第9話 新たな容疑者(後編)
それから約一年、陽介は彼女から彼女なりのアプローチを何度か受けた。
ランチに出かけ、ふらりと入った店になぜかいつも内藤が座っていた。
ゴミ当番で地下に行くと、先回りをするように彼女が立っていた。
得意先から帰り、エレベーターに乗り込むと、そこに彼女がいたこともあった。
時には机の中のペンがなくなることもあった。
「僕のどこがいいの? 内藤さんぐらい可愛い女性なら、素敵な彼氏なんていくらでもできるよ」
二人だけで残業することになったある日の夜、陽介はそう彼女に言った。
だが、内藤飛鳥はその問いになにも答えようとはしなかった。
「僕なんて、女性にもてたことなんて一度もないんだよ。
もうすぐ三十歳になるけど、今付き合ってくれてる彼女が初めてできた彼女なんだよ。そんなまったくもてない僕がこんなことを言うのはなんだけど、僕のことは忘れてくれないかな」
懇願するように陽介が言った。
……僕はミカちゃんだけがいればいいんだ。彼女と結婚するんだから……。
しばらく無言がつづいた。そして、ようやく彼女が口を開き、こう言った。
「すべてです。川野先輩のすべてが好きなんです」
この一年間に起こった出来事を思い返しながら、陽介は斜め前にすわる内藤飛鳥をチラリと見た。
……あんなことをしなければ、素敵な女性なのに……。
ストーカーまがいのその行動に陽介は恐怖を感じていた。
……もしかして、彼女ならやりかねない……そうか、彼女なら僕のロッカーの鍵をどうにか手に入れることができたかもしれない。それに、あの日、もしかすると、僕は得意先を訪問する前に鍵をこの机の中に置いていったのかもしれない。それならば、彼女があの指輪を盗むことが可能だったのではないか?……。
そう心の中でつぶやいていると、陽介の気配を察知したのか、それまで下を向いていた内藤飛鳥が顔を上げた。
無表情だった。
目が合った陽介は背筋がぞっとなるのを感じた。
……何としても僕の結婚を阻止したかった可能性はある。それならばあの指輪を盗む動機になる……いや、盗んだのではない可能性もある……僕が買った指輪を今も彼女が持っている可能性もある。内藤さんなら、あの赤の手提げ袋とジュエリーケースを用意して『すり替え』たとしてもおかしくない。宝石売り場の金山さんがそうしたように……。
息苦しさを感じた陽介は慌ててトイレに駆け込んだ。
その日は就業規則に定められている時刻通り帰宅した。
頭が混乱していて、なにも手につかなかったからだ。
街は家路を急ぐ人で溢れていた。
夕闇がすぐそこに迫り、陽介の体から熱を奪っていった。
満員電車に乗り込むと、自然と指輪のことを考えてしまった。
……『自宅』で盗まれたとしたら、誰の仕業だろうか? 特別なルート、割のいいバイトがある蘭だろうか? それともまったく連絡の取れないトオルだろうか?……。
これまでは二人のうちどちらだろう、と頭を悩ませていた。
だが、今は違った。
……『自宅』でなく『会社』だとするとどうだろう? 内藤さんには動機もそしてチャンスもあったじゃないか……。
そう考えているうちに、駅に着いた。
疲れた体を引きずるようにして改札口をあとにした。
そのとき、陽介のポケットのスマホが小刻みに揺れた。
ゆっくりと取り出した画面に見慣れた男の名前があった。
スマホの向こうから聞き慣れた悪友の声が聞こえてきた。
申し訳なさそうにしていた。
「すまん、陽介……実は……盗んだのはオレなんだ」