第3話 宝石売り場の赤坂さん(前編)
「ええっと、川野様……もう一度はじめから話を聞かせてもらってもよろしいでしょうか」
宝石売り場の赤坂が子供を諭すようにゆっくりと陽介にそうたずねた。
長年の常連客の息子である陽介を前に、ベテラン店員は頭を悩ませていた。彼女が戸惑うのも無理はなかった。
「指輪が……指輪が消えて……」
スーツ姿の赤坂がどうにか話を整理しようと何度質問しても、陽介の口から出てくる言葉がこれだけだったからだ。
『絶対に指輪を見つけ出す』
そう息巻いたものの、土曜の午後から陽介がやったことといえば、部屋で悶々と過ごすことだけだった。
時計の針が次の日の到来を示した頃に、ある人が頭の中に浮かんだ。
「ダメだ。明日、宝石売り場に行こう」
このピンチを救ってくれるのは、母が長年頼りにしている赤坂さんしかいない。
翌日、日曜の朝、デパートが開店する一時間前に陽介はシャッターの前で立っていた。
「どうでしょう、川野様。一度、深呼吸をしてみては」
そう言うと、赤坂は陽介を誘導するようにゆっくりと呼吸をはじめた。
初めこそうまく息ができなかった陽介だが、髪を後ろでひとつに結んだ赤坂の真似をするうちに呼吸が整っていった。
陽介は久しぶりに生きた心地がした。
「では、川野様。指輪がなくなったのは五月十七日、金曜日の夜なのですね?」
そう聞かれた陽介がコクリとうなずくと、赤坂はノートのようなものにメモをした。
「では、その日の一日のできごとを話してください」
「朝から出社して、夜には彼女とレストランに行きました」
陽介がつづけた。
「そして……指輪が消えました」
「うーん……」赤坂が口のあたりに右手を置いた。
この話だけではよくわからない。
口にこそ出さないが、明らかにそう考えているようだった。
「あの、指輪がなくなったことはわかりました。ちなみに、その指輪はずっと会社に置いていたのですか?」
「いいえ、とんでもない」慌てて、陽介が首を振った。
「大切な婚約指輪を会社にずっと置いておくはずがあるわけないじゃないですか!」
顔を赤くしてムキになった表情を見て、赤坂がニッコリと微笑んだ。
「では、その前の夜は、家にあったのですか?」
はい、と陽介がうなずくと、赤坂が卓上の小さなカレンダーを見ながら言った。
「今日は五月十九日の日曜日ですよね。
それで、指輪がなくなったのが十七日の金曜日。
その前の晩、つまり十六日の木曜日の夜には川野様の家に指輪があった……あれ? その日の夕方にこちらでお渡ししましたよね?」
そう言われて、陽介はその日のことを思い出した。「そうだ、仕事を終えてからこの店に来たんだった」
「ちょっと待ってくださいね」
そう言うと、赤坂がカウンターの下から何かを取り出した。
「やっぱりだ。その日の夕方、引換証をいただいています」
その引換証から、五月十二日の日曜日に陽介が一人で婚約指輪を購入していたことがわかった。
「そうだ……レストランに行く前の日の木曜日まで、赤坂さんに預かってもらっていたんだ」
どんなデザインの婚約指輪がいいのか? 予算はいくらぐらいなのか? 陽介はそれらを赤坂に相談し、そのアドバイスに従ったのだった。
「これで、話の全体像が少しだけ見えてきました」
赤坂がカレンダーをペンで差しながら言った。
「五月十二日の日曜日、指輪を購入していただき、十六日の木曜日までこちらで保管させていただいた。
そして、木曜日の夕方に仕事を終えた川野様が指輪を受け取り、ご自宅に持ち帰った。
翌日、金曜日に指輪を持って仕事場に行かれた。
夕方、仕事を終え、レストランでプロポーズをしようと思ったら、指輪がなくなっていた。つまり、こういうことになりますね」
ええ、とうなずき、ようやく全体像が整理された陽介だったが、頭の中には疑問符があふれていた。それが口に出た。
「それで……結局……指輪はどこに行ったんでしょうか?」
それがわかれば苦労しないのだが、陽介は迷子になった子供のような顔つきで赤坂にそう聞いた。
赤坂はペンを置き、斜め上を見つめた。しばらくすると、
「当たり前のことですが、何者かに盗まれた、と考えるのが自然な考え方でしょう。盗まれた可能性があるとすれば——」
少し間を置いた赤坂の顔を陽介は食い入るように見つめた。ゆっくりと赤坂が口を開いた。
「木曜日の夜、この店から持ち帰り保管をしていた『自宅』か、次の日、保管をしていた『会社』ということになりますね」
そう言われた陽介は思わず、
「あー、そうか」
と、納得した声を出した。
……そうか。冷静に考えたら、そうとしか考えられないじゃないか……。