※乱入:未完の原稿に、招かれざる『朱(あか)』が入る
鏡面世界の瓦礫の中で、カイル様を抱きしめた体温が、まだ腕の中に残っていた。彼の流した悔恨の涙が、私のドレスに「真実」という名の染みを残している。けれど、物語の神様は、再会の余韻に浸る時間すら与えてはくれない。
二人の「正解」を祝福していた黄金の残光が、外側から巨大な『×(バツ)』印で塗り潰されるように、赤黒く染まっていく。
――パキン、と。
美しい硝子が弾ける音がする。
「リリアーヌ。……あとは、現実で会おう」
カイル様の震える声が遠ざかり、代わりに肌を刺したのは、冬の夜のような冷たい空気。
次に瞼を開けた時、私の鼻を突いたのは、鉄さびのような魔力の残り香と、マリエラが焚き染めていた甘ったるい香料の匂い。
そこは、現実――王宮にあるマリエラの私室だった。
「あ……、あ、あああぁ……ッ!!」
床に伏したマリエラの体が、不気味な黒い魔力に焼かれ、煤けた紙屑のように崩れ落ちていく。彼女が縋り付いていた「偽りの聖女」という設定がインク漏れを起こし、彼女自身の存在を汚染しているのだ。
「そんな……私の、私の愛の物語が、こんな……ボツになるなんて……!」
折れた羽ペンを握りしめ、のたうち回る彼女。その無様な姿を、冷ややかに見下ろす影があった。寝台の傍ら、まだ意識の戻らぬカイル様の肉体のすぐ後ろに、ボリス王子が立っていた。
「――ふむ。マリエラ、君の『記述』では、やはりこの程度が限界だったか」
その声を聞いた瞬間、私は言いようのない不快感に襲われた。声そのものはボリス様のものだ。けれど、そこには一切の「感情」が乗っていない。
それは、怒りや侮蔑ですらない。まるで、あらかじめ決められた台詞を、見えない誰かに言わされているだけの、空虚な響き。
(……ボリス様? いいえ、違いますわ。この違和感、まるで――)
その時、ボリス様の背後の空間が、ひどく歪んだ。校閲者の眼にだけ見える、空間に直接書き込まれた異常な赤いノイズ。それはボリス様の魔力などではない。もっと上位の、この世界の理を無理やり捻じ曲げようとする、暴力的な『朱』の気配。
ボリス様が、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。
「リリアーヌ。君の存在は、今のプロットには『不要な一筆』だ」
「……勝手に私の人生に、赤を入れないでくださる?」
私は、カイル様の無事を瞳に焼き付け、ボリス様へと万年筆を突き付けた。
「たとえ世界が完結を望もうとも、私のペン先が、その傲慢な脚本を却下にして差し上げますわ」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
魂を救った直後、リリアーヌ様を待ち受けていたのは、ボリス様を操る不気味なノイズ。二人の歩みを「誤植」として消し去ろうとするこの世界の理に対し、リリアーヌ様は校閲者として真っ向から対峙します。
次回もどうぞお楽しみに!




