偽りの仮面を脱ぐ日
第三章:偽りの仮面を脱ぐ日
1. 鏡の中の書き換え
深夜二時。スマートフォンの放つ青白い光が、水城の無表情な顔を照らしていた。
画面には、以前「当たり」だと思って会った男たちとの、冷え切ったやり取りの残骸が並んでいる。下心しか感じられなかった翔太のメッセージは、あの日以来、開くことさえしていない。誠実そうに見えて「効率」を連呼した誠司とのログも、今となってはただの事務連絡のように見えた。
(私は、何を売っているんだろう)
ふと、自分のプロフィール画面を眺めてみる。
そこには『33歳・事務職』という記号と、恵に撮ってもらった「奇跡の一枚」――いつもの自分よりも三割増しで華やかに笑う、偽りの微笑みが貼り付けられていた。
自己紹介文もそうだ。「明るい性格です」「休日はカフェ巡りをしています」「子供を希望します」。
それは、マッチングアプリという市場で「売れ残らないため」に、どこかの誰かが書いた正解をなぞっただけの、血の通わない宣伝文句だった。
「……もう、いいや」
水城は、突発的な衝動に突き動かされるように『編集』ボタンをタップした。
消去。消去。消去。
虚飾に満ちた言葉を、指先ですべて削ぎ落としていく。
新しく書き込んだのは、誰かに選ばれるための言葉ではなかった。
『三年間付き合った人と、将来の考え方が違ってお別れしました。
今は、一人で過ごす静かな部屋が、少しだけ広すぎると感じています。
お洒落なカフェよりも、近所の古いパン屋さんの匂いが好きです。
雨の日の湿ったアスファルトの匂いや、仕事帰りに見上げる月を、
「綺麗だね」と言い合える誰かと、ゆっくり歩いていけたらいいなと思っています。
子供が欲しいという気持ちは変わりません。
でもそれは、条件としてではなく、この人と家族になりたいと思えた先の、
自然な未来であってほしいと願っています。』
書き終えた時、深い溜息が漏れた。
こんなプロフィール、誰の目にも留まらないかもしれない。効率を求める男たちから見れば、「重い」あるいは「情緒的すぎて面倒」だと切り捨てられるだろう。
でも、不思議と心は軽かった。ようやく、自分の言葉で呼吸ができたような気がした。
2. 予感の足跡
それからの数日間、アプリへの通知は劇的に減った。
以前なら、一晩で数十件届いていた「いいね!」が、今や一日に一件あるかないか。
けれど、水城はその静けさを心地よく感じていた。届くメッセージも、以前のような定型文ではなく、「パン屋さんの話、分かります」といった、少しだけ温度を感じるものが増えていた。
ある日の昼休み。
お弁当を済ませ、習慣的に『足あと』のリストを開いた時のことだ。
(……あ。)
リストの一番上に、あの名前があった。
「瀬尾」。
以前、そのあまりに地味で実直なプロフィールに目を奪われた、あの男だった。
彼は水城に「いいね!」を送ってきたわけではない。ただ、彼女の新しいプロフィールを訪れ、静かに去っていったことを示す履歴だけが、そこに残されていた。
水城の胸が、ドクンと音を立てた。
彼は、私のあの不器用な言葉を読んでくれたのだろうか。
『お米を炊くのが好きだ』と言っていた彼なら、あの『パン屋さんの匂い』や『仕事帰りの月』の話を、どんな風に受け止めてくれただろう。
(メッセージ……送ってみようかな)
33歳。自分から動くことへの、言いようのない気恥ずかしさと恐怖がある。
もし無視されたら。もし彼も、会ってみたら期待外れの男だったら。
一度閉じかけた心を、もう一度開くのは、何倍もの勇気がいる。
午後、仕事をしていても、瀬尾の名前が頭の片隅にこびりついて離れなかった。
計算ずくの恋愛なら、ここで待つのが正解かもしれない。でも、今の水城が求めているのは、計算の成り立たない場所にある、誰かの「本音」だった。
3. 一通目の、震える指
その夜。水城は入浴を済ませ、一番お気に入りのハーブティーを淹れてから、決心してスマートフォンを手に取った。
瀬尾のプロフィール画面をもう一度開く。
やはり、写真は地味なセーターを着た、風景と同化したような横顔。
けれど、その背中が、今は以前よりもずっと身近に感じられた。
(失敗してもいい。これが、私の最後の「悪あがき」でいい)
彼女は、定型文を一切使わずに、メッセージを打ち込んだ。
『はじめまして、水城と言います。
瀬尾さんの「お米を炊くのが好きだ」という一文が、ずっと心に残っていました。
私は最近、自分のプロフィールを書き換えました。
誰かに選ばれるための言葉を並べるのに、疲れてしまったからです。
もし、瀬尾さんが私の書いた「パン屋さんの匂い」の話を、
少しでも「いいな」と思ってくださったのだとしたら、
一度、お話ししてみたいと思いました。
突然のメッセージ、すみません。』
送信。
画面から指を離した瞬間、心臓が耳元で鳴っているのが分かった。
33年生きてきて、これほどまでに無防備な自分を誰かにさらけ出したことはなかった。
十分。三十分。一時間。
返信は来ない。
「やっぱり、変な女だと思われたかな」
後悔の念が押し寄せ、水城は枕に顔を埋めた。恋愛はやっぱり面倒だ。こんなに一喜一憂して、自分の価値を他人に委ねるような感覚は、もう二度と味わいたくないと思っていたはずなのに。
半分諦めて眠りにつきそうになった頃、枕元でスマートフォンが短く震えた。
4. 記号ではない会話の始まり
恐る恐る画面を覗き込む。
送り主は、瀬尾だった。
『はじめまして、瀬尾です。
メッセージ、ありがとうございます。
実は……何度も水城さんのプロフィールを読み返していました。
「足あと」ばかりつけてしまって、すみません。
水城さんの書かれた文章、とても素敵だと思いました。
特に「月の綺麗さを言い合える誰か」という言葉を読んだとき、
自分勝手ですが、僕もずっとそんな人を探していたような気がしたんです。
僕は口下手で、アプリの使い方もよく分かっていませんが、
もしよろしければ、僕の炊いたお米の話も、聞いていただけますか?』
文字を目にした瞬間、水城の視界が、じわりと潤んだ。
そこに書かれていたのは、スペックの提示でも、自分を大きく見せるための虚勢でもなかった。
不器用で、けれど真摯な、一人の男の「声」だった。
それからの二人のやり取りは、まるで乾いた大地に水が染み込むように、自然で、それでいて深いものになっていった。
『水城さん。今日は仕事の帰りに、例のパン屋さんの前を通りました。
本当に、幸せな匂いがしました。
明日の朝が楽しみになる匂いですね。』
『瀬尾さん。分かります。
私は今日、久しぶりに月を見上げました。
少し欠けていたけれど、すごく明るくて。
瀬尾さんにも見えていればいいな、なんて思ってしまいました。』
交わされる言葉に、結婚への焦りや、子供への義務感は、すぐには出てこなかった。
けれど、日々の何気ない断片を共有していく中で、水城は確信し始めていた。
これまでの男たちが掲げていた「効率」や「条件」よりも、この「パンの匂い」や「月の光」を共有できる感覚こそが、自分にとっての「家族」の土台になるのではないかと。
一週間が過ぎた頃。
どちらからともなく、「一度会いましょうか」という言葉が紡がれた。
約束の場所は、銀座の洒落たレストランでも、恵比寿のバーでもない。
二人の住む場所の中間地点にある、ごく普通の、静かな公園だった。
「お互い、ハードルを上げすぎないようにしましょう」
そう笑って送ってきた瀬尾のメッセージに、水城は心から安らいだ笑顔で、
「はい、普段着で行きますね」
と返した。
恋愛は、確かに面倒だ。
でも、その面倒くささを一緒に面白がれる相手がいるのなら。
水城は、クローゼットの中から一番自分らしい、柔らかな色のカーディガンを選んだ。
33歳。新しく始まる物語のページを、彼女は自分の指で、静かにめくろうとしていた。




