呼吸の音、言葉の熱
第四章:呼吸の音、言葉の熱
1. 境界線の向こう側
約束の土曜日は、皮肉なほど穏やかな快晴だった。
雲ひとつない冬の空は、透き通るような青さを湛え、街路樹の枝先が冷たい風に小さく震えている。
水城は、約束の十五分前には公園の入り口に立っていた。
クローゼットの前で一時間以上悩んだ末に選んだのは、柔らかなベージュのカーディガンと、履き慣れたストレッチ素材のパンツ。気合の入りすぎた勝負服でもなければ、自分を卑下するような部屋着でもない。今の自分が一番「自分らしく」いられる格好だった。
(……心臓の音が、耳元まで聞こえてきそう)
手袋の中で、指先が冷たくなっている。
アプリで何人もの男性と会ってきたはずなのに、これまでの「面接」のような高揚感とは全く違う、もっと根源的な恐怖と期待が入り混じっていた。
これまでは、自分を「よく見せる」ための武装をしていた。けれど今日は、あの不器用なプロフィールを晒してしまった後の、丸裸の自分でここに来ている。
視線を上げると、ベンチの近くで、一人の男性が所在なげに立っているのが見えた。
地味なネイビーのコートに、黒いリュック。少し猫背気味の背中。
写真で見た通りの、けれど写真よりもずっと「そこに体温がある」ことが伝わってくるシルエット。
「……あの、瀬尾さん、ですか?」
声をかけると、彼はビクッとして肩を揺らした。
ゆっくりと振り返った彼の顔は、冬の寒さのせいか、それとも緊張のせいか、鼻の末端が少しだけ赤くなっていた。
「あ、はい。……水城、さん」
二人の間に、数秒の沈黙が流れる。
スマートフォンの画面越しには、何千文字という言葉を交わしてきた。月の綺麗さや、パンの匂いや、お米を炊く音。けれど、実際に目の前にして「声」が重なった瞬間、それらの言葉は一度すべて白紙に戻されたような、不思議な無重力状態に陥った。
「はじめまして」
「はじめまして……」
お互いに深々と頭を下げる。
33歳。いい大人が、公園の入り口で中学生のように緊張している。その滑稽さが、不思議と水城の心を少しだけ解きほぐした。
2. 震える声、不器用な歩み
「……少し、歩きましょうか。座っていると、凍えてしまいそうなので」
瀬尾が控えめに提案し、二人は並んで公園の遊歩道を歩き始めた。
足元で、枯れ葉がカサリと音を立てる。
しばらくの間、会話は途切れがちだった。
「今日は晴れてよかったですね」「そうですね」「でも、風は冷たいですね」「そうですね」。
アプリで会う男たちは、この沈黙を恐れて必死に話題を振ってきた。自分の有能さ、趣味の広さ、将来の展望。けれど瀬尾は、沈黙を無理に埋めようとはしなかった。ただ、水城の歩幅に合わせて、ゆっくりと靴音を響かせていた。
「……すみません、僕、やっぱり対面だと全然喋れなくて」
瀬尾が、自嘲気味にポツリと言った。
「いえ、私もです。メッセージだとあんなに偉そうなこと書いてたのに、いざとなると何を話していいか……」
「でも」と、瀬尾は歩みを止めずに続けた。
「水城さんがメッセージで言ってくれた『パン屋さんの匂い』とか『仕事帰りの月』の話。……あれ、本当によく分かります。僕も、そういう小さなことを誰かに話したくて、でも話し相手がいなくて。……だから、今日ここに来るのが、実は怖かったんです」
「怖い?」
「はい。会ってみて、やっぱり僕みたいな地味な男とは合わないって思われたらどうしようって。アプリの人たち、みんなキラキラしてるじゃないですか。僕だけ、取り残されてるみたいで」
水城は、彼の横顔を盗み見た。
そこには、自分と同じ「場違いな場所で必死に呼吸をしようとしている人間」の震えがあった。
3. なぜ、私たちはここにいるのか
公園の奥にある、日当たりの良いベンチを見つけて腰を下ろした。
瀬尾が自販機で買ってきた温かいお茶を渡してくれる。缶の熱が、冷え切った掌に心地よい。
「瀬尾さん」
水城は、温かいお茶を一口飲んでから、ずっと聞きたかったことを口にした。
「瀬尾さんは……どうして、アプリを始めたんですか? ああいう場所、瀬尾さんは一番苦手そうなのに」
瀬尾は視線を落とし、手の中の缶をじっと見つめた。
しばらくして、彼は絞り出すように言った。
「……寂しかったんです。情けないですけど。毎日仕事に行って、帰ってきて、一人でご飯を食べて。別に、生活に困っているわけじゃない。でも、美味しいものを食べた時に『美味しいね』って言える相手がいないことが、じわじわと毒みたいに効いてきて」
彼はふう、と白い息を吐いた。
「でも、周りはみんな結婚して、子供がいて。僕だけが立ち止まっているような気がして、焦ってアプリを入れました。でも、入ってみたらそこは戦場で。年収とか、趣味とか、いかに自分が『価値のある商品か』をアピールしなきゃいけない。僕はそれができなくて、何度もやめようと思いました。……水城さんのプロフィールを見つけるまでは」
彼は顔を上げ、少しだけ水城の方を見た。
「水城さんは、どうしてですか?」
水城は、冬の枯れ木を見上げた。
「私は……子供が欲しかったからです」
隠さずに言った。それは彼女の人生において、最も重く、最も誠実な本音だった。
「三年間付き合った人がいました。大好きだったし、一緒にいて楽しかった。でも、彼は子供を望んでいなかった。話し合っても平行線で……。結局、お互いに納得して別れました。でも、別れてから気づいたんです。私はただ『子供という記号』が欲しいわけじゃない。大好きな人と家族になって、その延長線上に子供がいる未来が欲しかったんだって」
言葉にすると、胸の奥が熱くなる。
「焦っていました。33歳だし、今すぐ誰かを見つけないと間に合わないって。だからアプリを始めて、必死に『正解』を探した。でも、会う人会う人、みんな私の『条件』しか見ていなかった。私も、相手を『条件』でしか見ていなかった。……恋愛って、こんなに事務的なものだったっけ? って、虚しくなっちゃって」
水城は苦笑いしながら続けた。
「だから、あのプロフィールを書いたんです。もう誰からも選ばれなくていい、ただ、私という人間を面白がってくれる人が一人いればいい、って。……そしたら、瀬尾さんが足あとをつけてくれた」
4. 溶け出す境界線
沈黙が訪れた。けれど、今度の沈黙は、最初のような拒絶の沈黙ではなかった。
お互いの孤独と、不器用さと、切実な願いを差し出した後の、穏やかな共有の時間。
「……僕も、子供は欲しいと思っています」
瀬尾が、静かに言った。
「でも、水城さんが言った通りです。条件として、いつまでに何人欲しいとか、そういう話じゃない。……今日みたいに、一緒に歩いて、お茶を飲んで、美味しいおにぎりを食べて。そんな時間の積み重ねの先に、自然とそういう未来があればいいな、と。……あ、生意気なこと言ってすみません」
「いえ、嬉しいです。すごく」
水城は、手の中の缶をぎゅっと握りしめた。
健吾との別れで負った傷。アプリの男たちに削られた心。
そのすべてが、この静かな公園の空気の中で、少しずつ癒えていくのを感じた。
「あの、水城さん」
瀬尾が、少し緊張した面持ちで立ち上がった。
「もしよければ……この後、僕の知っている、本当に美味しいお米を使っている定食屋さん、行ってみませんか? 洒落たお店じゃないんですけど」
水城は顔を上げ、彼を見た。
彼の目は、アプリのプロフィール写真の時よりも、ずっと光を湛えていた。
「はい。ぜひ、行きたいです」
水城も立ち上がった。
カーディガンの裾を整え、彼と並んで歩き出す。
恋愛は、確かに面倒だ。
自分を説明し、相手を理解し、お互いの人生を擦り合わせる。その膨大な手間を思うと、今でも眩暈がする。
けれど、隣を歩くこの男性となら、その「面倒くささ」さえも、ゆっくりと丁寧に、一緒に味わっていけるような気がした。
公園の出口へ向かう足取りは、来た時よりもずっと軽かった。
33歳。
条件というカタログを閉じ、彼女は今、一人の人間として、新しい一歩を踏み出した。




