実務と判例と夢
演習室に総一郎と白井さんだけだった。
ふたりきりという状況は珍しいことではない。
ゼミが始まる前はいつもふたりきりだ。
会話がないのも普段と同様である。
ところが、今日は事情が違った。
いかがわしいアルバイトに従事しているのではないか。
そう疑ってしまったことが白井さんにバレたのだ。
もちろん白井さんは激怒した。
先週のゼミなどでは総一郎が何を言っても無視し目も合わせてくれなかった。
メールも送っても返信はなし。
別の講義でも敢えて離れた席に座るという所業をしてみせた。
謝る機会すらないというのは切ないものだと痛感する。
謂れもない噂で人を語るのはなしにしよう、と総一郎が自戒ときだった。
「小金井先生ってさ。なんで民法学者になったんだろ」
白井さんがつぶやいていた。
総一郎にはそれが独り言のように聞こえたが、最後のチャンスだ口を挟んだ。
「民法が好きなんじゃないの」
「好きってだけじゃ研究できなくない?」
また無視されるだろうと思ったが、白井さんは話に乗ってきた。
「研究ってものすごく大変だもの。四年生が卒論で苦しんでるの知ってるでしょ。学部生レベルであれだけ苦しんでるのよ。本職にするのは相当よ」
「相当、頭がおかしい変人?」
「違う」
白井さんが身を乗り出す。
前から気づいていたが、白井さんは話に熱が入ると身を乗り出すクセがあるようだ。
それでいて、自身のおっぱいが机に乗っていることに気づいていないのだから罪深い。
「相当、苦しいってこと。だって一定期間内に論文を出し続けなきゃいけないのよ。総一郎くんなら、そんなに執筆のネタが出る?」
大学の教授などは、ほどほどに講義や研究をしていれば勤まるものだと認識していた。
「私だってレポートの締め切りで頭が痛いもん」
どうやら、総一郎の認識とは異なるようで、教授とは辛いものらしい。
「じゃあ、儲かるんじゃないか?」
「実務家より儲かるとは思えない」
弁護士や検事、裁判官を代表に司法書士、行政書士など法律を実務で使う職業は多数ある。
白井は研究者より実務家のほうが儲かると思っているらしい。
どちらがよりお金を稼ぐかは総一郎にも判断がつきかねた。
総一郎は胸をなでおろしながら息を吐く。
「そういえば、弁護士が特別講師の講義があったなぁ」
一年生の頃、実務の面から法を学ぶ講義を受けたことがある。
思いだしてみれば、あの司法書士は羽振りがよさそうだった。
「それに講師って安月給らしいわよ。准教授や教授はどうなのかしら」
「仮にも教授と名がついてるんだからかなりの額もらってるだろ」
そうでないと格好がつかない。
少なくても教務課にいる大学職員よりは高収入だろう。
白井さんが壁にかけてある時計を見る。
「大学ってことあるごとに弁護士になれ司法書士になれって言ってくるけど研究者になれとは言わないよね」
釣られて時計に目を向けると講義開始までまだ少しあった。
「法科大学院の説明会はあるのに研究科の説明会はないよな」
最近まで研究科課程があるなんて知らなかった。
「それは簡単よ。ライバルを増やしたくないんだわ」
「ライバル?」
「研究者って言ってもどこかの大学に勤めなきゃ研究もままならないでしょ」
「なるほど。大学もそんなに人を雇えないってわけか」
ようするにイス取りゲームである。
総一郎は世知がらい事情に頭を抱えそうになりながらも続けた。
「先生方は教え子に仕事を取られないよう研究科を隠しているわけか」
「そう言われると、自分の可能性をつぶされているようでつらいわ」
白井さんも熱が冷めたのかすでに身を乗り出すことやめていた。
おっぱいが机に乗らなくなったことを残念に思いながらも総一郎も一息ついた。
そして、講義開始のチャイムが鳴ると同時に小金井教授が演習室に来た。
「おはよう。さぁ、ゼミを始めようか」
すぐさま判例百選を開けようとする小金井教授に、総一郎と白井さんは今までの経緯をかいつまんで話した。
聞き終えた小金井教授は笑う。
「ぼくらが研究科を隠しているんじゃない。学生が研究い魅力を感じなくなったから推薦しなくなっただけだよ」
「でも、紹介するだけでもいいじゃないですか。実務家だけが法律家じゃないでしょう?」
「そうだね。それは教授会で意見してみるよ」
総一郎は最初に疑問を口にした。
「先生はなぜ民法学者に?」
小金井教授は一度座った席を立ちあがり、ふたりに質問した。
「君たちは判例の判断や学説に疑問を抱いたことはないかな」
「あります」
白井さんがうなずく。不勉強ながら、総一郎にもあった。
これは間違いだ、おかしいと思ったことが何度かある。
「そういう疑問を解き明かすために研究の道を志望したんだよ」
小金井教授が目を細めて、ゆっくり語り始めた。
「法研究界も平均年齢があがっている。若手研究者が必要な時期なんだ。そういう意味では君たちにはこっちの道も考えてほしい。収入は二の次にしてね」
言い終えた小金井教授の頬は少し赤らんでいた。