
今日も駄目だった。この仕事を辞めたいと同僚や上司に話そうとするたび、決まって事故やトラブルが発生して、タイミングを逸してしまう。そんな日々が既に数日間は続いていた。
勉は正直、疲れていた。それも一日や二日で治るようなタイプの疲れではなく、この仕事そのものに疲れているのだった。
はぁ。
乗客に隠れて、溜めた息を吐き出す。ふと目をやれば、馬場はさっきの客と一緒にどこかへ行ってしまったみたいだった。
大宮方面と言っていたし、JR埼京線の乗り場のある三番線まで連れて行っているのだろう。山手線と平行して走っている埼京線も当初は運転を見合わせていたのだが、一時間近く前に早々と運転を再開しているはずである。
どうしようもない無力感が、身体をじわじわと包み込む。
「…………」
休憩したい。交替したい。
そう、怨めしそうに勉は心の中でぼやいた。さっきからずっとだが。
その時だった。
──『よう。お前、ずいぶん草臥れてんなぁ』
低い声が、勉の背中にかかった。
誰のだろうか。勉は柱を押し退けるようにして立ち上がり、振り返ってホームを見る。すると声の主はすぐに判明した。すぐ近くのホーム上座席に座っているスーツ姿の男が、勉をじいっと舐めるように眺めていたからだ。
面倒臭そうな客だな、と勉は咄嗟に舌打ちしたくなったが、何であれ対応すべき相手に変わりはない。鍛えきった営業スマイルを浮かべ、男に近づく。
「如何致しましたか」
すると男はぎょろりと目を剥き、勉を睨んだ。
まるで笑っているように吊り上がった口の端から、さっきの声が出た。
──『惚けんなよ。お前がぐったりしてんのは、俺にゃすぐに分かるんだよ』
勉はその瞬間、凄まじい違和感に身体が震えるのを感じた。
確かに男は喋ったが、その声は男の物ではない。初見の勉でもそうと分かるくらい、男の発した声が低かったからだった。底冷えのする嫌な低さに、無意識のうちに鳥肌が立ったほどだ。
有り得ない事だが、それはあたかも他の誰かが男の肉体を使って喋っているようだったのだ。
しかも、不気味なほどよく響く。その場で立ち止まった勉から決して目を離しはせずに、男は口だけで笑いながら喋り続けている。
──『なぁ、お前。そんなところで暗そうに生きてるんなら、俺たちの仲間になろうぜ。それがいいよ』
「お客様、何を仰有って……」
──『どこまでも丁寧な野郎だな、ええ?』
小馬鹿にしたような男の声に、勉は声すら出せなくなった。
この男は誰なのだ。何を目的に、勉に話しかけているのだ。いや、それはさっき男が口にしている。彼は勉を仲間にしたがっている。だとしてもそれは何の仲間なのだろう。
男は沈黙した勉を見定めるように、目を大きく開いてこちらを凝視している。
(逃げよう)
勉は本能的にそう思った。
男は数メートル離れた座席に未だ座っているのだ、不可能ではないだろう。この男を相手にしてはいけないと、根拠のない警戒心が胸中で絶叫している。
(そもそも、別に何かを尋ねられた訳でもないんだ。そう、呼び止められただけ。たったそれだけ。なら、他に用事があるように装って、離れる事はできるはず)
ふっ、と勉は力を抜いて、平静を強調するように小さく嘆息した。そして言おうとした。
「お客様、──」
──『先に言っとくが、お前の思考はバレバレだよ』
男の口は無感情に開閉し、およそ温度を感じることのない声が外耳を打った。その瞬間、勉の中のあらゆる警報が警告音を打ち鳴らし始めた。
勉は駆け出した。男を一度も振り返る事もなく──いや、そんな事などできるはずもなく何回か振り返ってしまったが、ともかく全速力でホームの階段を駆け上がった。
「ちょっと、どうしたの」
階段の先で馬場が目を丸くしている。きっと案内を終え、戻って来たところだったのだろう。ぜえぜえと肩で息をしながら、勉は背後を指差した。馬場を、勉と同じ鉄道員を、ヤツに近づけてはならない。そんな心理が働いたのかもしれない。
「馬場さん、このホームには寄らない方がいい」
「はぁ?」
馬場は怪訝そうに眉をひそめた。当たり前である。
「でも私たち、ここの当直なんだよ。トラブルでも起こったら……」
「その時は、その時だよ」
「意味分からない」
必死に説得しようとする勉だったが、その努力を馬場はただの一言で切り捨てた。呆れた様子で勉の横をすり抜け、階段へ向かう。
駄目だ、行っては駄目だ。どうにかして止めようと腕を伸ばした勉は、不意にそこから力がどんどん抜けていくのを感じた。
憤然と下りていく馬場の脇を、あの男が上ってきたからだ。
それも、同僚と談笑しながら。あの男とは全く違う音色の明るい声で、冗談を飛ばしながら。
「…………なん、で?」
勉は彼の過ぎ去る姿を、茫然と見送った。新宿駅の抱える喧騒の中へと彼らの姿は瞬時に溶け込み、溢れる雑踏が彼らの存在感を完全に消し去った。
脅威は失われた。自分から、あんなにもあっさりと。
なぜ?
新宿駅は恐ろしい駅だ。そこに人がいたという履歴が、ほんの一瞬にして誰かに塗り替えられていく。
──昔、先輩の駅員に、そんな事を聞かされた事がある。
「ねぇ、マジでどうしたの? 調子悪いの?」
馬場の声が掛からなかったら、きっと勉はいつまでも、陽炎のゆらゆら浮かぶ駅の改札を眺めていたに違いなかった。