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料理嫌いの嫁を家で待ちながら、無職夫は今日も夕食を作る~幸せ手抜き料理  作者: だい


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第32話:湯気と記憶の味噌おでん

 昨日は少しだけ気温が上がった。


 積もった雪が中途半端に溶け、

 道路はシャーベット状の

 泥にまみれていた。


 けれど、夜の間に

 一気に冷え込んだせいで、

 全てがカチカチに凍りついている。


 こうなると、

 一歩も外には出られない。


 杖をついて歩く私にとって、

 凍ったアスファルトは危険だ。


 窓の外を眺めれば、

 近所の人が苦労しながら

 雪かきをしている。


 その様子を、

 暖かい部屋から

 見ているしかない自分。


 少しだけ、

 胸の奥がチクリと痛む。


 こんな停滞した

 気持ちを振り払うには、

 温かい物が一番だな。


 おでんでも炊こうかな。


 朝から、

 台所に籠もることにした。


 おでんを仕込んでいると

 どうしても思い出す古い記憶がある。


 私が小学校に上がる前。


 実家は工場の正門前で、

 小さな焼きとり屋を営んでいた。


 昭和の、活気に満ちたあの街。

 工場の煙突からたなびく煙と、

 三交代で働く男たちの足音。


 厨房にはいつも、

 仕込みをする父と母の姿があった。


 実家のおでんには、

 一つ、大きな特徴があった。


 出汁は毎日、一から引き直し、

 夜にはすべて捨てるのだ。


 近所の店のおっちゃんは、

「タレや出汁は店の宝だぞ」

 と教えてくれた。


 何十年も継ぎ足した

 その黒い深みこそが、

 老舗の誇りなのだと。


 不思議に思って、ある日父に聞いた。

「なんでうちは、毎日捨てるの?」


 すると父は、

 今どきのギャルのような

 軽い口調でこう言った。


「だってさ。カウンターの店でしょ?」

「酔っ払いが喋ったり、怒鳴ったりするのに」

「そこに唾とか入ってたら嫌じゃん」


 当時は笑ってしまった。


 今思えば、

 とても良い、衛生管理だったなと。


 箸一本、醤油差し一つ。


 毎日、磨き上げる父は、

 潔癖なほどのプロ意識を持っていた。


 そんな父との、

 忘れられない事件がある。


 ある日の仕込み中だ。

 私はいつものように

 店内でミニカーを使い遊んでいた。


 父が突然、

 焼きとりの串を咥えニヤリと笑った。


「あっしには、

 関わりのねえことでござんす」


 当時流行っていた、

 木枯し紋次郎のマネだったらしい。


 横で忙しく手を動かす

 母は、見向きもしない。


「いいから、早く仕込みしなさいよ」


 冷たくあしらわれた父は

 紋次郎の真似で、プッと串を吹いた。


 よりによって、その串は、

 母の鼻のすぐ横に、

 ポスッと刺さったのだ。


 ……時間が止まった。


 次の瞬間、

 母の怒りが爆発した。


 カウンターの肉や、仕込みの材料が、

 包丁を乗せたまま、

 父に向かって飛んでいった。


「向かいの市役所に行って、

 離婚届もらってこーい!」


 母の怒声が店に響く。

 父は真っ青になって逃げ回っていた。


 私は半泣きで、

「はい!ごめんなさい!」

 と、なぜか謝ったのを覚えている。


 そんな思い出もありつつ、

 父と母が守っていた味。


 毎日出汁を捨てるからこそ、

 当時は他所ではあまり見ない

 タネを入れることができた。


 まずは、ジャガイモだ。


 当時、長く煮込むおでんに

 イモは禁物で入れる店は少なかった。

 煮崩れて、出汁を濁らせるからだ。


 けれど、うちは毎日が新しい出汁だ。

 多少の濁りなんて気にしない。


 ホクホクに崩れかけ、

 黄金色の出汁を芯まで吸い込んだイモ。

 これは、家でしか出せない贅沢だった。


 それから、タラの白子。

 北海道で言う「タチ」だ。


 これも繊細なタネだ。

 火を通しすぎれば硬くなり、

 甘いと出汁が生臭くなる。


 新鮮な出汁の中で、

 絶妙なタイミングで火を通す。


 トロリと濃厚な海の恵みが、

 おでんの中で一番の主役になる。


 さて、そろそろ私も仕込みにかかろう。


 スクレーパーを逆手でしっかりと握る。


 麻痺している右側の腕を預け、

 重みを使って大根を押さえつける。


 大根は重いが、このヘラがあれば、

 左手一本でも面白いように切れる。


 三センチほどの厚切りにした大根。

 角を少し削って面取りをするのも、

 このヘラなら自由自在だ。


 かつお節と昆布で贅沢に引いた、

 黄金色の出汁にタネを沈めていく。



 煮ている間に父がいない時や、

 おでんが売り切れた時の

「母の味」も準備する。


「味噌おでん」だ。


 こんにゃく、さつま揚げ、

 そしてゆで卵を串に刺していく。


 これをお湯でグラグラと煮て、

 上から特製の味噌ダレをかける。


 砂糖をたっぷりと効かせ、

 おろし生姜をこれでもかというほど

 入れた味噌だ。


 片栗粉でとろみをつけ、

 艶やかな飴色に仕上げていく。


 地元の商店街のお祭りの夜。


 的屋に混じって、うちはいつも

 この味噌おでんを出した。


 オレンジ色の裸電球の下。

 立ち上る湯気と生姜の爽やかな香り。


 砂利を踏みしめる人々の足音。


 あの光景は、今でも私の心の中に

 暖かな灯火として残っている。


「ただいまー! なまら寒いわー!」


 鍵を開ける音とともに、

 嫁子の声が響く。


「おかえり。今日はおでんだよ」


「わあ、お義母さんいた頃の

 お祭りの出店の匂いがする!」


 食卓に、二種のおでんを並べる。


「じゃあ「「いただきます」」


 まずは、出汁で煮込んだ

 大きなジャガイモ。


 箸を入れれば、ホロリと崩れ、

 中から湯気が溢れ出す。


「イモのおでん、最高だねえ」


 続いては味噌オデンを。

 生姜味噌をたっぷり纏った串。


 嫁子は頬を膨らませて

 ハフハフと笑う。


「この生姜味噌、

 身体の芯までポカポカしてくるよ」


 不器用で、おバカな父と

 包丁ごとまな板を投げた母。


 賑やかだったあの頃の風景が

 湯気の向こう側に、重なって見える。


「パパ。明日はなにするの?」


「ああ。また明日も、

 新しい味にしようね」


 笑顔で頷く、嫁子の顔。


 最後の一滴まで、

 温かな出汁を飲み干す私でした。

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