第1話 ぼ、僕の婚約指輪が……(前編)
「ゆ、指輪が……」
そう小さな声でつぶやいた美香の声が震えていた。
だが、震えていたのは声だけではなかった。陽介の方に向けた美香の右手の人差し指も微かに震えていたのだ。
彼女の差した先にはまるで真珠の貝殻が開くような恰好をした陽介の両手があったが、その手の中にはパカッと上下に開けられたジュエリーケースがあった。
僕と結婚してください、と勇気を振り絞って告白をし、彼女の答えを待とうと下を向いていた陽介がおそるおそるたずねた。
「こ、こんな婚約指輪じゃあ……ダメってことかな」
陽介が顔を上げると、テーブルの向こうの美香と目が合った。
彼女の目からは今にも涙があふれそうになっていた。
これ以上なにも話したくない。
陽介の目にはそう映った。
だが、どうにか美香はその口でなにかを伝えようとした。
「そういう問題じゃなくて——」
だが、そこまで答えると、美香が大きな声を上げながら泣き崩れた。
「指輪が……指輪がないのよ」
その瞬間、夫になる予定だった陽介の動きが止まった。
動きが止まったのは陽介だけではなかった。
『サプライズのご協力』で二人の後方に控えていた長身の男性のウエイターと、大きな薔薇の花束を持った女性のウエイトレスの動きも完全に停止してしまった。
三ヶ月分の給料をつぎ込んだはずの婚約指輪がいつの間にか、陽介の手から消えていた。
「指輪はどこに消えた?……それにしても……いったい、誰の手に……」
高級レストランの席に一人残された陽介はいつまでも空っぽのジュエリーケースを見つめていた。
「はー……」
もうすっかり目は覚めているはずなのに、いつまでもベッドから起き上がることができないでいた。
いや、目が覚めているどころか、陽介は昨晩、一睡もできなかった。
天井を見つめる陽介の目の前に昨夜の光景が浮かんできた。
テーブルのキャンドルの灯りが水色のワンピースを着た美香の横顔を仄かに照らしていた。
都市部近郊、平凡な家庭に生まれ、大学も会社もお世辞にも一流とはいえない陽介にとって、これまで目にしたことのない高級レストランだった。
一等地の駅近くのビルの上階にあり、夜景が売りの名門レストランだった。
普段はデートといってもファミレスが多く、まして、陽介が一人で食事をする時はもっぱら低価格が売りのラーメンや牛丼ですませることがほとんどだった。
そんな陽介が清水の舞台から、いや、東京タワーから飛び降りる覚悟でレストランに行った理由は、美香がSNSで店の紹介文に『いいね』を押したのを目にしたからだった。
もちろん、理由はそれだけではなかった。
『三十歳までに結婚したい』
結婚にそれほどこだわりを持たない美香に対し、陽介は二年前に付き合いはじめた当初からそう心の中で強く意識をしていた。
数ヶ月後に三十回目の誕生日を迎える陽介はプロポーズを成功させるべく、ありとあらゆる準備を重ねてきた。
本来は今日、つまり五月十八日、土曜の夜に食事に誘う予定だった。
しかし、たまたま二十六回目の美香の誕生日であったことから、昨日、金曜日の夜、レストランに向かったのだった。
パジャマ姿の陽介はリビングダイニングに向かった。
ドアを開け、中に入るといつも座る陽介の席のそばでボーダー・コリーの雌のナナが寝そべっていた。
体のちょうど中央、頭から口、胸にかけて白い毛が生えており、それ以外、つまり左右の目や耳が黒い毛だった。
「おはよう、ナナちゃん」
力なく陽介がそう声を掛けようとする前に、すでにナナは陽介の存在に気づき立ち上がっていた。
「クーン」
挨拶を返すように泣くと、ナナは部屋から出ていった。
イギリス原産、牧羊犬であったボーダー・コリーはある大学の研究によると全犬種の中で最も知能が高いとのことだった。
実際、のみ込みが早く、しつけに苦労することもなかった。
ちょっとした訳があり世話をすることになったのだが、思慮深く、忠実であるナナは陽介のよきパートナーだった。
「あら、やっと起きたのね」
すぐに母が、そのすぐあとにナナが部屋に入ってきた。
陽介の足元の近くでナナがお座りをするように座った。
「起きてこないのかと思ったわ。もう、お昼よ」
そう言いながら、母は陽介の前にランチョンマットを敷くと、その上にバターロール三個とコーヒーを置いた。
長袖のピンクの襟付きのシャツにジーンズを履いた母が向かいの席に座りながら、お父さんはゴルフよ、とつづけた。
長年、歯科医院の受付でパートとして働く母は家族思いではあったが、少し神経質なところがあった。それは潔癖に近いといってもよかった。
あまり食欲がなかったが、食べないと母が心配するのでパンを頬張った。
陽介の口に入ると同時に机に飛び散った微細なパンくずを母が反射的に雑巾で拭いた。その姿を見ながら、
……とてもじゃないが、昨日の指輪のことを母には聞かせられない……
と、心の中でつぶやいた。
当然、プロポーズの件も母に相談していなかった。
仮に、ミカちゃんに断られでもしたら、ショックでパートを休みかねない。そう心配してのことだった。
だが、婚約指輪がスムーズに購入できたことは、母のおかげといってよかった。
「赤坂さんがね——」
物心ついたころから、陽介が耳にしてきた名前だった。
その女性(陽介は一度も会ったことはなかったのだが、母の話から女性であることはまず間違いなかった)はデパートの宝石売り場の店員だった。
かなり信頼のおける人物のようで、母は数十年来その店で宝石を購入していた。
高価なものからカジュアルなものまで幅広く取り揃えているところがお気に入りのようで、銀婚式の記念の指輪もその店のものだった。
その店で買った赤の手提げ袋を嬉しそうに持って帰宅する母の姿が陽介の脳裏に焼きついていた。
そんなことから、陽介は美香との婚約指輪を『赤坂さん』の宝石店で購入した。
……でも……その婚約指輪がなくなってしまって……。
母がテーブルを拭く姿を見ながら、陽介がそうもの思いにふけっていると、
「おいしそう!」
その声が聞こえた時には、もう陽介の皿にはパンはなかった。