※補足:港町の不条理と、三流命令書への赤入れ
草原を抜け、なだらかな丘を越えた先で、視界がいっぱいの青に染まった。リリアーヌが降り立ったのは、ドロスト王国最大の港町だった。潮風に混じって、荷揚げの怒号と……それ以上に不快な、暴力の気配が漂っている。
リリアーヌは目立たぬようフードを深く被り、人混みに紛れて歩を進めた。
「……ふふ。今のわたくしは、物語の隅に描かれた一介の『通行人』。無駄な戦いにインクを割くつもりはありませんわ」
だが、その決意はすぐに揺らぐこととなる。広場の中央で、ボリス王子の紋章をつけた兵士たちが、震える商人の親子を取り囲んでいた。
「ボリス様への『献上金』が足りねえんだよ! 足りない分は、そのガキを売り飛ばして補填しろ!」
「そ、そんな! 昨夜も税を払ったばかりです!」
泣き叫ぶ子供、突き飛ばされる商人。周囲の人々は目を背け、絶望が広場を支配していた。リリアーヌは歩みを止めず、ただすれ違いざまに、手の中の万年筆を軽く振った。
「あら。その命令書、あまりに『誤植』が過ぎますわね。読みやすく直して差し上げましょう」
兵士たちがリリアーヌを認識するよりも早く、空中に【注釈】が躍る。
【※修正:第一王子の徴収権限を一時停止。および、兵士の武器を『柔らかいスポンジ』へ変換】
「なんだと!? てめえ、今……何をした……ぐえっ!?」
商人の首筋に突き立てられていた鋭い剣が、次の瞬間、黄色い穴あきの「スポンジ」へと変貌した。振りかざされた槍も、ポヨンと頼りない音を立てて折れ曲がる。
「な、なんだこれは! 武器が……武器がふにゃふにゃだ!」
「文字通り、骨抜きにさせていただきました。あ、それから」
リリアーヌは一度だけ足を止め、兵士の足元にある影にペン先を向けた。
【※追加設定:兵士たちの発言は、以後『自白』としてのみ機能する】
「お、俺たちが勝手に懐に入れてる裏金の話はするなよ!」
「言ってるそばから! ……あ、俺、ボリス様の肖像画の裏に公金を隠してます!」
口々に自分の余罪を叫び始めた兵士たち。広場にいた人々から、失笑と怒号が湧き上がる。リリアーヌは、助けた親子が礼を言うよりも早く、その場を静かに立ち去った。
喧騒から離れた通りにある、海を見下ろす小さなカフェ。彼女はテラス席の隅に腰を下ろし、注文したハーブティーが運ばれてくるのを待つ。
「ふう……。やはり、乱れた記述をそのままにしておくのは精神衛生上よろしくありませんわね」
運ばれてきたカップから、清涼感のある香りが立ち上る。リリアーヌは優雅に一口含み、ふと、遥か彼方の丘にそびえるドロスト王宮へと視線を向けた。
そこには、依然として不気味な「他者の筆跡」が、澱みなく渦巻いている。ボリス王子という「質の低い素材」を使い、誰かがこの世界を無理やり書き換えようとしている――その違和感は、ハーブティーの香りで落ち着いた頭にはより鮮明に響いた。
「ボリス様。あなたの背後でペンを動かしているのは、一体どなたかしら」
今はまだ、このハーブティーが冷めるまで、港町の穏やかな海風を楽しんでいたい。だが、その先にある「ゴミ捨て場」の掃除は、想像以上に骨が折れる仕事になりそうだった。
「さて。……茶菓子をいただく頃には、わたくしも本気で赤ペンを握らなければなりませんわね」
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
港町に潜入したはずのリリアーヌ様でしたが、やはり「誤字脱字(悪行)」を見過ごすことはできなかったようです。武器をスポンジに変え、悪巧みをすべて自白させる……。物理的な暴力ではなく、世界の法則そのものを「滑稽なもの」に書き換えてしまう彼女の能力は、まさに無敵ですね。
ひと仕事を終えてハーブティーで一息つく姿は優雅ですが、その視線はすでに不気味な違和感を放つ王宮を捉えています。ボリス王子を陰で操る存在の気配を感じつつも、彼女は決して慌てません。
次回、リリアーヌ様はハーブティーを飲み終え、静かに王宮への道を進みます。彼女が歩む後に、どのような「校閲」の跡が刻まれていくのか。 次回の更新も、どうぞお楽しみに。




