湯気の向こう側、重なる過去
第五章:湯気の向こう側、重なる過去
1. 黄昏の商店街
公園を出ると、冬の日差しはすでに橙色を帯び、街全体の影を長く伸ばしていた。
「こっちです。少し歩きますが、大丈夫ですか?」
瀬尾は一歩前を歩きながら、時折、水城の歩幅を気にするように振り返る。
「はい、大丈夫です。むしろ、少し歩いた方がお腹が空いていいかもしれません」
二人が向かったのは、駅から数分歩いた路地裏にある、小さな商店街だった。
チェーン店の明るい看板が並ぶ駅前とは違い、そこには個人経営の豆腐屋や、軒先に野菜を並べた八百屋が静かに息づいている。
「ここです。……『めし処・あかり』。名前はちょっと古臭いんですけど、ここの店主、お米にはものすごくうるさいんですよ」
案内されたのは、使い込まれた木の引き戸がある、こぢんまりとした定食屋だった。
戸を開けると、温かな出汁の匂いと、炊きたてのお米の甘い香りが、冷え切った二人の体を包み込んだ。
「いらっしゃい。おっ、瀬尾さん。珍しいね、連れなんて」
カウンターの奥から、ねじり鉢巻きを締めた初老の店主が声をかける。
「……あ、はい。今日は、大切なお客さんなので」
瀬尾が少し照れくさそうに、けれどはっきりと「大切な」と言ったことに、水城の胸が小さく跳ねた。アプリで出会った男たちが予約した、銀座の高級店のような過剰な演出はない。けれど、この店に漂う生活の匂いと、店主の信頼を含んだ声は、どんなシャンパンよりも水城の心を解きほぐした。
2. ひと匙の幸福
二人は奥の座敷席に座った。
「ここは、焼き魚が一番なんですけど、今日は特に銀だらの西京焼きがいいですよ。お米は……今日は山形の『つや姫』ですね」
瀬尾はメニューも見ずに、慣れた手つきでお茶を淹れながら言った。
「瀬尾さんにお任せします。……お米の種類まで分かるなんて、本当に好きなんですね」
「好きというより、救われているんだと思います」
瀬尾は、湯呑みから立ち上がる湯気を見つめながら、ぽつりと言った。
「一日の終わりに、美味しいお米を食べて、温かいお味噌汁を飲む。それだけで、明日もなんとかやっていけるなって思えるんです」
運ばれてきた料理は、宝石のように美しかった。
艶やかに炊き上がった白米。ふっくらとした銀だら。出汁の香りが立つお味噌汁。
水城は、まずお米を一口運んだ。
「……美味しい」
噛むほどに広がる甘みと、一粒一粒が立っているような食感。
これまで、仕事の合間に流し込んできたコンビニのおにぎりや、義務のように食べていたサラダとは、根本的に違う「食べ物」だった。
「よかった。……水城さんが、美味しそうに食べてくれるのが一番嬉しいです」
瀬尾のその言葉には、下心も計算もなかった。ただ、自分が愛しているものを、同じように愛してくれたことへの純粋な喜び。
水城は、不意に視界が潤むのを感じた。
「私、最近、何を食べてるか分からなくなってたんです。アプリで誰かと会う時も、味なんて二の次で、いかに失礼がないように振る舞うか、いかに相手を値踏みするか、そればっかり考えて……」
箸を置き、水城は深く息を吐いた。
「でも、今、すごく幸せです。お米が美味しいって思えることが、こんなに安心するなんて」
3. 語られなかった過去、残された傷
食事が進むにつれ、会話は自然と、お互いの過去へと移っていった。
「……三年間、一緒にいた人のこと。もし、辛くなければ、聞いてもいいですか?」
瀬尾が、慎重に、けれど真っ直ぐに尋ねた。
水城は、健吾のことを話した。
彼がいかに優しかったか。彼との生活がいかに平穏だったか。そして、その平穏の中に「子供」というピースだけが、どうしてもはまらなかったこと。
「別れた後、自分を責めました。私がもっと歩み寄ればよかったのか、それとも、私が我慢すればよかったのかって。でも、一度芽生えてしまった『家族が欲しい』という気持ちは、どうしても消せなかったんです」
瀬尾は、黙って聞いていた。口を挟まず、ただ彼女の言葉を一つ一つ受け止めるように。
「……僕も、似たような経験があります」
瀬尾が、少し重い口を開いた。
「二十代の後半、結婚を考えていた人がいました。でも、彼女は仕事で海外に行きたがっていて、僕は日本で安定した生活を送りたかった。……結局、彼女は僕を選ばず、夢を選びました。彼女を責めることはできないけれど、当時の僕は『自分には価値がないんだ』って、強く思い込んでしまった」
彼は自嘲気味に笑った。
「だから、アプリを始めても、自分のスペックを低く見積もってしまって。年収も見た目も普通以下だし、誰かに選ばれるはずがないって、心のどこかで諦めていたんです。……でも、水城さんのあのプロフィールを読んだとき、初めて『この人に会いたい』って思った」
「どうしてですか?」
「『一人の部屋が広すぎる』って書いてあったからです。僕も、同じことを思っていた。一人の時間は自由だけど、その自由が時々、耐えられないほど重くなる。……水城さんの言葉は、飾っていなくて、僕の心の穴にぴったり重なったんです」
4. 条件の外側、家族の輪郭
「子供のこと」についても、二人は避けることなく言葉を交わした。
アプリの男たちが「いつまでに何人」「教育方針は」と、プロジェクトの進捗確認のように聞いてきた内容。けれど、瀬尾との会話は、もっと柔らかいものだった。
「僕にとっての家族は、この定食屋さんみたいな場所なんです」
瀬尾は、店内を見渡しながら言った。
「派手なことはないけれど、帰ってくれば温かい灯りがついていて、同じものを食べて『美味しいね』って言える。子供がいれば、その食卓がもっと賑やかになるだろうし、いなければ二人でその静けさを慈しめばいい。……もちろん、水城さんが望むなら、僕は全力でその未来に向き合いたい」
「向き合う……?」
「はい。努力も、覚悟も。……でも、何より大切にしたいのは、水城さんと一緒にいる今この瞬間です。子供のために誰かを探すんじゃなくて、水城さんといたいから、その先に家族が見える。……そういう順番でありたいんです」
その言葉は、水城がずっと渇望していた答えだった。
健吾がくれなかった「未来への覚悟」と、アプリの男たちが持っていなかった「相手への敬意」。
その両方が、目の前の地味なセーターを着た男の中に、確かに存在していた。
「瀬尾さん」
水城は、自分でも驚くほど素直な声を出した。
「私、恋愛って面倒なものだと思っていました。でも、今、瀬尾さんと話している時間は、ちっとも面倒じゃないです。……もっと、瀬尾さんの炊いたお米の話、聞きたいです」
5. ログアウトの向こう側
店を出ると、外はすっかり夜の帳が下りていた。
商店街の街灯が、二人の影をアスファルトに映し出している。
「……今日は、ありがとうございました。本当に美味しかったです」
「こちらこそ。……水城さん、もしよかったら」
瀬尾が、少し立ち止まって振り返った。
「アプリ……退会しませんか?」
水城は目を見開いた。
「……え?」
「あ、すみません。強引でしたよね。でも、僕はもう、あのカタログみたいな画面に戻る必要はないって思ったんです。……水城さんと出会えたから」
水城は、自分のコートのポケットにあるスマートフォンに触れた。
そこには、まだ返信していない見知らぬ男たちからのメッセージが詰まっている。
けれど、もう、それを開く必要がないことは、自分でも分かっていた。
「……はい。私も、同じことを思っていました」
水城は、その場でスマートフォンを取り出した。
冷たい空気の中で、青白い画面が光る。
設定画面を開き、退会ボタンを押す。
『退会理由を教えてください』という無機質な問い。
水城は、心の中で「大切な人に出会えたから」と呟き、チェックを入れた。
『退会が完了しました。ご利用ありがとうございました』
画面が消える。
今まで自分を縛り付けていた「条件」や「格付け」という鎖が、音を立てて外れたような気がした。
「……消しました」
「僕も、今、消しました」
二人は、顔を見合わせて笑った。
それは、33歳の大人同士の、ひどく不器用で、けれど何よりも誠実な、新しい関係の始まりの合図だった。
「瀬尾さん、次は……私がお勧めするパン屋さん、行きませんか?」
「はい。楽しみにしてます」
並んで歩き出す二人の間には、まだ少しの距離がある。
けれど、その距離は、時間をかけてゆっくりと埋めていけばいい。
恋愛は、面倒だ。
でも、その面倒くささを丸ごと抱きしめられる相手が隣にいるのなら、それは何物にも代えがたい「人生の豊かさ」に変わる。
水城の歩き出す足取りは、もう「カタログの中の迷子」のものではなかった。




