拳闘大会
「アルプ拳闘大会か。うむ。久しぶりの拳闘大会だ。武者震いがするな」
ダルトンが言った。
「まさか大教会長が出場なさるわけではありませんよね」
ルーシーが睨む。
「……うむ。やはり、そういうわけにはいかんよなあ」
ダルトンは露骨にしょんぼりとした。
大教会長の執務室である。
昨夜、ロイがルーシーを送る際、彼は二ヵ月後に行われる拳闘大会に出場することを話した。
「俺、優勝を狙ってみるよ。そうしたら、ルーシーさんとだって釣り合うと思うんだ。今の俺じゃあ、なにもないから」
などとまっすぐな目で言われて、ルーシーは真っ赤になった。
ルーシーは、ロイが自分に対して引け目を感じていることを知っていた。
ルーシーに言わせれば、引け目を感じてのは自分の方で、なぜロイがそんな風に思っているのか理解ができないのだが。
その時は、無理はしないでください、と蚊の鳴くような声で言うのが精一杯だったが、後から不安になった。
はたして、拳闘を始めて半年も経たない者が、大会などに出場して大丈夫なのか。
優勝狙いの猛者がたくさん出場するに決まっている。負けるだけなら良いが、拳闘は試合中に命を落とすこともあると聞く。
ルーシーの不安は、どんどん大きくなって、昨夜はほとんど寝れなかった。
そこで、不安を払拭するために早朝礼拝が終わった後に、ダルトンの執務室にやってきたというわけである。
先ほどのやりとりがあった後にダルトンは言った。
「まあ、この街の大会がどういうルールか知らんが、よほど打ち所が悪くなければ命を落とすことはあるまい。危険があれば止めに入る。そのためのレフリーだ」
ルーシーが机をバンと両手で叩いた。
「やはり命を落とすのですね。打ち所さえ悪ければ」
「まあ、殴り合うわけだからな」
「それがおかしいのです。なぜ、殴り合うのですか? なにが楽しいですか? そんなスポーツは果たして必要なのでしょうか?」
拳闘の存在意義を問いかける。
そう言われてもな、とダルトンは思った。
なぜとか、なにが、と言う質問をされると、スポーツも娯楽も大半が存在意義を見失うに決まっている。
「技術を競い合うことで、向上を目指すというところだな。格闘技というのは要するに身を守るための技術であるわけだからして。拳闘も、まあその例にもれん」
「せめて、頭部への攻撃は無しにしたください。それならば、命を落とすこともないでしょう」
言った後に、ルーシーは、自分の考えに満足して、何度もうなずいた。
「そうです。頭部へのパンチは無しです。大会ではそうしましょう」
「いや、いかんぞ。それはいかんぞ。そんなものは拳闘ではない」
もちろん、拳闘をこよなく愛するダルトンは、ルーシーの意見を飲み込めなかった。
「なぜですか? そんなに顔を殴りたいのですか?」
「なぜと言われてもなあ。ともかく、拳闘とはそういうものだと納得しなさい。そして、ロイはまだまだ未熟だが拳闘士だ。君が拳闘を否定してはいけない」
ルーシーはなかなか引き下がらなかった。
恋人の命がかかっているのだ。
ダルトンが、何度も、無理だから、ダメだから、と言っても、通じなかった。
拳闘士として多大なる実績のあるダルトンの言葉ならば、大会運営者も聞くに違いない、と無理を押し通そうとするのである。
「ロイの気持ちも考えてみなさい。君が出張って、大会のルール変更をさせたなどと噂が立ったら、彼の立つ瀬がないではないか」
ようやく、その言葉でルーシーは意見を引っ込めた。
確かにロイに惨めな思いをさせてしまうかもしれない。せっかく拳闘を始めて生き生きとしている彼を、苦しめるかもしれない。
「それでも、私は心配なんです」
ルーシーは最後にそう言うと退席した。
◇
夕方、ロイが教会へやってくるのを見つけると、ルーシーはすぐに診療所から飛びだして彼の元へ駆けた。
診療所で働く同僚たちは、そんな彼女の様子を見て肩をすくめる。
彼らは皆、ルーシーが若い恋人を作ったことを知っていた。
大半は、それを好意的に見ている。堅物のルーシーの角が取れてきたのは事実だし、笑顔も増えた。それに生真面目な彼女は、職務をおろそかにすることは決してなかった。
少し遅めの青春だが結構なことじゃないか、と温かく見守っていた。
ルーシーはロイを連れて礼拝堂の横にやってきた。さすがに教会で逢引というような不謹慎なことはしておらず、互いの好意を確信したあの抱擁以来、この場所へは来ていない。
ロイが練習後にルーシーを送っていく、その短い時間だけが、この恋人たちの唯一の逢瀬なのであった。
「拳闘大会へ出場するのは危険ではないですか? 優勝狙いの者たちが大勢いるのでしょう?」
照れ臭そうにしているロイに、ルーシーは言った。
「まだ、拳闘を始めたばかりなんですよ、あなたは」
「それはそうだけど。ダルトン導師も筋がいいって褒めてくれたし。話したろ、リックにも勝てたんだ」
ロイは上気した顔で言った。
「彼は素人だったのでしょう? 本格的に拳闘をやってきた方々は違うと思いますよ」
「もちろん、分かってるよ。昨日は、ちょっと浮かれてたけどさ。頭が冷えたら、俺なんかが、優勝できるわけないってさ。でも、自分を試してみたいんだよ。それで、自分に少しでも自信がもてるようになりたいんだ。その、ルーシーさんの隣を堂々と歩けるように」
ロイはどこまでもまっすぐな青年だった。
ルーシーは彼の意志を否定することができなかった。
「心配してくれてありがとう」
こうなっては、もう、ルーシーはロイの大会出場を認める以外になかった。
◇
サンドバックを叩くロイを見ながらダルトンは、才能があるのも困ったものだ、と思った。
ロイの放つパンチはダルトンの目から見ても無駄がない。とても拳闘を始めて間もない青年のパンチとは思えない代物だ。
特にストレートの冴えは素晴らしい。サンドバックに突き刺さる拳は、相手を確実にノックダウンさせるほどの破壊力を持っている。
フットワークやガードなど、まだまだ拙いところは多いが、それでもその成長速度は、凡人を逸している。
だが、だからこそ危険でもあった。
拳闘士の中には相手を破壊することに躊躇をしない者もいる。ロイの才能は、そういう者を本気にさせるかもしれない。
ルーシーの危惧も、あながち的外れというわけではないのだ。
まあ、少しでも多く経験を積ませるしかなかろう。
ダルトンはロイに声をかけると、スパーリングの相手をするためにリングに上がった。
◇◇◇
灼熱の日差しがアルプの中央広場に降りそそぐ。
そこに集まる人の数は市の立つ日の比ではない。
広場の中央に設けられた青い四角いリング。一メートルほど高い位置に設けられ、四本の支柱が立ち、それらを繋ぐようにロープが張られている。
人々は、まもなくそこで行われる拳闘を見ようと、日差しと熱気で顔を赤くして立っている。
ジュースやビールを売り歩く売り子たち。
串焼きや揚げパンを売る屋台。
お祭り騒ぎだ。
その一角に青地に白をあしらったスモッグを着た一団がいる。
教会の教導師たちだ。
男性教導師は拳闘を必修としている。拳闘のファンも多い。ダルトンが赴任してから、彼らの拳闘熱がいっそう盛り上がっており、大会に参加する者もいる。
また参加は見合わせても、せめて大会の見学はしたいという者も多い。
ダルトンもその一人だ。
ダルトンは緊張で固まる参加者たちに声をかけていった。
内心、良いなあ、私も参加したいなあ、などと思っている。
ロイはその教導師の一団の中に交じっていた。傍らにはルーシーがついている。女性教導師は彼女一人きりである。
今頃ほかの女性教導師たちは教会で、男たちの無責任さに怒りをあらわにしていることだろう。
「くれぐれも無理をしてはいけませんよ。いいですね」
ルーシーは、もう何度目にもなる言葉をロイにかけた。
かけられた方は辟易しても良さそうなものだが、ロイは微笑んでうなずいた。
若くして世間の荒波に放り出されたロイにしてみれば、心配してもらえることがどれだけありがたいか知っていた。
基本的に世間とは無関心なものなのだ。
「分かってるよ、ルーシーさん。俺に何かあったら家族が路頭に迷うんだから」
「そうです。それに……」
ルーシーはそこで、うつむくと、小声で言った。
「私だって困りますから」
ロイはそんなルーシーをとても可愛らしく思った。年の差は17歳。だが、ルーシーには慎ましい可憐さがある。
二人とも互いの好意を素直に伝えあっているが、最初の抱擁の後は手さえ握っていない。
ロイは、相手は教導師なのだから結婚するまでそういうことは控えるべきだ、と考えていた。
ルーシーもやはりそうありたいと思ってはいたが、求められれば応じる覚悟はあった。男とは女を求める生き物だと、知識として知っているのである。
大会が終わったら求められるかもしれない、とルーシーは密かに考えていた。そして、それに対する期待があった。
「あのさ。この大会が終わったら、ルーシーさんにお願いがあるんだ」
ロイが強張った顔でどもりがちに言ったので、ルーシーは、やっぱり、と思った。
接吻? いえ、いきなり性行為かもしれないわ。
どちらも彼女にとっては未体験である。
「わ、わかりました。その、出来る限り、あなたの要望にはお応えします」
露骨に挙動不審になりながらも答えた。
「もったいぶるような年ではありませんからね。はい、大丈夫です。大丈夫ですよ」
まるで大丈夫ではなさそうな様子でトントンと胸を叩く。
ロイの顔がパッと明るくなった。
自分の気持ちがルーシーに通じたことを悟ったのだ。
彼は結婚を申し込むつもりであったのだ。
ロイは、ルーシーが考えていたよりも、さらに初心であった。
「ですから、必ず、無事でいてください。……わ、私の元へ、戻ってきてください。必ずですよ」
◇
大会が始まった。
形式はトーナメント。勝者のみが上へと進んでいき、決勝戦で優勝を決める。
そのため第一試合は戦う人数が多い。第一試合のみ、10分間という制限時間が設けられていた。
やがてロイの出番が来た。
「落ち着いて、いつも通りやりなさい。なあに、頭は真っ白でも、体が覚えているものだ」
ダルトンが言って、半裸で革のグローブをつけたロイに言った。ズボンは膝丈までのものを履いている。
「はい」
ロイは見るからに緊張している。
初めての試合なので無理もない。
今まで、こういった大舞台に立つことなどなかったのだから。
ルーシーは両手の指を組んで、祈るようにロイを見上げるだけだった。心配すぎて言葉が出てこない。
ああ、主よ、どうかロイを無事に返してください。
そんなルーシーに、ロイがぎこちなく笑いかけた。
「とにかく、精一杯やってくるよ」
「は、はい、お願いします」
妙な返しになってしまった。
リングに立つ縦じまのシャツを着たレフリーが、ロイの名を呼ぶ。
ロイは、よしっ、と気合の声をあげると、人垣を割って、リングに向かった。
高いリングによじ登り、ロープをくぐる。
反対側からロイの第一試合の相手が来た。
ロイよりも二回りほど大きな男だった。腕も胴回りも首も太い。いかにも喧嘩慣れしてそうな雰囲気があった。
「が、頑張って」
ルーシーの声。
ロイが振り返ると、彼女は必死な顔で彼を見ていた。
緊張で強張った体と心に炎が宿ったかのようだった。
第一試合は試合数が多いのでどんどん進めていく。レフリーが二人を中央に呼ぶと、拳を構えさせる。
カーンとリングサイドでゴングが鳴った。
敵はいきなり攻勢をかけてきた。
左手のジャブと、右手のストレートを交互に連打する。
だが、どちらも腕力で振り回している。フォームがめちゃくちゃで、勢いはあるが隙が大きい。
フットワークでかわしながらも、ロイは相手を観察した。相手の足運びは拳闘のそれではない。足を止めてパンチを連打し、歩いて動く。
ロイはコーナーに追い詰められないように、円の動きで相手との距離を保ち続けた。
ダルトンがしつこいくらいに言っていた。
「よく相手を見ることだ。そうすれば、多くの経験を積むことができるし、引き出しも増える。運を頼りにしなくとも済むようになる」
それから、ダルトンは懐かしそうな顔で言ったものだ。
「あの勇者アルフレッドもな。出会った頃は本当に小さくてなあ。人より特別に秀でたところがあるようには見えなかった。だが、だからこそ彼は勇者と呼ばれるほどになったのだと私は思う。アルフレッドは自分にできることの限界をきちんと知っていたし、敵をしっかりと観察することで、多くの戦い方を身に着けていったぞ」
勇者アルフレッドの話は兄弟たちに人気で、ロイは彼の話を聞くたびに家で話した。
おかげでなんだか身近に感じられた。
「今でこそ勇者などと呼ばれているが、素直で優しく、少し頼りない少年だったぞ。だが、芯が強かったな。彼の芯が折れたのは、私が知る限り一度だけだ。それも仕方がないものだった。アルフレッドは、身近な者たちを強く愛する者だったからな。それでも再び戻った時には、より強靭になっていた」
俺だって。
ロイは、そう思った。
愛している人たちがいる。
愛する人がいる。
相手選手の動きが鈍くなった。
パンチを空振りしすぎて、スタミナが切れたのだろう。
ロイは一気に距離を詰めた。
ジャブを二発。
そしてストレート。
相手選手は膝を折り、顔をマットにつけていた。
カンカンカンとゴングが鳴って、レフリーがロイの右手をかかげる。
「勝者ロイ」
賭けをしている一角で大歓声が起こった。ダルトンの弟子のロイに、興味本位で賭けた者も多かったのだ。
それまでの試合とは打って変わった熱烈な拍手が、観客たちから沸き起こった。
ロイはそれらに、こそばゆいほどの誇らしさを感じた。だが、彼が一番嬉しかったのは、たった一人の笑顔だった。
ルーシーは子供のように大喜びしていた。
◇
第三試合にもなると、人数も減り、試合の内容も濃くなってきた。賭けもヒートアップし、声援も鬼気迫るものとなる。
ロイは順調に勝ち進んでいる。
第三試合の相手は拳闘経験者で、第一試合のように無傷とはいかなかった。それでも、ロイには相手のパンチが見えたし、それを確実に避けたり、弾いたりすることができた。
最後は硬いガードを割って、渾身のストレート。
相手をマットに沈めた。
ロイはかなり人気で、賭場を中心にロイを応援する声があがっている。勝ちを収めた時など大歓声である。
「大人気だな。ルーキー」
リングを降りたところで、声をかけられた。次の試合の選手。そして、優勝候補。
ガーマスだ。
198センチという長身の彼と並ぶと、170センチ前半のロイも子供のように見える。
縦だけではなく肩幅も広く、体つきもがっちりとしている。
だが、拳闘のために磨き抜かれた体つきとは違い、ゆるみがある。
とくに下半身。太ももの半ばまでしかない短いズボンを履いているので、上半身と比べて足の細さがよくわかる。
見る者が見れば、拳闘士として、まだまだ研磨されていないとわかる体つきだ。
ロイにはそこまでの観察眼はなかった。
無敗のチャンピオンに圧倒されていた。
「ダルトン導師が人気なだけですよ」
「分かってるじゃないか。次は俺とやるんだ。せいぜい、観客たちを楽しませようぜ」
言うと、ガーマスはリングに上がった。
それまでのガーマスの試合を見てきたが、今日の彼は今一つであった。第一試合は相手が弱すぎて判断すべくもないが、第二試合は泥仕合に近かった。
おかげで、賭場は困惑している様子だった。本来なら手堅い賭けであるはずなのだ。
もちろん、これはアルフォートからの指示である。ガーマスに人気を集めすぎず、ロイとの試合はどちらが勝つか予想できないようにする。
せっかくの好カードなのだから。
第三試合のガーマスの相手は、教導師でダルトンの弟子ロンド。
ロイは彼と毎日、練習場で顔を合わせているし、何度もスパーリングしている。
真面目で努力家の青年だ。
ロイはほかの教導師たちとともにロンドに声援を送った。
「厳しいかもしれんな」
ダルトンがぼそりとつぶやいた。
近くにいたロイだけには、それが聞こえた。
「相手はチャンピオンですからね」
ロイが言うとダルトンが首を横に振った。
「ブラザー・ロンドは優しすぎる。人相手では本気でパンチを打てないのだ。ああいう、荒々しいパワータイプとは相性が悪い」
ゴングが鳴った。
先に仕掛けたのはロンドだ。
すっと、ガーマスの懐に飛び込むと、ボディを打つ。そこから横に回り込んで、ジャブの連打。
軽やかなフットワークだ。
ガーマスはガードはしているが、ロンドのパンチを防ぎきれていない。
ついに、その足がよろけ、ダウンする。
観客席から悲鳴があがった。
不調とはいっても、やはり一番人気なのである。
「今日はどうしたんだよ、ガーマス」
などという声もあがる。
「ふざけたことをする」
ダルトンが苛立った声を出した。
ダウンがガーマスの演技だと見抜いたのだ。
ロンドの拳が鈍った。ガーマスを気づかっているのだ。相変わらずのフットワークでガーマスを翻弄しているものの、手数が減っている。
ガーマスが二度目のダウン。
観客席は静まり返った。
パンとダルトンが拳で手を叩いた。
怒りが顔に浮かんでいる。怒声をあげたいのをこらえているようだ。
ロンドは明らかな心配顔で、ふらつくガーマスを見ている。
足も止まりがちだ。
まずい、とロイが思った時には遅かった。
ガーマスの長い手が伸びて、ロンドの顔をまともに打ったのだ。
ロンドが吹っ飛んだ。それほどの一撃だった。
そのままロンドは横倒しになる。
ダルトンが駆け出した。
テンカウント。
ゴングが鳴ると同時に、ダルトンはリングに上がり、ロンドに飛びついた。
幸い、ロンドは失神していただけだった。
鼻は折れ、鼻血が大量に流れているが、呼吸はできている。
「あなたの弟子もこんなものですか。聖拳ダルトン」
ガーマスが言った。
「つまらんことに気を回すな。リングでは全力で戦え」
ダルトンは彼に背を向けたまま言った。
ガーマスがロンドの性格を知っていて、二度もわざとダウンしたわけではないだろう。ただの偶然だ。
相手を油断させる作戦といえば、そうなのだから、ルール違反でもないし、悪いわけでもない。
それでもダルトンはガーマスが不快であった。
彼が演じたのは、勝つためではなく盛り上げるためだったからだ。
「俺は、あんたと戦ってみたいんだ。なあ、やろうぜ」
ダルトンは振り返った。
驕った顔が見下ろしていた。
「技術も心も未熟だな」
それだけ言うと、ダルトンはロンドに治癒の御力をかけた。
「ロートルがもったいぶるんじゃねえよ」
ガーマスが吐き捨てるように言った。
◇
準決勝。ロイとガーマスのカードがぶつかった。
賭場は半々に別れた。期待のルーキと最強のチャンプ。腕を組んで難しい顔をして悩むギャンブラーたち。
もう一方の試合は、どちらの選手もこの二人に比べれば見劣りする。恐らくは、この戦いの勝者が優勝するだろう。
実質的な決勝戦だ。
ロイは震えていた。
武者震いだ。まさか、自分のようなものが、最強のガーマスと戦うことになるとは思わなかったのだ。
「あやつは、今までの試合で本気を出しておらん。絶対に自分のペースを崩すな」
ダルトンが言った。
ロイは、はい、と硬い声で返事をした。
ほかの教導師たちも、次々にエールを送る。
彼らに励まされ、鼓舞されながらも、ロイの視線は、祈るような目で自分を見つめるルーシーにいっていた。
もしガーマスと良い戦いができたら。
俺はきっと大きな誇りが持てる。
ルーシーさんにプロポーズする勇気が出るはずだ。
勝てるとは思わない。そんな不遜な考えはロイにはなかった。
ロイには、ガーマスが今までの人生で自分の前に立ちはだかってきた壁のように思えた。
母の死。父の病。貧困。
仕方がないと諦めてきたそれらの理不尽。
そして今、彼は分不相応な恋をしている。
ロイは固く拳を握るとルーシーに向かってうなずいた。
諦めずに壁を越える。
ガーマスと戦い、誇りを勝ち取ってみせる。
レフリーがロイの名を呼んだ。
人垣が割れて、リングまでの道ができる。
ロイは足の震えを悟られないように、力いっぱい、一歩一歩踏みしめて歩いた。
ロイがリングに上がると、今度はガーマスの名が呼ばれる。やはりチャンピオン。大歓声だ。
「頼むぞ、ガーマス」「いつもみたいにやってくれよ」
と彼に賭けた者たちが大声をあげる。
ガーマスは余裕の表情で肩を回して歩いてくる。彼にしてみれば、ようやく本気でやれるのだ。
力の差を徹底的に見せつけてやることにしよう。そうすればダルトンもリングに上がるかもしれない。いや、彼をリングに誘うために、ロイを無残に踏みつぶしてくれる。
ロイとガーマスは向き合い、構える。
ロイには決意の表情が、ガーマスには残虐な笑みが浮かぶ。
ゴングが鳴った。
次の瞬間、ロイは吹っ飛んでいた。
背中にロープがぶつかり、はっと我に返る。
ガーマスのパンチ。
ガードの上からだったが、その衝撃はロイの体を大きく飛ばした。
そこにガーマスが接近。背も高ければ足も長い。
ロイがロープから身を放す前に、ガーマスの長いジャブが襲い掛かる。
ロープを背負ったロイは、それをかわしきれない。
ガードを突き破って、ガーマスのパンチがロイの顔を打つ。一発が重い。
意識が朦朧とし、ガードが下がる。
そこにストレートがきた。
ロイの視界が白くなり、気が付くと、青いマットに頬をつけていた。
レフリーのカウントが聞こえる。
ガーマスの裸足の足が見える。
強い。
強すぎる。
自分があのガーマスと良い戦いができるなど不遜な考えだったのだ。
次は殺されるんじゃないか?
そんな恐怖が頭に浮かんだ。
父の顔。弟妹たちの顔。
そしてルーシーの顔が浮かぶ。
嫌だ。
死にたくない。
恐怖がロイにのしかかり、彼が起き上がる邪魔をする。
カウントが7までいった。
このまま寝ていよう。
誰も自分を非難しないだろう。ガーマスが勝つのは当然なんだから。
その時。
彼の名を呼ぶ観衆の声の中から、確かに、ルーシーの声が聞こえた。
心配そうな、泣きそうな、悲鳴のような声。
何度も何度も、ロイを呼ぶ声。
ここで逃げたら。
立たなかったら。
もう、彼女の顔が見れない。
誇りをもって、ルーシーに向き合えない。
壁を越える意志を捨てたら、諦め続けることしかできなくなる。
レフリーが9のカウントを唱える。
ロイは立ち上がっていた。
足の震えはリングに上がる前の比ではない。
恐怖で、すぐにでも背を向けて逃げ出したい。
ダルトン導師。教えてください。
どうすれば恐怖に勝てるんですか?
「勝つ必要などないぞ。恐怖は敵ではないのだからな」
ダルトンの声が聞こえた。
いつだったか、ダルトンが言った言葉だ。
「そうだな。恐怖も耳や目のようなものだと思えばいい。頭が危険を予想し、警告していると考えろ。だから、参考にしてやるのだ。なるほど、な。そう思えばいい。その危険に陥らないためには、どうすればいいか考えるための判断材料にしなさい」
震えが止まった。
顔を上げて、まっすぐにガーマスを見る。
余裕の表情を浮かべている。
たっぷり遊んでやろう、そんな顔。
死なないようにするにはどうすればいい?
最強の一撃であるストレートを頭部に受けないことだ。危険なのは、ストレートの威力がもっとも高い距離で、それを受けることだ。
奴の腕は長い。腕が伸びきらない位置なら、力が乗り切らない。
奴の距離で戦うな。
自分の距離で戦うんだ。
レフリーが掛け声とともに身を引いた。
ロイは身を低くして、一気に踏み込んだ。
ガーマスのパンチがロイの頭の上を走る。
ガーマスにしてみれば、ロイは当然、逃げ腰になり、距離を取るだろうと考えていた。最初に相手を圧倒して心理的に退かせる。
それがガーマスの必勝戦法だ。
リーチが長くパワータイプのガーマスにしてみれば、距離をおいての打ち合いが得意だ。相手を懐に飛び込ませず、遠距離からのクロスボウの矢のように、破壊力のある一撃で潰していく。
小癪な野郎だ。
ガーマスはロイを引き離そうと、横からのフックを放つ。
それをロイはガードしたが、衝撃で足が止まる。
だが、すぐにまた踏み込んできた。
ガーマスのジャブを弾き、閃光のようなジャブを返す。
ガーマスの頬をかすめた。
ガーマスがのけぞった。それは油断ならないロイのパンチに対する反射的な行動。だが頭が後ろにいけば腹が出る。
そこにロイのボディが炸裂。
ガーマスの慢心。研磨が足りないとダルトンがひと目で見抜いたように、彼の腹筋はロイのボディを受け止めきれない。
ぐっ、とガーマスはうなって、体をくの字に折った。
すかさずロイのジャブが頬を打つ。
そこからのストレート。
ダルトンが丁寧に教えたパンチだ。
腕で打つのではなく、体全体を使って打つ。全身の力を一点に伝える。
ガーマスの巨体が飛んだ。
会場が静まり返る。
今度はガーマスがマットに横たわっていた。
すぐに我に返ったレフリーがカウントを始める。
ガーマスはすぐに起き上がった。
怒りで顔を赤らめている。
ロイドと戦った時のような演技でのダウンではなく、本物のダウン。それに矜持を傷つけられたのだ。
レフリーの掛け声。
ガーマスが次々とパンチを放つ。
それは威力重視の大振りだ。
開戦直後に放ったストレートとは比べるべくもない未熟なパンチたち。
やはりダルトンが見抜いた通り、拳闘士としての精神の未熟さにより、感情に流され、戦いが雑になる。
対してロイはどこまでも冷静だった。
恐怖を隣に抱きながらも、一つ一つのパンチを確実にかわし、弾き、さばいていく。
ひとつのミスが致命的になる。
相手は劣勢を簡単にひっくり返せるだけの力を持っている。
相手をよく見ろ。
距離を取らせるな。
パンチの質を見きわめろ。
空振りを続けるガーマスは、動きが鈍ってきた。今まで、恵まれた体格と運動能力で、相手を圧倒して、嬲るように倒してきた。
劣勢に回ることがほとんどなかったのだ。
それが精神的にも、肉体的にも、打たれ弱さとなっていた。
日々の鍛錬はペースが乱れた時にこそ、真価を発揮する。
ガーマスの練習不足は、彼の乱れたペースを戻しはしなかった。
ガーマスの足が止まった。
ロイが動いた。
最速でガーマスに接近すると、ボディ。
次にジャブ。もう一度、ジャブを打って、渾身のストレート。
それを観客席から見ていたダルトンは、ぶるりと、体を震わせた。
筋がいいとは思っていた。
基本をきっちりと身に着け、鍛錬を続けていけば、強くなるだろうとは思っていた。
だが、今の一連のコンビネーションは、ダルトンのそんな期待すらも凌駕した。
それほど、無駄がなく、速く、美しかった。
一人の少年の姿が頭に浮かんだ。
黒髪黒目。少し頼りなげな戦士の少年。
ダルトンが彼の真価に気づいたのは、ずいぶん後のことだ。
ロイと彼とではあまりにもタイプが違う。
彼はロイのような天才型ではなかった。
それでも、二人にはどこか通ずるものを感じた。
それはきっと人生に向き合う姿勢のようなものなのだろう。
レフリーがカウントを刻む。
中々、ガーマスは立てない。
それでも、8で、なんとか立ち上がり、ファイティグポーズを取る。
ダルトンの目には、もう試合の勝敗は明らかだった。
ガーマスの目には恐怖が浮かんでいる。
そして彼はそれと向き合う術を知らない。
そこからの試合展開は一方的だった。
ガーマスの動きは鈍く、守勢に回ってばかり。だが、もともと攻勢が得意な彼は、相手を引き離す技が少ない。
拳闘の経験が多くても、引き出しが少ないのだ。
対して、ロイは自身のペースを保ち続けた。淡々と、確実に、相手の力を削いでいく。圧倒的な優勢であっても、緊張感を切らさず、丁寧に、練習した動作を繰り返していく。
やがて、ガーマスは三度目のダウンをした。
レフリーがカウントを刻む。
観衆が、特に、賭場近辺の観衆が、ガーマスに怒声のような声援を送る。
「起きろ」「なにやってんだ」
だが、ガーマスは起きなかった。
レフリーが10を口にした時、彼はまだマットに頬をつけたままだった。
レフリーが、呆然と倒れたガーマスを見下ろすロイの手を掲げた。
歓声が爆発した。
ロイはリングサイドを見た。
教導師たちが押し寄せている。
ダルトン、そしてルーシーがいた。
ルーシーは泣いていた。
泣きながら笑っていた。
ロイは彼女に笑い返した。
◇◇◇
「その……ルーシーさん……」
ロイは、もう何度目かになる言葉を発した。
「はい」とルーシーが顔を赤くしたまま返事をする。これも、先ほどから何度となく繰り返された光景だ。
場所は礼拝堂の横。熱い日差しが、くっきりと四角い影を地面に映している。その中に隠れるように二人は立っていた。
一昨日の試合後、アルフォートから、ねぎらいの言葉と休暇を貰ったロイ(優勝賞金は大会の最後に貰った)。
昨日はさすがにくたびれて家でぐったりとしていたが、その胸は高鳴り、興奮のあまり、休むに休めなかった。
なにやってんだ。プロポーズするんだよ。
ロイは続く言葉を吐き出そうと気力を振り絞る。ルーシーが眼鏡の奥の緑色の瞳をキラキラとさせて、ロイの言葉を待ち続けている。
ルーシーも緊張している。
ロイが教会へ来たのを見つけた教導師が、ルーシーを呼び出してくれた。
ルーシーは一昨日からロイのことばかり考えていて(優勝したら約束の報酬を与えなくてはいけません)、職務中に一人真っ赤になったり、身もだえしたりしていた。
ロイが来たと聞いて、一も二もなく事務室を飛びだして、彼を礼拝堂の影へと連れてきた。
何度も言葉を途切れさせるロイに、来るか来るか、と待つルーシー。
接吻か、もしくはその先か。
さすがに教会内でそんなことをするわけにはいかない。今夜、教会の帰りに、ということになるだろう。
ここでは、その約束をするだけ。
もちろん言いづらいに決まっている。
自分は教導師で、ここは教会なのだから。
ルーシーは、急かすでもなく、ロイの言葉を待ち続けた。
「ルーシーさん。俺は、あなたが好きだ」
ロイはついに気力を振り絞り、かすれる声で言った。
「は、はい。私もあなたをお慕いしてます」
ルーシーは震える声で言った。
「お、俺と……」
「はい」
「俺と……け、結婚してください」
「は……はい?」
ルーシーは思いがけない言葉にキョトンとなった。
一方、一度、想いを解き放ったロイは、拳闘のコンビネーションのように、続く言葉が出てきた。
「俺、あなたと一緒になりたい。もちろん、教導師を続けてもらっても構わないし、あなたのいいようにしてくれたらと思う。指輪とか、俺、どうすればいいのか分からなくて。あなたは教導師だし、贈っていいかどうかも。そういうの、あらためてちゃんとする」
ロイは呆然とするルーシーの手を取った。
「俺をあなたの夫にしてほしい」
ルーシーは、まさか結婚を申し込まれるとは思わなかった。
もちろん、そういうことは夢見たが、さすがに年が離れているし、自分は教導師である。
(教導師の結婚率は、一般人よりもかなり低い。これは単にお堅いというイメージのせいである)。
ロイがそんな気になるとは現実的に考えてあるわけがない、と否定していたのだ。
いや、期待しないようにしていたのだ。
「私と結婚を? この私とですか? で、ですが、私は三十五歳ですよ。あなたは十八歳。釣り合うとはどうしても……」
ルーシーにとっては、この歳の差は非常に負い目になっていた。
ロイのような素晴らしい若者が、自分のような年増を愛していてくれることが、奇跡のように思えていたのだ。
教導師として、告解を聞いているルーシーは、男女間のことにかなりシビアな見解を持っていた。
「年齢なんて。ルーシーさんは綺麗だし、教養もあって、優しくて。俺みたいななにも持ってない奴には相応しくないって思ってた。だけど、俺は、もう勝手に諦めないって決めたんだ」
「ですが、十八歳の差ですよ。あなたの母親といっても通用する年齢です」
「ルーシーさん」
ロイは大きな声を出した。
「俺と結婚してほしい」
それはロイの必殺のパンチのように、まっすぐにルーシーの胸に届いた。すると、彼女を躊躇させていた年齢差という壁が、ふっと消えていることに気が付いた。
ただただ、ロイのことが愛おしい。
「はい」
ルーシーはついに自分の心に素直になった。
「はい、私でよければ、あなたの側に置いてください」
彼らの二度目の抱擁は、長く長く続いた。
◇◇◇
1022年3月。
まだ地面に少し雪が残るアルプの街の中央広場。広場には大勢の人が集まっていた。
多いのは男たちだ。誰も彼も興奮した面持ちで、少し高い位置に設けられた四角いリングを見ている。
先週まで、ちらほらと降っていた雪も、週が変わってからは、まったく姿を見せず、それどころか好天の毎日が続いている。
この日も空は良く晴れていた。
リングには三人の男が立っている。
一人は縦じまのシャツを着た男。レフリーだ。
残る二人は拳闘士。短いズボンに上半身は裸。靴も履いていない。
拳闘士たちは、ずいぶん年が離れている。
片や、二十そこそこの若者。
片や、五十を越えた中年。
だが、どちらも絶え間ない鍛錬により鍛えられた体をしている。無駄なく引き締められた筋肉の鎧。
若者は中肉中背。短く刈った黒髪に黒い瞳のハンサムな青年だ。
アルプ拳闘大会の現役チャンピオン。それも三年連続のチャンピオンだ。
中年はガッシリとしている。短く刈った白髪頭に四角い顔。拳闘士としては生ける伝説ともいわれる無敗の戦士。聖拳ダルトン。
太陽教会の拳闘大会で十年以上チャンピオンとして君臨し続け、かつてはあの勇者アルフレッドの仲間として勇名を轟かせた。
アルタードラゴンを復活させた魔法使いにより、クラングラン大教会は襲撃され、同教会の大教会長メイラは命を落とした。
彼女に代わり、ダルトンは大教会長として、クラングランに戻ることになった。
「ひとつ、心残りがあるなあ。アルプでは一度も試合をしておらん。試合をしたいなあ」
クラングランに戻ることが決まってから、何度も何度もそんなことをつぶやく大教会長。それに教導師で彼の拳闘の弟子たちは、せめてもの恩を返そうと拳闘試合を企画。
対戦相手は現役のチャンピオンにして、ダルトン秘蔵の弟子ロイ。
こうして、ダルトンのアルプでの最初で最後の試合が、催されることとなったのである。大教会長という立場を配慮して賭けは行われず。だが、だからといって、盛り上がりが欠けるわけではなかった。
壮行試合の話を聞いた街の男たちは、早くその日が来ないかと、心待ちにしていた。
なにしろ、あの伝説の拳闘士が戦うのだ。
それもチャンピオンと。
リングサイドには、青い教導着姿の教導師たちが陣取っていた。
その中に、教導着ではない、ベージュ色のコートを着た女性がいる。教導師たちの中に交じっても違和感がないのは、彼女が三年前まで教導師だったからだ。
肩甲骨のあたりまで伸びた明るい金髪を、胸に抱いた赤子がぎゅっぎゅと引っ張っている。
現役チャンピオンであるロイの妻ルーシー。今や、一児の母である。
ルーシーは眼鏡の奥の瞳で、夫と、かつての上司が向き合うのを眺めていた。
二人とも本当に楽しそうだ。
拳闘士の妻であっても、ルーシーには拳闘の良さがさっぱりわからない。正直にいえば今でも野蛮だと思っている。
だが、それでも、男たちが拳闘を子供のように無邪気に楽しんでいる様は、なんだか羨ましかった。
「パパ、パパ」と娘のロミナが舌足らずな声をあげる。
「ロイさん、頑張って」
ルーシーも声援を送る。
結婚して三年経つが、今でもルーシーもロイも互いを、さん付けで呼んでいる。その方がしっくりくるのだ。
夫婦仲はこれ以上ないほど良好。どこへ行くのも一緒のオシドリ夫婦だ。
ロイが振り返ってグローブをつけた手を振る。その目には愛おしさがあふれている。
ロイはいつでも、まっすぐで自分に正直。
人目をはばかることなく、ルーシーに愛を捧げる。
ルーシーはそんなロイが、たまらなく好きだ。
こうしてわずかな時間目が合っただけで、あの日のように互いの中の愛情を通じ合える。
ロイが再びダルトンに向き直った。
レフリーの言葉で二人は構える。
歓声が春を呼び込むように、青空に吸い込まれていく。
カーンとゴングが鳴った。
最後まで読んでいたたき、ありがとうございました。
だれ得かとは思いましたが、書いてるときは結構、楽しかったです。




