第1話 アンナとディートの思い出の一皿! 【アイギルオオイノシシのロースステーキ 森の果実ソース添え】
「……おい、アンナ。本当にあれをまたやるつもりか」
ディートが鉄灰色の短い髪をガリガリと掻きむしり、低く濁った声を漏らす。
彼の視線の先、私は魔導馬車「アイゼン・ディ・キュッヒェ」の作業台で、愛用の骨漉し包丁を丁寧に研いでいた。シュッ、シュッ、と規則正しく響く硬質な音が、新緑の匂いが立ち込めるアイギル大陸の森林に吸い込まれていく。
「当然でしょう。あなた、この前『またアレが喰いたい』って言ったじゃない」
私は琥珀色の瞳を彼に向け、おっとりと微笑んでみせる。だが、ディートは頬の古傷を歪め、まるで深淵王ヴァニタスの眷属でも見つめるかのように顔をしかめた。
「そりゃ、お前が作った料理はどれも悪魔的に美味いさ。だが……あの獣の、皮を剥いだ瞬間の臭いだけは受けつけねぇ。鼻の奥にへばりついて離れない、ドブ川に生木をくべたような饐えた臭気だけは、思い出すだけで胃袋がひっくり返りそうになるんだよ」
彼の喉がヒクリと大きく波打ち、無意識に黒い革鎧の胸元をわし掴みにしたのが見えた。強靭な戦士である彼が、身体的な嫌悪感でここまで取り乱すのは珍しい。
確かに、アイギルオオイノシシの雄は独特の強烈な獣臭を持つ。発情期の個体だと尚更だ。並の料理人が扱えば、一口で吐き気を催すほどの代物。けれど、私に言わせればそれは食材に対する侮辱でしかない。「食こそが生命の本質」だ。自然の恵みを不味く食すことほど、豊穣母神テラへの不敬はない。
「ふふ、なら捕まえてきて。ディート。私の腕を信じるなら、ね」
ディートは一瞬、言葉を詰まらせ、大剣の柄に置いた指先をピきりと強張らせた。だが、彼の胃袋はすでに私の料理の奴隷だ。チッ、と小さく舌を鳴らすと、彼は背中の大剣を引き抜いた。
「……死ぬほど不味かったら、今度こそこの馬車を叩き割るからな」
彼が森の奥へと消えてから、大樹の梢が大きく揺れ、凄まじい地響きが一度だけ鳴り響いた。
あの巨体を仕留めるのは、相変わらず一瞬。手練れの彼にはそこいらの獣を狩るなど赤子の手をひねるようなものだ。
数分もしないうちに、ディートは独特の大きな牙を持つ、丸太のような巨躯をずるずると引きずって戻ってきた。周囲の空気が、一瞬にして濃厚な脂と、ディートが嫌悪したあのツンとくる野生の臭気で満たされる。じっとりとした湿気を含んだ風が私の頬を撫で、鼻腔を突く不快な温度に、一瞬だけ私の胃の奥もキュッと収縮した。
だが、ここからが私の戦場だ。
「よし、よくやってくれたわ。下がっていて」
私は包丁を握り直す。指先まで神経が張り詰め、冷徹なまでの集中力が脳内を満たしていく。ディートの脳裏にある「不快な記憶」を、私の技術で完全に上書きしてやる。その執念だけが私を突き動かしていた。
まず、臭気の原因である厚い脂肪層の奥にある「臭い玉(腺)」を、一切傷つけることなく正確に抉り出す。包丁の刃先が肉の繊維を滑る感覚。わずかでも手元が狂えば、あの悪臭が肉全体に回る。息を止め、胸の鼓動が早くなるのを自覚しながら、ミリ単位で刃を動かした。よし、摘出完了。
次に、ロースの部位をぶ厚く切り分ける。赤身は驚くほど美しい深紅。
これを、ただ焼くのではない。私は馬車の棚から、自作のハーブ酒を取り出した。アルコールで肉の揮発性の臭み成分を溶かし出し、同時にジュニパーベリーとセージの清涼感を肉の奥深くまで染み込ませる。
「……おい、本当に大丈夫なんだろうな」
少し離れた丸太に腰掛けたディートが、落ち着かない様子で大剣の手入れをしながら、こちらを盗み見てくる。彼の視線が、不安と、それを上回る飢餓感で揺れているのを私は見逃さない。
フライパンに火をかける。熱せられた鉄の匂いが立ち上ったところで、イノシシの脂身から抽出した極上のピュアラードを落とす。パチパチと小さな音が跳ねた瞬間、ハーブ酒に漬け込んだ肉を投入した。
ジュウゥゥ……!!!
爆発的な重低音とともに、森の空気が一変した。
立ち上ったのは、先ほどの悪臭ではない。肉の表面が劇的にメイラード反応を起こし、香ばしく焦げる、暴力的とも言える芳醇な香りだ。ハーブの爽やかさと、凝縮された獣の旨味が熱風となってディートの鼻腔を直撃するのがわかった。
私はスプーンを持ち、溶けた熱い脂を肉の表面に何度も何度も回しかける。アロゼだ。こうすることで、肉の内部の水分を保ったまま、しっとりと、かつ完璧に熱を均一に通すことができる。
「……くそ、なんて匂いだ。さっきのドブ臭さはどこにいっちまったんだ。早く喰いてぇ……」
ディートの低いうめき声が聞こえる。彼の喉が、今度は強烈な飢えによってゴクリと鳴った。
仕上げに、クランベリーをすり潰した甘酸っぱい果実酒のソースをフライパンの余熱で煮詰める。肉を大皿に盛り付け、深紅のソースをたっぷりと叩きつけた。
「お待たせ。アイギルオオイノシシのロースステーキ、森の果実ソース添えよ」
木製のテーブルに皿が置かれた瞬間、ディートはまるで飢えた狼のようにナイフとフォークを掴んだ。
一切れ、ぶ厚く切り出す。断面からは、完璧なロゼ色に染まった肉汁がじわりと溢れ出た。彼はそれを、躊躇なく口に放り込む。
「――――ッ!!」
ディートの身体がガチリと硬直した。目が見開かれ、ナイフを持つ手が宙で止まる。
彼の脳内を、かつて食べた「不味いイノシシ肉」の記憶が駆け巡っているのだろう。硬く、臭く、噛むほどに不快な汁が溢れる呪いのような味。だが今の彼の舌の上にあるのは、正反対の旨味の暴力だ。
咀嚼するたび、歯が肉の繊維を心地よく断ち切っていく。圧倒的な弾力でありながら、決して硬くない。そして、噛むほどに溢れ出すのは、ハーブの香りを纏った、どこまでも濃厚でピュアな赤身の旨味だ。そこにクランベリーソースの鮮烈な酸味が絡み合い、脂の重さを完全に消し去っている。柔らかく、脂っこくない肉は誇張抜きで、いくらでも胃袋に入りそうだ。
「……美味い。美味すぎる、アンナ。なんだこれは、俺の知っているイノシシの肉じゃねぇよ……! おまえはやっぱ天才だ!」
彼の頬の傷が、歓喜で歪む。大男が、子供のように夢中で肉を貪り食っている。その姿を見て、私の胸の奥に、言葉にできないほどの熱い充足感がじわじわと広がっていった。心臓の鼓動が、心地よいリズムで高鳴る。
「でしょう? どんなゲテモノでも、どんなに臭い魔物でも、正しい理で調理すれば、それは最高の馳走になるのよ」
私も自分の皿から肉を切り分け、口に運ぶ。
うん、完璧。甘酸っぱいソースと、野生味溢れる肉の脂が、旅の疲れを芯から癒していくようだ。生命を屠って調理に精を出すと、命を頂くとはどういうことかを考えさせられた。
「どう、嫌な記憶は吹き飛んだ?」
「ああ。ガキの頃に食った不味い猪肉はアンナと逢ったあの日から、もう美味いモンって認識に変わってたよ」
「私にとってもディートに助けてもらった時に振る舞ったこれは、思い出深いわ……」
ニコッと笑いながら私が喋ろうとするのを、彼の大声が遮り
「それよりおかわりだ! まだ肉はあるよな?」
「ふふ、もちろん。あの大巨体を仕留めておいて、一皿で足りるわけないじゃないの」
100クランのパンがかすむほどの、極上の贅沢。
私たちはアイギルの豊かな森の片隅で、ただただ幸福な胃袋を満たすために、次の肉を焼き始めるのだった。




