正しいお別れ、静かな部屋
第一章:正しいお別れ、静かな部屋
1. 凪のような終焉
「……分かってる。水城が言いたいことは、全部」
キッチンカウンター越しに、健吾が低く、掠れた声を出した。
テーブルの上に置かれたマグカップからは、もう湯気は立っていない。三年間、この部屋で何度も繰り返されてきた光景。けれど、今日この場所にある空気は、これまでとは決定的に違っていた。重く、冷たく、そしてひどく透明だった。
「分かってるなら、どうして」
水城は自分の声が震えないように、膝の上で拳を握りしめた。
「どうして、やり過ごそうとするの。私は、あなたとの子供が欲しい。健吾と家族になりたいの。それは、ただ一緒にいたいっていうのとは別の、未来の話なんだよ」
健吾は視線を落とし、組んだ指を見つめている。彼は優しい男だった。水城が風邪を引けば深夜でもゼリーを買いに走り、仕事で失敗すれば朝まで愚痴を聞いてくれる。彼と一緒にいる時間に不満なんて一つもなかった。ただ一点、「子供」という未来のピースを除いては。
「僕は、水城がいればそれでいいんだ」
健吾は絞り出すように言った。
「二人で旅行に行って、美味しいものを食べて、年を取っても手を繋いで歩く。そんな未来で、僕は十分に幸せだ。……でも、そこに子供がいるイメージが、どうしても持てない。君を愛しているからこそ、嘘をついてまで『いつか欲しいね』とは言えないんだ」
平行線。
それは、どれだけ歩いても交わることのない、残酷なまでに正しい二本の線。
どちらかが折れればいい、という問題ではなかった。これは人生の「核」の部分だ。相手を尊重すればするほど、自分を曲げることは相手を騙すことと同じになってしまう。
「……そうだね。健吾は、嘘をつけない人だもんね」
水城の目から、不意に一粒の涙がこぼれた。
悲しいというより、どこか「終わってしまった」という安堵に近い感覚だった。33歳という年齢。世間が「まだ若い」と言いながら、その実、背後に見えないタイムリミットを突きつけてくる年齢。
「お別れしよう、健吾」
その言葉を口にした瞬間、三年の月日がパラパラと音を立てて崩れ、ただの記憶へと形を変えた。
2. ひとり分の生活
健吾が荷物をまとめて出て行ったのは、それから一週間後のことだった。
「荷物、これだけでいいの?」
「ああ。また足りないものがあったら連絡するよ。……いや、連絡しないほうがいいか」
玄関で靴を履き、彼は少しだけ笑った。その寂しげな微笑みさえ、水城にとっては愛おしく、そして苦しかった。
扉が閉まる。カチリ、という小さな金属音が、水城の新しい生活の合図だった。
静かだ。
これほどまでに、自分の部屋が静かだったことはない。
テレビをつけていれば、あるいはスマホで動画を流していれば気づかなかったかもしれないが、無音の空間に身を置くと、冷蔵庫のモーター音や、遠くを走る車の走行音が、驚くほど鮮明に耳に届く。
33歳、独身。
会社では中堅として頼られ、後輩の指導に追われ、深夜に疲れ果てて帰宅する。
かつては健吾が「おかえり」と言ってくれた。あるいは、彼の脱ぎ捨てた靴下があるだけで、自分の居場所を実感できた。
けれど今は、シンクに置かれたマグカップは一つだけ。
洗濯物も半分に減った。
セミダブルのベッドは、寝返りを打っても余りあるほどに広い。
「……何やってるんだろ、私」
お風呂上がり、スキンケアをしながら鏡を見つめる。
目尻に現れ始めた小さな乾燥小じわ。
20代の頃のような「根拠のない自信」はもうない。けれど、40代のような「悟り」も開けていない。
「子供が欲しい」という願いは、本能なのか、それとも社会的な強迫観念なのか。自分でも分からなくなる時がある。でも、街で見かける親子連れを見て、胸の奥がキュッと締め付けられるあの感覚だけは、紛れもない真実だった。
3. ルーティンの檻
それからの毎日は、驚くほど単調だった。
朝7時に起き、白湯を飲み、メイクをして、満員電車に揺られる。
会社では淡々とタスクをこなし、昼休みは同僚と他愛もない話をしながらコンビニのサラダを食べる。
「水城さん、最近顔色いいですね。吹っ切れた感じ?」
後輩にそう言われ、「そうかな」と曖昧に笑う。
吹っ切れたのではない。ただ、感情の波を立てないように、静かな海を漂っているだけなのだ。
夜、スーパーに寄ると、つい「二人分」の食材を手に取りそうになる。
鶏肉のパックを手に取っては、一人分には多すぎると気づいて戻す。
結局、いつものお惣菜と、一本の缶チューハイ。
帰宅して、静かな部屋でそれを胃に流し込む。
スマホを開けば、SNSには友人の「出産報告」や「家族キャンプ」の写真が流れてくる。
幸せの形は人それぞれだ。分かっている。健吾の言う「二人だけの幸せ」も、間違いなく一つの正解だった。
でも、私はそこから降りた。
自分の手で、愛していた人を手放した。
「……あーあ、面倒くさいな」
ポツリと独り言が漏れた。
恋愛を始めるプロセス。相手を知り、自分をさらけ出し、未来を擦り合わせる。あの膨大なエネルギーを、もう一度一からやり直すのかと思うと、目の前が暗くなる。
でも、このままこの「静かな部屋」で朽ちていくのも、たまらなく怖かった。
時計の針は、夜の11時を回っている。
明日も仕事だ。
明日も、今日と同じ一日がやってくる。
水城は空になった缶を捨て、ベッドに潜り込んだ。
暗闇の中で目を開けたまま、彼女はまだ見ぬ「誰か」と、二度と会えない「彼」のことを、ぼんやりと考えていた。
4. 砂を噛むような有能さ
月曜日の朝。オフィスビルへ吸い込まれていく人並みは、さながら巨大な工場のベルトコンベアに乗せられた部品のようだ。水城もまた、その一部として「有能な中堅社員」の仮面を被る。
「水城さん、例のプロジェクトの進捗、ちょっと相談いいかな?」
デスクに座るなり、上司の佐藤課長が声をかけてきた。
「はい、企画書は共有フォルダに。予算案に関しては、Bパターンのほうが現実的かと」
「助かるよ。君はいつも話が早くていい。……あ、そういえば」
課長がふと声を落とす。
「最近、少し痩せた? 仕事も大事だけど、無理はしなよ。プライベートが充実してこその仕事だからね」
その善意100%の言葉が、今の水城には鋭いナイフのように突き刺さる。「プライベートの充実」。それは、彼が期待しているような「結婚への準備」や「幸せな週末」を指しているのだろう。三年間、健吾との交際を匂わせていた手前、周囲は当然「そろそろだろう」という目で見ている。
「ありがとうございます。至って健康ですよ」
笑顔が、顔の筋肉に張り付く。
仕事は、今の水城にとって唯一の救いだった。数字は裏切らないし、タスクをこなせば確実に「完了」のチェックをつけられる。自分の人生には一生チェックをつけられない「未完了」の項目が山積みだというのに。
昼休み、給湯室で後輩たちが盛り上がっているのが聞こえてきた。
「昨日会った人、マジでハズレでさ。写真と全然違うし、ずっと自分の仕事の自慢ばっかり」
「あはは、それアプリあるあるだよね。私なんて、この前会った人、奢るよって言いながら端数まで請求してきたよ」
アプリ。
彼女たちの会話に頻繁に登場するその単語は、水城にとって別世界の言語のようだった。20代の頃は、合コンや紹介という「顔が見える出会い」がまだ生きていた。けれど、30代を過ぎてからの出会いは、もはや「効率」という名の戦場に移り変わっているのだと突きつけられる。
午後。窓の外を流れる雲を見ながら、水城は思う。
(私は、あの子たちみたいに笑い飛ばせるんだろうか。見ず知らずの人と、ゼロから自分を説明して、値踏みし合う作業を……)
5. 週末の亡霊
土曜日。
健吾がいない初めての週末は、予想以上に「空白」が重かった。
以前なら、お昼過ぎまで一緒に惰眠を貪り、遅めのランチをどこへ食べに行くか、ソファでダラダラと相談していた時間だ。
水城は、意識的に彼との思い出が詰まったエリアを避けた。
二人がよく行った駅前のイタリアン。
一緒に家具を選んだインテリアショップ。
そのどれもが、今は「入ってはいけない聖域」のように感じられた。
結局、電車に乗って三駅隣の、全く縁のない街へ降り立った。
見知らぬカフェの片隅で、読みかけの小説を開く。けれど、活字は上滑りして頭に入ってこない。
ふと見ると、隣の席には小さな女の子を連れた若い夫婦が座っていた。
「パパ、見て! お花!」
「お、綺麗だね。ママにも見せてあげな」
そんな、どこにでもある光景。
水城が喉から手が出るほど欲しかった未来が、そこには当たり前のように転がっていた。
健吾と一緒にいれば、こんな未来は来ない。
でも、健吾がいない今、この未来が手に入る保証もどこにもない。
(私、何を捨てて、何を手に入れようとしてるんだっけ……)
コーヒーが冷めていく。
一人の自由は、時に「誰にも必要とされていない」という孤独と背中合わせだ。33歳。若くもなく、かといって諦めるほど老いてもいない。この宙ぶらりんな年齢が、水城の心をじわじわと摩耗させていった。
6. 親友の「処方箋」
その日の夜。
学生時代からの腐れ縁である恵と、新宿の騒がしい居酒屋で再会した。
恵は水城とは対照的で、エネルギーの塊のような女性だ。大手広告代理店でバリバリと働き、半年前にマッチングアプリで知り合った男性と婚約したばかりだった。
「で、結局別れちゃったわけね。健吾さんと」
恵は生ビールを豪快に飲み干すと、遠慮なく核心を突いてきた。
「……うん。平行線だったから」
「まあ、子供のことは妥協できないもんね。正解だよ、水城。33歳、今ならまだ間に合う」
「間に合うって、何に?」
「決まってるじゃん。新しい恋に、よ」
恵はバッグからスマホを取り出し、慣れた手つきで画面を操作した。
「ほら、これ。私が今の彼を見つけたアプリ」
画面には、色とりどりのアイコンと、笑顔を浮かべる男性たちの顔写真が並んでいた。
「え、無理だよ。こういうの……。なんか、人間をカタログで選んでるみたいで抵抗ある」
「カタログでいいんだよ! 結婚なんて究極の条件マッチングなんだから。恋愛感情なんて後からついてくるの。まずは母数を増やさなきゃ」
恵の言葉は極論に聞こえたが、そこには彼女なりの現実的な愛があった。
「水城は真面目すぎるの。もっと気楽に、ゲーム感覚でいいんだよ。ほら、とりあえず登録だけしな? プロフィール写真は、先週私が撮ったあの奇跡の一枚があるから」
「ちょっと、勝手に進めないでよ」
抵抗しながらも、水城の心のどこかで、好奇心と「何かを変えなければ」という焦りが顔を出していた。
居酒屋を出る頃には、水城のスマホには見慣れないアプリがインストールされていた。
「メッセージ来ても、すぐ会わなくていいからね。まずは会話を楽しむの。あ、でも変な奴も多いから気をつけて」
恵の忠告を聞きながら、夜風に吹かれる。
7. スクロール、スクロール
帰宅し、静まり返った部屋。
水城は、恐る恐るアプリを開いた。
年齢、居住地、職業、年収。そして「子供の有無・希望」。
自分自身のスペックを入力していく作業は、自分という人間を「商品化」していくような、奇妙な感覚だった。
『登録完了』
その文字が出た瞬間。
スマートフォンの下部にある通知欄が、激しく振動し始めた。
「……え?」
画面を覗き込むと、絶え間なく流れてくる「いいね!」の通知。
『はじめまして! 笑顔が素敵ですね』
『趣味が似ていて気になりました』
『一度お話ししてみたいです』
顔も知らない、名前も知らない男たち。
さっきまで「誰にも必要とされていない」と嘆いていたのが嘘のように、水城という「商品」は、アプリという市場の中で凄まじい勢いで消費され始めていた。
水城はベッドに横たわり、次々と流れてくる男性たちのプロフィールをスクロールした。
爽やかな笑顔の商社マン。
スーツをビシッと着こなす弁護士。
やたらとお洒落なカフェの写真を載せているクリエイター。
みんな、同じように見える。
みんな、幸せを求めているように見える。
そして、みんな、どこか嘘っぽく見える。
(恋愛って、こんなに簡単だったかな……?)
指先一つで、誰かと繋がれる。
指先一つで、誰かを切り捨てられる。
健吾と三年間かけて築き上げた関係の重さと、今この画面上で行われているやり取りの軽さ。そのギャップに、水城はひどい眩暈を覚えた。
けれど。
暗闇の中で光り続けるスマホの画面は、今の水城にとって、唯一の外の世界への「窓」のようにも感じられた。
「……一回、やってみるか」
独り言は、冷蔵庫の音に消された。
水城は、メッセージの山の中から、一番無難そうな挨拶を送ってきた男性に、指先を震わせながら返信を打った。
それが、新しい地獄の始まりとも知らずに。




