『冬の海と窓際のジウ』
ある日の事。
カン・サランは出演した映画の小説版
『冬の海と窓際のジウ』を読んでいた。
この作品は、原作者のユン・シウが
『真緑の翡翠』の撮影ができない12月から翌3月までのスケジュール都合と、
記憶にある小樽の崖の上のホテルのロケーションからインスピレーションを得て、
書いた脚本が原作になっている。
この映画はソン・カナン主演となっていたが、
ソン・インナとチェ・ウナの強力な大物女優が脇を固めたので、
病人役のカナンはビジュアルや演技面でも一定の評価はされたが、
死んでしまった人イメージが強すぎて、
サラン自身には無冠の『顔面女優』の称号だけもらった作品であった。
悲劇の作品で悲劇の結果になった苦い思い出の作品だが、
ユン・シウが突如、1日で書き上げた不朽の名作であるとサランは思っている。
ジウを演じたサランでさえ、
主人公のジウに対して「ジウ可哀想。ジウ、私も愛してる。ジウ、さようなら」と
感情移入してしまう素敵な作品だと思うのであった。
【第一幕:終わりの始まり】
崖の上にひっそりと佇む病院の診察室には、
絶えず重苦しい冬の波の音が響いていた。
担当医師であるチョン・イジュンは、
手元のカルテを見つめたまま、なかなか顔を上げようとしなかった。
その沈黙の長さが、すでに残酷な答えを物語っていた。
「……残念ですが、現在の医学では、これ以上の進行を止める手立てがありません」
イジュンは絞り出すような声で、目の前に座るキム・ジアに告げた。
誠実で真面目な彼だからこそ、その言葉には嘘偽りのない絶望が乗っていた。
「持って、あと数ヶ月……というところです」
「数ヶ月……ですか。本当に、どうしようもないんでしょうか……」
ジアは膝の上で拳を強く握りしめ、うつむいた。
数年前に夫と死別し、女手一つで大切に育ててきた一人娘だ。
まだ十九歳。
あまりにも早すぎる宣告だった。
ジアは溢れ出る涙を両手で手荒に拭うと、深く、深く息を吐き出した。
そして両手で自分の頬をパチンと叩き、無理に口角を上げる。
「……ありがとうございます、先生。娘の前では、絶対に泣かないって決めてるんです」
病室のドアを開けると、そこには白波の立つ【冬の荒れた海】が広がっていた。
崖の上の特等席。
けれど、今日の海はまるで親子の心を写したかのように激しく波立っている。
ベッドに身を預けたイム・ジウは、微動だにせず窓の外を見つめていた。
「ジウ、ただいま。ちょっと先生とお話が長くなっちゃって」
「おかえり、お母さん」
ジウは振り返り、穏やかに微笑んだ。
「外、すごく海が荒れてるね」
「本当ね。あ、そうだ……」
言葉を続けようとしたジアのポケットで、スマートフォンが短く震えた。
画面に表示された名前に、ジアは目を見張る。
そこには『チェ・ヘイン』と書かれていた。
【第二幕:憧れの人】
その日の午後、病室のドアが控えめにノックされた。
開いた扉から入ってきたのは、
病室の空気をも一瞬で変えてしまうような、華やかなオーラをまとった女性だった。
「ジア……! ごめんなさい、急に押し掛けちゃって」
「ヘイン……! どうしてここに?」
独身時代、歌劇団の女優として共に舞台に立っていた元同僚であり、
親友のチェ・ヘインだった。
いまや誰もが知る大女優となった彼女は、
美しい瞳を涙で潤ませながらベッドへと歩み寄る。
「ずっと連絡もできなくてごめんなさい。でもね、ジアの娘さんから、素敵なお手紙をもらったの」
ヘインはベッドの横に屈み込み、ジウの視線に合わせるようにそっと語りかけた。
「あなたが、ジウちゃんね?」
「ヘイン……さん? 本物の、チェ・ヘインさん……?」
ジウの瞳が、まるで子供のように輝いた。
「そうよ。お手紙、嬉しかった。子供の頃に私が歴史ドラマで踊った舞を見て、バレエや舞踊を始めてくれたって。こんなに嬉しいファンレターは初めてよ」
「夢みたいです……。私、ヘインさんの舞が、世界で一番大好きです」
「ありがとう、ジウちゃん。会いに来られて本当によかった」
ヘインはジウの細い手を優しく握りしめた。
ジアとヘインは静かに目を合わせ、言葉にならない涙を互いににじませた。
多忙なヘインだったが、この日を境に、
彼女は度々この崖の上の病院を訪れるようになる。
【第三幕:夢の中なら舞える】
ジウは、光に満ちた美しい舞台の上にいた。
純白の衣装をまとい、誰よりも優雅に、誰よりも美しく、
重力を忘れたかのように軽やかに舞っている。
そこには、身体を蝕む病の痛みも、胸を締め付ける息苦しさもない。
いつまでも、どこまでも踊り続けることができる。
それは、彼女が少女時代からずっと抱き続けてきた、
焦がれるような夢そのものだった。
「……んっ、」
ゆっくりと目を覚ますと、
視界に飛び込んできたのは無機質な天井だった。
ジウは自分の動かない足を見つめ、小さく息を吐き出す。
そんな彼女の沈んだ空気を吹き飛ばすように、
見習い看護師のイ・ハユンが、
明るい声で点滴を替えながら話しかけてきた。
「ジウちゃん、おかえり! いい夢見てた?」
「うん。ハユンお姉ちゃん。私ね、夢の中で、すごく上手に踊ってたんだよ」
「ふふ、見たかったな! ジウちゃんが眠ってる間に、お肌の保湿とマッサージ、バッチリしておいたからね!」
「ありがとう。ハユンお姉ちゃんは、いつも明るくて、ひまわりみたい。私、お姉ちゃんがすごく羨ましいな」
「何言ってるの、私なんてドジばっかりだよ? でも、ジウちゃんにそう言ってもらえるのが、私の一番の元気の源なんだから!」
年齢の近いハユンの誠実で明るい笑顔に、ジウの心はいつも救われていた。
【第四幕:本当の事が知りたい】
別の日。
ジウの胸に聴診器を当てるチョン・イジュンの表情は、いつになく暗かった。
横でカルテを抱えるハユンも、どこか落ち着かない様子で床を見つめている。
ジウは、イジュンの様子をじっと観察していた。
「……先生」
「ん? どうしたかい、ジウちゃん」
「私の病気、もう治らないんですよね。私の身体、あとどれくらい持つの?」
直球の問いに、イジュンは目に見えて動揺し、泳いだ視線を泳がせた。
「えっ? あ、いや……そんなことはないよ。新しいお薬の可能性だってあるし、容態だって今は安定しているから……」
「そうだよジウちゃん!」
ハユンが慌てて言葉を被せる。
「チョン先生、毎日一生懸命、一番良い治療法を考えてるんだから! だからね?」
「そ、そうなんだ! 心配しないで、ゆっくり休んでいれば……」
イジュンの声は、最後の方は震えていた。
あまりにも下手くそな、二人の優しい演技。
「……もう、いいです。二人とも、嘘が下手くそだから」
「ジウちゃん……」
ジウはそれ以上何も言わず、
窓の方へと寝返りを打ち、二人から背を向けた。
「少し、一人にしてください」
痛切な表情を浮かべたイジュンとハユンが、静かに部屋を去っていく。
ドアが閉まる音が響いた後、ジウは一人、声を殺して涙を流した。
窓の外を見ると、
そこには【静かで寒々とした冬の海】が、冷たくどこまでも広がっていた。
【第五幕:大好きだからこその偽り】
夕闇が迫る病室。窓の外を眺めると、
【どんよりと曇った空に、海鳥が強風に抗いながら必死に飛んでいる】のが見えた。
ジウはベッドの上で、膝を抱えるようにして自問自答していた。
(一番つらくて、一番悲しいのは、私じゃない。私を遺して一人になってしまう、お母さんだ……)
独りきりで自分を育て、
今もつきっきりで看病してくれている大好きな母親。
カチャリと音がして、ジアが夕食のトレイを持って入ってきた。
「ジウ、ご飯持ってきたわよ。今日はジウの好きなカボチャのスープよ」
その瞬間、ジウは心の中で涙を完璧に押し殺し、
パッと満開の笑顔を作った。
「わあ、おいしそう! お母さん、ありがとう!」
「顔色、良さそうね。良かったわ」
「うん、全然平気だよ! 先生もね、さっき『順調だ』って言ってくれたの。だからお母さん、そんなに心配そうな顔しないで?」
「……そう、良かった。お母さん、ジウが笑っててくれれば、それだけでいいわ」
ジアは愛おしそうに娘の頭を撫でた。
ジウはスープを口に運ぶ。
母親の前では、極力泣かない。
取り乱さない。落ち込まない。
それが、十九歳の彼女ができる、
精一杯の「大好きだからこその偽り」だった。
【第六幕:ありがとうを伝えたい】
少しだけ春の気配が混じり始めた昼下がり。
ヘインが再び病室を訪れた。その手には、綺麗なリボンがかかった包みがあった。
「ジウちゃん、これ、お土産。開けてみて」
ジウが慎重に包装を解くと、中から現れたのは、
息をのむほど美しい【花柄のワンピース】だった。
「春になったらこれを着て、一緒に街へお出かけしましょうね」
ヘインは極上の女優の微笑みでそう言った。
それが、ジウに生きる希望を持たせるための、
叶わぬ「優しい嘘」だと誰もが知っていた。
「……はい。すごく素敵。ありがとうございます、ヘインさん」
ジウはワンピースを愛おしそうに胸に抱きしめ、笑った。
しかし、ジウの身体はすでに限界を迎えていた。
生きる気力よりも、死への引力が勝っていくのを、
本人が一番強く実感していた。
「……お母さん。ヘインさん。ハユンお姉ちゃんも、先生も。みんな、集まってくれてありがとう」
その場にいた全員が、ジウを見つめた。
ジウの声音には、
まるですべての終わりを受け入れたような、静かな覚悟が満ちていた。
「私ね、この病院に来て、みんなに会えて、本当に幸せだった。お母さんの子供に生まれてよかった。ヘインさんに憧れて、少しだけでも踊れてよかった。ハユンお姉ちゃんに笑ってもらえて、先生に診てもらえて……。みんな、本当に、ありがとうございました」
それは、あまりにも早すぎる、けれどあまりにも美しい感謝の遺言だった。
大女優であるはずのヘインは、もう涙を隠す仮面を保てず、顔を覆って泣いた。
ジアもまた、ジウの手を両手で強く握りしめ、溢れる涙を堪えることができなかった。
「どうか元気になって……生きて、生きてほしい、ジウちゃん……」
ヘインはジウの手を握りしめ、祈るように呟いた後、
声を押し殺しながら病室を後にした。
【第七幕:さよならジウ】
とうとう、その瞬間がやってきてしまった。
規則正しく鳴り響いていた心電図の音が、
引き裂くような単一の電子音――ピー、という音へと変わる。
ジアはベッドに突っ伏し、狂ったように激しく泣き崩れた。
「ジウ……! ジウ、嫌よ、目を開けて……! おいていかないで!」
ハユンは涙をボロボロとこぼし、
視界を滲ませながら、震える手で医療機器を片付けていた。
いつも明るかった少女が、今は声を上げて号泣している。
イジュンは無言で時計を確認し、
静かに最期の時間を告げると、深く、深く頭を下げた。
自分の無力さに苦悩し続けた医師の、それが精一杯の敬意だった。
ジアは、急速に冷たくなっていくジウの愛らしい頬を包み込んだ。
「……ジウ。私の元に、生まれてきてくれて……本当に、ありがとう……」
数時間後。
主を失ったベッドの上は静まり返り、医療機器が撤去された病室は、
とても無機質で、空虚な空気に包まれていた。
しかし、開け放たれた窓の外を眺めると、
冬にしては【とても眩しい、澄み切った青空】がどこまでも高がっていた。
そして、きらきらと陽光を反射する【静かで雄大な海】が、
水平線の彼方まで穏やかに広がっている。
まるで、ジウの魂が病苦から解放され、あの青空の向こうで、
誰よりも美しく、優雅に舞いながら旅立っていったかのように。
窓からの風が、
残された人々の涙を優しく拭うように、静かに吹き抜けていった。
(終幕)
この作品は『私にキスできますか?』の作中作品となっています。
本編をお読みになっていない方は、??と思うと思いますので。
どうぞご容赦ねがいます。
参考
※カン・サラン
作家ユン・シウの妻。女優ソン・カナン
※ユン・シウ
作家。『冬の海と窓際のジウ』の原作者
※ソン・カナン
韓国の女優。『冬の海と窓際のジウ』イム・ジウ役
※ソン・インナ
韓国の女優。ユン・シウの母親。『冬の海と窓際のジウ』キム・ジア母親役
※チェ・ウナ
韓国の女優。ソン・インナの盟友。『冬の海と窓際のジウ』チェ・へイン女優役
※コ・ミンジ
韓国の女優。カン・サランのバイト仲間で親友。
この作品で映画初出演した。端役だが業界にインパクトを残した。
『冬の海と窓際のジウ』
イ・ハユン看護師役
※ハン・ジホ
韓国の俳優。
『冬の海と窓際のジウ』
チョン・イジュン医師役
ネット恋愛リアリティ番組の『Love Hunt4』に出演しトラブルによって降板した。
彼はインディーズ映画俳優で、 純朴さと狂気を秘めた実力者俳優との評価がされている人物でもある。
口数は少ないが自信過剰でナルシストな所がある男だ。
『Love Hunt4』の名誉挽回と和解の意味も込めてのオファーであった。
彼はインディーズでは一定の評価はあったもののメジャーでは未出演だった為に、
このオファーの承諾に繋がったのである。
『真面目だが凡庸で不器用。かつ無力な医師』
原作者のユン・シウの思惑に結果的にマッチしたキャスティングであった。




