2.Vanilla Sky~幻想の空~
二話目です。
新キャラ二人にも、少しは馴染んでいただけましたでしょうかね。
初めて話をして以来、わたしは放課後になるとたびたび屋上へ足を向けては彼女――朝倉李桜と話をするようになった。
話題はこちらから用意したものを振ることはほとんどなく、李桜の独白めいた話にわたしが相槌を打つというパターンが多い。
彼女の話は実に様々で、ボキャブラリーも多様だった。毎日屋上に一人でいるくせに、一体どこでそんなにも話題を作れるのだろうかと、時々本気で不思議に思ってしまうほど、彼女には引き出しが多い。
そんな彼女の話を聞いていると、不思議と時間の流れを速く感じた。
初めは嫌悪を感じていたはずの、彼女のねっとりとした甘い声にも、気づけばもう随分慣れてきていて。逆に、その声を聞いているのが心地よいとさえ思うようになっていた。
ほぼ毎日のように屋上の鍵を借りに来るわたしに、担任の優月先生は何も言わない。ただいつものように少しだけ意地悪に笑って、こう言うだけだ。
「李桜と、少しは打ち解けたか。椛」
放課後など授業と関係のない場所では、彼は生徒を下の名前で呼ぶ。そのことに気付いたのは、李桜と関わるようになってからだった。
わたしは家族以外の人に『椛』と下の名前で呼ばれることが少ないので、少しだけくすぐったく、照れくさい。
だからわたしは顔をそむけ、ぶっきらぼうに答えるのだ。
「クラス委員として、責務を果たしているだけです」
――そうだ。もともと彼女に近づいたのは、クラス委員として彼女に『授業に出ろ』と説得するためだけのはずだった。
なのにどうして、わたしは彼女の話に付き合っているのだろうか? 馬鹿みたいに、相槌を打っているのだろうか?
さっさと用件だけ済ませてしまって、こんな不毛な逢瀬は断ち切ってしまうべきなんじゃないのか……?
そうは思っても、わたしは今日も屋上へ足を運んでしまうのだ。
今日は彼女は、どんな話をしてくれるのだろう。
そう、無意識に楽しみで心を躍らせてしまうのだ。
「――やぁ、来たね」
いつもの場所――屋上に設置された建物の屋根の上で、李桜はいつものように微笑みながら、わたしの方へ軽く片手を上げてみせる。
今日はその傍らに、何やら置いてあるのが見えた……気がした。
疑問を抱きながらも、わたしは李桜へ軽く会釈をし、いつもそうしているように彼女のいる場所へ行くため、物置小屋の屋根へとよじ上った。
幾度もこの行為を繰り返しているせいか、最近は妙に体力がついたと実感する。当初は李桜のいるところに辿り着くだけで激しく息を切らしていたというのに、今ではもうほとんど何ともないのだ。
「よいしょ、っと」
軽い動きで李桜の傍までやってくると、彼女は可笑しそうに目を細めた。
「ずいぶん、ここまで上ってくるのにも慣れてきたようじゃないか?」
「毎日同じことをやっていれば、そりゃあ少しは慣れてくるわよ」
「いっそのこと、ロッククライマーでも目指してみたらどうだい」
「嫌よ、そんなの。疲れちゃうじゃない」
彼女のからかいに頬を膨らませて反論すると、李桜はクスクスと笑った。つられて、わたしもつい笑ってしまう。
「……はぁっ、本当にあなたって面白い人だね」
ひとしきり笑った後、生理的に浮かんだのであろう涙を拭いながら彼女が言う。それから自身の隣を指差すと、わたしを見て悪戯っぽく笑った。
「まぁ、座りなよ」
大人しく彼女の示したところへ腰を下ろすと、先ほど少しだけ見えた『何か』がすぐ近くに見える。それは分厚い素材でできた絵本のような冊子で、広げられたままのそれには、今まさに頭上に広がっているのと同じような、快晴の青空が映し出されていた。
わたしの視線の先に気付いたのか、李桜が「あぁ、それね」と言及する。
「昨日、姉から送られてきたものなんだ」
「お姉さん?」
姉がいるとは、初耳だ。とはいっても彼女はほとんど自分のことについて話をしないから、当然といえば当然なのかもしれないが。
「姉は画家でね。現在、諸国を旅してはこうして描いたものを本にまとめて出版しているんだ。おかげ様で売り上げも上々みたいでね、時折口座に仕送りが来るからこちらとしても助かっているんだよ。母が出版社の人だから、コネのおかげで出版費用も大してかからないし……本当に、便利な商売をしているものだよね」
ハハ、と彼女は軽く笑う。
広げられた冊子を見ながら、わたしは絶句していた。
透明感のある、青い空。さっきから写真だとばかり思っていたけれど、まさか、これって――……。
「……これって、絵なの?」
「ん? あぁ、そうだよ。気付かなかったのかい?」
まぁ、姉の絵のレベルは高いから。間違えても仕方ないかもしれないねぇ。
自慢するように言いながら、彼女は目を細める。その様子はまるで姉を誇らしく思い、またその遠い姿を懐かしんでいるかのようでもあった。
唐突に、彼女は広げられた本を手に取った。わたしに中身を見せるように、開き直す。
「見るかい?」
空を見ることに対する恐怖が、完全に拭われたわけじゃない。今でも、長く空を眺めていることに、耐え難い苦痛を感じることがある。
けれどその時のわたしは、彼女の問いに対して、一時のためらいさえもなく当然のように首を縦に振っていた。
普通よりも丈夫に出来ている本のページを、一枚一枚ゆっくりとしたスピードで捲っていく。呼応するように、隣からは解説の言葉を紡ぐ甘い声が聞こえた。
「オーロラ……恐らくその色はアラスカのものだね。写真に撮るのも難しいだろうに、よく姉は絵に出来たものだよ。素直に尊敬してしまうね。……そっちは白夜。ロシア北部やカナダ北部などで夏に見られる、一日中太陽が沈まない現象のことだ。逆に一日中太陽の上らない極夜というのもあって……あ、ちょうどそのページだね。南極圏や北極圏で起こるらしいよ。その町並みは……ノルウェーのトロムソかな」
「……詳しいのね」
感心して、思わず感嘆の声を漏らす。
どうってことない、とでも主張するように、李桜は笑った。
「そりゃあ、姉から情報を聞くこともあれば、独自に調べたりすることもあるし……そういうことをしょっちゅう繰り返していれば、自然と詳しくもなるさ」
「空、好きなの?」
わたしの質問に対して、誇らしげに李桜は頷いてみせた。
「あぁ、好きさ。だからこそ知りたいと思うし、知識を深めようと努力する」
そういった好きなことに対して知識を深めるという彼女の行為は、『好きこそものの上手なれ』という言葉を連想させる。
その時わたしの中に、一つの疑問が生まれた。
――わたしにはこんな風に、熱中できるものがあっただろうか?
自分から貪欲に知りたいと思える事柄が、これまでに一つでもあっただろうか?
空について語る李桜の声も顔も、こんなに輝いて見えるのに……わたしは、一度だってそんな顔をしたことがあっただろうか?
……いいや、必要ない。わたしの人生にはそんなもの、必要ないんだ。
考えを振り払って、次のページを捲った時だ。
現れた一つの情景に、わたしは自然と引き込まれるのを感じた。
「これは……」
「これはね、日本でもよく見られる情景だよ。英語では『バニラ・スカイ』と呼ばれている」
「バニラ・スカイ……」
李桜の言葉を反芻しながら、わたしはそこに映った絵をじっくりと見つめた。
仄暗い青空の中に、ピンクともオレンジともとれる不思議な色の雲が、滲んだように、まだらに広がっている。
それは夕方に帰宅する時や、朝早く起きてしまった時などに、たまに目にする神秘的な色合いで……まさにこの世のものとは思えない、その部分だけがまるでこことは違う世界であるような、そんな光景。
「『バニラ・スカイ』という名前の映画が、アメリカにあってね」
李桜が独り言のように声を漏らした。隣を見ると、彼女は座ったままぼんやりと陽の落ち始めた空を眺めている。
「キャッチコピーがね……なかなか秀逸で、個人的に好きな言葉なんだよ」
そこで言葉を止めると、李桜はゆっくりとした動作でわたしの方を振り向いた。静かな眼差しで、淡々と告げる。
「『あなたが思うあなた自身は、幻にすぎない』」
わたしの周りから一気に音が失われ、水を打ったみたいに静かになった。
どく、どく、自然と速くなっていく自分の鼓動がわかってしまう。
これ以上ないくらいに目を見開いたわたしに、李桜は相変わらず静かな眼差しを向けたまま、言葉を投げかけてきた。
「あなたが思い描く『あなた』の姿が――……あなたがなりたいと願う『あなた』の姿が本物だと、いつ、誰が言ったんだい?」
そんなものを本当にするのは難しいし、不可能なことだよ。
「それこそ、あなた自身がそうでありたいと心から願わなければ、望まなければ……いくら形だけ完成していたとしても、あなたの本質は――心はずっと、幻のままなんじゃないのかな」
今までのわたしは……わたしが本物だと信じてやまなかった、わたしが望んだ『わたし』は、全て……幻にすぎない?
自分の今までの生き方を、全て否定された気がした。
けれど怒る気力も、反論する言葉も出てこない。わたしの心は空虚で、すっかり原型を失ってしまっていた。
わたしはただ、唇の動くままに呆然と呟く。
「じゃあ、本当の『わたし』は……わたしが本当に望んでいる『わたし』は、一体どこにあるというの?」
李桜の甘い声が、淡々とその答えを紡ぐ。
「それを今から見つけるんじゃないか。自分で言うのも何だが、中学生というのは多感な年頃だ。どうしても、不完全なのは仕方ない。むしろ今から無理矢理完全にしようとすること自体が、間違っているんだよ」
不完全なのは、仕方がない――……。
きっとわたしは、自分を『完全』にしようとするあまり、自分自身を不必要に縛り付けていたのだ。
周りの期待に応えようとするあまり、周りの望む人間であろうとするあまり……周りが描いた『自分』という姿を、早急に完成させようとしていた。
そんなことをして作り上げた自分は、所詮幻にすぎないというのに。
気づいてしまったとたん、わたしの前にかかっていた霧が、一気に晴れたような気がした。
そんなわたしの変化に表情で気付いたのか、李桜が柔らかく微笑む。
それからこちらへゆっくりと手を伸ばしてきたかと思うと、私の顔にかかっていた一枚のガラスを――わたしが今までずっとかけ続けてきた眼鏡を、何のためらいもなく取り去ってしまう。わたしは抵抗することなく、されるがままになっていた。
急激に焦点の定まらなくなった視界いっぱいに、李桜の姿がおぼろげに映る。その表情は、無邪気に笑っているように見えた。
いつものねっとりとした甘い声が、夢見るように囁く。
「眼鏡がない方が、可愛いんじゃないのかい?」
これを機に、コンタクトにしてみなよ。
うきうきと弾んだような声が続く。何となく照れくさくなって、わたしはそっぽを向いた。
「コンタクトは……だって、痛いじゃない」
「ちゃんと病院とかで処方してもらえば大丈夫さ。やり方をうまく教えてもらって、コツさえ早くつかめば自分でも簡単に、痛くなく入れられる」
「まるで経験したみたいな言い方ね」
「あぁ。私もコンタクトだからね」
「そうなの!?」
当然のことだが、見た目だけでそうだと判断することは不可能だ。それでも、李桜に目が悪いというイメージがどうしても重ならなくて、わたしはポカンとして彼女を見た。
「じゃあ……眼鏡、持ってるの?」
「意外かい?」
軽く首を傾げられ、素直に頷く。
「眼鏡とか……正直、似合わなそう」
「酷いなぁ」
全く酷いなどとは思っていなさそうに、李桜がクスクスと笑った。わたしも一緒に、声を上げて笑う。
気づけば陽はすっかり落ち、辺りは暗くなり始めていた。
…え、二話目にしてこいつら打ち解けすぎだろって?
中学生ぐらいの子たちは、案外すぐに友情が生まれちゃうものなんですってば。凛の周りの人たちがそうでしたし、現に凛自身もそうでした。
まぁ、効果には個人差があるとだけ言っておきますが(笑)
『バニラ・スカイ』とは実際にあるアメリカ映画の名前です。とはいっても、見たことないんですけどね(←何)
『バニラ・スカイ』という言葉(実際に、夜明け前の空のことをアメリカではそう呼ぶそうです)とキャッチコピーを聞いたとたんにインスピレーションが働きまして、こんなお話になりました。いつになく青春チックだなオイ。