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スクロールの指を止めて、深呼吸  作者: 久遠 睦


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カタログの中の迷子、あるいは効率的な絶望

第二章:カタログの中の迷子、あるいは効率的な絶望


1. 終わらない面接

スマートフォンの画面が放つ青白い光は、夜を追うごとに水城の生活を侵食していった。

マッチングアプリ。それは、現代の魔法の杖であり、同時に最も残酷な格付け会場でもある。

登録してから一週間。水城の元には、驚くほどの数の「いいね!」とメッセージが届いていた。かつての合コンや紹介であれば、一ヶ月に一人出会えれば良い方だったのが、今や指先一つで一日に数十人の人生を覗き見ることができる。

『はじめまして! プロフィールの雰囲気がとても素敵だったのでメッセージしました』

『趣味が旅行なんですね。最近はどこに行かれましたか?』

『仕事、大変そうですね。僕も同じ業界なので分かります』

最初は丁寧に応答していた。けれど、三日も経てば気づく。相手を変え、名前を変えても、交わされる会話は驚くほど似通っている。

「趣味は何ですか?」「休日は何をしていますか?」「どんなタイプが心惹かれますか?」

それは、出会いというよりは「一次面接」だった。

「私、何やってるんだろう」

深夜一時。明日の仕事のために寝なければならないのに、未読のメッセージを示す赤い数字が気になって眠れない。

返信を怠れば、せっかくの「チャンス」を逃すかもしれないという強迫観念。一方で、誰に送ったかも定かではない定型文を打ち込み続ける自分への嫌悪感。

恵が言った「ゲーム感覚」という言葉を思い出す。けれど、水城はこのゲームのルールが分からなかった。ポイントを稼いでも、ゴールがどこにあるのかが見えない。

画面をスクロールする。

年収、身長、学歴、家族構成。

「子供が欲しい」という項目にチェックを入れている男性を優先的に見ていく。けれど、その条件を満たす相手であれば誰でも良いのかと問われれば、答えは「否」だ。

条件をクリアした先に、かつての健吾と過ごしたような「体温」があるのか。それとも、条件という壁を積み上げた先に待っているのは、単なる契約関係なのか。

水城の指は、次第に「スクロール」という作業そのものに麻痺していった。


2. 「普通」という名の空白

アプリを始めて二週間。水城は初めて「実際に会う」という段階に踏み切った。

相手は、35歳のメーカー勤務、誠司せいじさん。

メッセージのやり取りは穏やかで、学歴も年収も水城が提示した条件を完璧に満たしていた。写真は少し真面目すぎる印象だが、清潔感がある。恵に報告すると「当たりじゃない! 逃しちゃダメだよ」と太鼓判を押された相手だった。

日曜日の午後。銀座の、少し背伸びをしたようなティーサロン。

「初めまして。水城さんですよね」

現れた誠司さんは、写真よりも少しだけ疲れた顔をしていた。

「あ、はい。初めまして、水城です」

会話は、驚くほどスムーズだった。

彼は仕事の話、週末のジムの話、最近読んだビジネス書の話を、淀みなく話してくれた。聞き上手な水城は、適度な相槌を打ちながら彼を観察する。

彼は確かに「良い人」だった。店員への態度も丁寧で、話題も豊富。条件も申し分ない。

けれど、一時間が経過した頃、水城は猛烈な「帰りたさ」に襲われていた。

目の前の男性と、あと何時間一緒にいられるだろうか。

彼の話す言葉は正しい。けれど、その言葉は水城の心のどこにも触れてこない。

健吾となら、ただ沈黙してコーヒーを飲んでいるだけでも、その場の空気が満たされていた。けれど誠司さんとの間にあるのは、言葉で埋め尽くさなければ崩れてしまうような、危うい「空白」だった。

「水城さんは、将来についてどうお考えですか?」

不意に、彼が核心に触れてきた。

「ええと……。アプリのプロフィールにも書きましたが、私はやはり、家族が欲しいと思っています。子供も含めて」

誠司さんは深く頷いた。

「同感です。僕も、そろそろ親を安心させたいし、教育環境を整えるための貯蓄も始めています。効率的に人生を設計していきたいですよね」

効率。

その言葉に、水城は冷や水を浴びせられたような感覚を覚えた。

彼は家族を「設計図」として捉えている。そこに「誰と」という彩りは、二の次のように聞こえた。

「……そうですね。計画性は大事だと思います」

笑顔で答える自分の声が、どこか遠くで響いている。

結局、その日は「また連絡しますね」という社交辞令を交わして解散した。

駅に向かう雑踏の中で、水城は大きく深呼吸をした。

誠司さんは何も悪くない。条件も合っている。けれど、彼ともう一度会いたいとは思えなかった。

「私、贅沢なのかな」

独り言は、地下鉄の騒音に消えた。


3. 深夜の獣、逃げた足音

誠司さんとの一件で少し意気消沈した水城だったが、恵からの「一回で決まるわけないじゃん、千本ノックだよ!」という励まし(あるいは煽り)を受け、二人目の男性と会うことにした。

今度は少し趣向を変えてみた。31歳の外資系金融、翔太しょうたさん。

年下だが、メッセージのノリが良く、水城の疲れを吹き飛ばしてくれるような明るさがあった。

「銀座でお茶なんて肩苦しいでしょ。恵比寿で軽く飲みません?」

金曜日の夜。

指定されたのは、少し照明の落ちたお洒落なバルだった。

翔太さんは、モデルのようなルックスをしていた。会話も誠司さんとは正反対で、冗談を交えながら水城を笑わせてくれる。

「水城さん、マジで33歳? 20代に見えますよ。アプリにこんな綺麗な人いるなんて思わなかったな」

分かりやすいお世辞だと分かっていても、健吾と別れてから乾燥していた心に、その言葉は心地よく響いた。

お酒が進むにつれ、翔太さんの距離が近くなる。

カウンター席で、ふとした瞬間に肩が触れる。

健吾以外の男性に触れられるのは、三年ぶりだった。

「ねえ、次のお店、もっと静かなところに行かない?」

二軒目のバーを出たのは、日付が変わる頃だった。

翔太さんの足取りは少しおぼつかないふりをして、水城の腰に手を回してきた。

「……翔太さん、ちょっと飲みすぎじゃないですか?」

「そんなことないよ。ねえ、この近くにさ、すごくいいホテルがあるんだ。そこでゆっくり話さない?」

心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

「……ホテル? いえ、明日は早いので、帰ります」

水城の手を振り払おうとするが、彼の指の力は意外なほど強かった。

「いいじゃん、大人なんだし。最初からそのつもりで来たんでしょ? 33歳でしょ、余裕あるよね?」

その言葉に含まれた「33歳」という響きには、明らかな侮蔑と、性的な対象としてしか見ていない下卑た欲望が混じっていた。

水城の頭から血の気が引く。

「……やめてください!」

強引に手を振り切り、ちょうど通りかかったタクシーに飛び乗った。

「お客さん、大丈夫?」

運転手の声にも答えず、水城はバックミラー越しに、歩道に立ち尽くす翔太さんの姿を見た。彼は追ってくる様子もなく、ただ面倒くさそうにスマホを操作し始めていた。おそらく、次の「ターゲット」を探しているのだろう。

帰宅し、震える手で玄関の鍵を閉める。

部屋の明かりもつけず、玄関のたたきに座り込んだ。

涙は出なかった。ただ、猛烈な汚物感だけが全身を支配していた。

メッセージのやり取りで感じたあの「楽しさ」は、すべてこの結末への伏線だったのか。

「真面目な出会い」と謳いながら、その裏側に潜むのは、肉体を消費し合うだけの虚無。

「恋愛って……こんなに、惨めなものだったっけ」

暗闇の中で、スマホが震えた。

また新しい「いいね!」が届いたのだ。

水城はそのスマホを、まるで毒蛇でも見るような目で睨みつけ、部屋の隅へ放り投げた。


4. 鏡の中の砂漠

翌日、水城は一日中ベッドから出られなかった。

昨夜の翔太さんの言葉が、呪文のように頭の中でリピートされる。

「33歳でしょ、余裕あるよね?」

社会的には一人前として扱われ、仕事でも責任ある立場。けれど、婚活という市場に一歩足を踏み入れれば、自分は「賞味期限」をカウントダウンされる商品に過ぎない。

子供が欲しい。家族が欲しい。

その切実な願いさえも、ここでは単なる「スペック」の一つとして処理され、あるいは欲望の付け入る隙として利用される。

「恵、私、もう無理かも」

電話越しに弱音を吐くと、恵は珍しく真剣なトーンで返してきた。

「水城……。ごめんね、そんな奴に当たっちゃって。でもね、それが今のリアリティなの。アプリは効率がいい分、人間の悪いところも効率よく見えちゃうのよ」

「みんな、同じに見えるの。スペックが良くても心がなくて、心がなさそうな奴は欲望だけで……。私、恋愛の仕方を忘れちゃったみたい」

「忘れていいんだよ。今は一回、休み。恋愛なんて、仕事みたいに頑張ってやるもんじゃないから」

恵の言葉に救われた気がしたが、電話を切った後の静寂は、以前よりも深くなっていた。

テレビをつけても、SNSを見ても、そこには「幸せのサンプル」が溢れている。

けれど、水城のいる場所は、そのサンプルからは程遠い砂漠のようだった。

数日が過ぎ、水城は再び、無味乾燥な日常に戻った。

会社に行き、仕事をこなし、コンビニで夕食を買って帰る。

時々、癖でアプリを開いてしまう。

そこには、相変わらず無数の顔写真が並んでいる。

「年収800万」「趣味はサウナ」「誠実な出会いを求めています」

言葉の羅列。

それらは、水城にとってはもはや、記号以上の意味を持たなかった。

「もう、誰も信じられないな」

そんな時だった。

退会画面へ進もうとする水城の指が、あるプロフィールの前で止まった。

それは、華やかな写真も、自慢げな経歴もない、ひどく地味なプロフィールだった。

写真は、どこかの公園で撮ったような、少しボケた風景。そして二枚目に、不器用そうに笑う、地味なセーターを着た男性の横顔。

名前は、瀬尾。

自己紹介文は、たったの三行。

『派手な生活はできませんが、毎日美味しいお米を炊くのが好きです。

古い映画を観るのと、散歩が趣味です。

ゆっくりと、誰かと日常を積み上げていけたらいいなと思っています。』

その、あまりにも時代錯誤で、効率とは無縁の言葉たちが、水城の乾いた心に、一滴の雫のように落ちた。

これが、後の運命の出会いになるとは、この時の水城はまだ知る由もない。


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