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恋と拳闘

 翌日、ダルトンは早朝から書類の山に向き合っていた。さすがにあれだけ説教をされたのに、たった二時間しか書類仕事をしなかったというのはまずい。

 結果はともかくとして、せめて誠意は見せた方が良いだろう、と早朝から取り組んでいるのである。


 シスター・ルーシーはねちっこいからなあ。


 容赦なく罵倒してきた元上司のメイラと違い、ルーシーは丁寧に正論で殴ってくる。永延と正論で殴り続けてくる。

 こちらが悪いので仕方がないのだが、とにかく説教がくどいのだ。

 彼女が真面目で責任感が強いことは知っているので、反抗する意欲がわかず、それどころか、じくじくと良心が痛み、こう心が鬱屈してくるのである。


 そろそろ朝の礼拝の時間だろうか、とペンを置いた。

 アルプ大教会では朝の6時に礼拝堂に集まり、祈祷と聖歌の合唱、大教会長の説教が行われる。

 毎朝、毎朝、説教のネタを考えなくてはならず、人によっては大変苦労させられる部類だろうが、ダルトンはにまるで問題がなかった。

 説教は別に好きというわけではないが嫌いでもない。どちらかといえば得意な部類である。事前に内容を考えなくとも、礼拝堂に向かう間に、こんな話をしようか、と考えて、それを話すだけである。


 ダルトンが席を立ったところでドアがコンコンと叩かれた。


「大教会長。礼拝の時間です」

 ルーシーの声。


 ダルトンは軽く身支度を整えるとドアを開けた。


「おはよう、シスター・ルーシー」


 おはようございます、と挨拶を返すルーシー。常の眼鏡の奥の鋭い眼差しが、今朝は戸惑ったような緊張したような色を浮かべている。

 ダルトンは、それを昨日の説教で言い過ぎた、とでも思っているのだろうな、と考えた。


「昨日は申し訳ないことをした。副教会長に業務態度を正されるとは、我ながら情けない。以後、気を付けるので勘弁してほしい」


 元上司のメイラならば、ふん、と鼻で笑うところである。この間もそう言ってたわね、と冷たい言葉を返すところである。


「い、いえ、私の方こそ、言葉が過ぎました」

 ルーシーとしては、昨日のことをいきなり言われて、拳闘をダルトンに教えてほしいと頼んできたロイ青年の話を、ますます切り出しにくくなった。


 二人で並んで礼拝堂へ向かいながらも、ルーシーは、結局、ロイの話をすることができなかった。


 朝の礼拝が終わり、教導師きょうどうしたちで集まって朝礼をする。各々の今日の役割を確認し合うのである。


「今日は、一日、執務室にこもって書類仕事に専念するつもりだ」

 ダルトンはルーシーに宣言するように言った。

「残念ながら拳闘の指導はできない。残念だが」


 そんなっ、と教導師きょうどうしの何人かが悲痛な声をあげる。


「大教会長。昨日の夕方、今日スパーリングをしてくれると約束してくれたじゃありませんか」

 一人の教導師きょうどうしが言った。


「一緒に浜の拳闘試合を見に行こうと誘ってくださいました。昨日の三時過ぎのことです」

 別の教導師きょうどうしが言った。


 そうですよ、約束したじゃないですか、と唱和する声。


 ゴホンゴホンとひたすら咳をするダルトン。なぜ、時間帯までいちいち言うのか、と恨めしく思った。

 ルーシーの視線が痛い。


「まあ、その、あれだな。確かに、気分転換に散歩がてら練習場を覗いたが……。うん、それらはまたの機会ということで」

 苦し紛れに言うダルトン。


 大教会長、とルーシーが声をあげた。


「は、はい。なんでしょう。副教会長」

 ビクリとしてダルトン。


「実は昨日、大教会長に拳闘を教えてほしいという若者に出会いました。休日に教会に来るように言っておいたので、もしよければ指導してあげてください」


「う、うん? 良いのか?」

 説教をくらうとばかり思っていたので、ダルトンが戸惑った。なにかの罠では、などと疑う。


「すみません、勝手な約束をして」

 ルーシーが怒るどころか申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「いやいや、構わんぞ。教会外からも指導を仰ぎにくる者は多いからな。一人増えたところでどうということはない」


「まあ、それはそれとして。書類の方もおろそかにしないでくださいね」

 ルーシーが鋭い眼差しに戻り、ダルトンを睨む。


「もちろんだとも。今朝も、朝早くから机に向かっておったところだ」


「皆さんで、浜に拳闘を見に行くのはどうかと……」


「うむ、それはやめよう。私が間違っていた」


「気分転換もほどほどにしていただけたらと思います」


「そうだな。その通りだ。冷静に考えてみれば、業務をとどこおらせてまで見に行くようなことではない」


「そもそも、なぜ、そんな約束をしたのでしょうか? あれほど、私が言葉を尽くしたそばから……」


 うん、これは長くなるやつだな、とダルトンは内心辟易するのであった。




◇◇◇




 週末に教会にやってきたロイは、あざだらけ傷だらけであった。特に顔は見るも無残に腫れて、本人だとは見分けがつかなかった。


 仕事の合間にロイの顔を思いだすというくらいに彼を気にかけていたルーシーは、酷く憤慨した。

 彼の怪我が暴行を受けたものであることは一目瞭然だった。


「あの男たちがやったのですね」 


「ああ、でも、あんたに手を出すようなことはないと思う。良かったよ」

 口も腫れているので声がもごもごとしている。いびつに微笑んだ。

「リックもダルトン導師は怖いらしい」


「すぐ治しますね」


「いいよ。金、無いんだ。放っておけば治るから」


 礼拝堂の前である。診療所へ出入りする人々がちらちらと見ている。

 ほかの教導師きょうどうしの目もあるし、寄進も無しに治すというのは、はばかられる。


「こっちへいらっしゃい」

 言って、ルーシーは先に立って礼拝堂の裏へ向かった。


 木々が茂り、隣家と教会の敷地をへだてている。日差しは礼拝堂に遮られ、影となっていて薄暗い。

 ここならば診療所とは反対側なので、人は滅多にこない。


「まずは顔から治しましょうか」


 ルーシーは御力おちからの源となる聖丸を飲むと、白く輝く手でロイの頬に触れた。

 ロイの顔が黄色く輝く。生命エネルギーであるエナが活性化して、治癒力を高めているのだ。


 そうして全身の傷を治した後、内緒ですよ、と言いおいて折れた歯を復元の御力おちからで治した。

 四肢の欠損や歯などは自然治癒しないため、治癒ではなく復元で魂に刻まれた肉体の記憶を呼び戻す必要がある。


「はい、これで元通り」

 ルーシーは額の汗を拭って言った。


 治癒は慣れたものだが、高度な御力おちからである復元は、まだまだ気を張る。

 ほっと一息つくと、ロイが自分に熱っぽい眼差しを向けていることに気が付いた。


 すぐに女性として意識されている、と気づいたが、素知らぬ振りをした。ロイの視線に対しても、それを喜ぶ自分の気持ちに対しても。


 だが、人気のない薄暗い場所で二人きり。木の葉を揺らす風が、ロイの汗の匂いをルーシーの鼻に運んでくる。


「なんで、こんなに俺に親切にしてくれるんだ?」

 ロイが言った。


「それは……」

 言い淀んだ。それから、模範的な教導師きょうどうしとしての回答に、ルーシーは逃げた。

「縁というのは主のお導き。困っている人を助けるのも教導師きょうどうしの役目です」


 ロイの視線の熱が、すっと消えた。

 ルーシーは安堵すると同時に切なさを感じた。



 ロイを紹介されたダルトンは、彼の周りをぐるりと回って、半裸になった上半身を眺めた。

 筋肉の付き具合は悪くない。バランスよく筋肉を使う仕事をしているのだろう。

 パンチを打たせてみると、荒いながらも光るものがあった。

 努力次第では強くなりそうなタイプだ。


「よしよし、みっちりと鍛えてやろう。平日も仕事終わりに来ても良いぞ」


 緊張して強張っていたロイの顔が感激で輝いた。

「ありがとう、ダルトン導師」

 何度も何度も礼を言う。


 練習場にロイを連れてきたルーシーはその様を見て、心にモヤモヤと嫉妬心が沸いた。ロイは、あの時、自分に向けた視線など比べ物にならないほど、熱い視線をダルトンに向けている。


 誰も彼も殴り合いに熱くなって。

 などと腹立たしく思うルーシーだった。



 その日の夜、帰途につく前にルーシーは練習場に顔を出した。

 すっかり暗くなった練習場だが、ランプ(光石製)の灯りの元、男たちが練習に励んでいた。

 ダルトンも指導している。


 近づいてくるルーシーを見ると、ダルトンは露骨にひるんだ顔になった。


「いや、ついさっき来たところだぞ。本当に、それまで一生懸命、机に向かっていたのだ」


「休日まで書類仕事にかかりきりになれとは言いませんよ。ロイは、どうですか?」


「ああ、筋がいいな。なにより、素直で真面目なところがいい。ああいうタイプは伸びるだろう」


 ルーシーは自分のことのように誇らしく思った。ダルトンに、彼と出会うまでの経緯を話す。

 ダルトンはロイを殴っていた者が拳闘をかじっていると聞き、苦々しい顔になった。


「拳闘を人をなぶるために使いおって」

 ダルトンの頭には、先日、浜で見た拳闘の選手のおごった顔が思い浮かんだ。

 ああいう手合いが勝ち続けると、それに影響されるのか拳闘を汚す輩が増えてくる。

 なんとかしたいところだが、自分が出場して性根を叩き直すのも大人げない。


「大教会長のおかげで、男性は誰も彼もが拳闘に夢中ですからね」


「わ、私のせいなのか?」


「大教会長がいらっしゃる前も、拳闘は愛されていましたけど。ここまで熱狂的ではなかったですよ。ほら、大教会長は有名ですから」


 太陽教の拳闘大会で無敗のチャンピオン。さらには、あの、今を時めく勇者アルフレッドの仲間。

 確かに、ダルトン自身、何度かサインや握手を求められたことがある。


「まあ、ともかく、拳闘をただの暴力におとしめるなと、今度の日曜礼拝で話そうかな」


 ルーシーは、日曜礼拝に来るような者には乱暴者は少ないのでは、と思ったが口には出さなかった。


「それに、ご指導をされている一般の方々にも、念を押してくださいね」


 大きな効果があるとは思えないが、ほかに良い手もないので仕方がなかった。




◇◇◇




 ロイは毎日、日が落ちた頃に通ってくるようになった。

 寄宿舎生活のダルトンは夜八時過ぎまで練習場で指導している。もちろん、その間に夕食を済ませているのだが、夕餉ゆうげの祈りもそこそこに練習場に入り浸るので、女性教導師きょうどうしの中には苦い顔をする者もいる。


 以前まではルーシーもそんな者たちの筆頭だったのだが、ロイを紹介して以来、態度を軟化させていた。


 ルーシーは帰途につく前に練習場を覗くことが日課になっていた。

 いくつかのランプの光のみで、ほの暗い中、男たちが宙に向かってパンチを打ったり、縄跳びをしたり、サンドバックを叩いたり。

 

 ロイもその中に交じって鍛えていた。

 一生懸命に汗を流す青年の姿に、思わず見とれてしまう。

 もう年甲斐もなく、と自分を叱咤することは諦めた。

 自分はどうも十六、七歳は離れた青年に恋をしてしまったらしい。


 仕方がないわ。恋をしてしまったんだもの。


 だからといって、なにかをするつもりはなかった。ただ、拳闘に打ち込む青年を一日の終わりに見ていくと、世の中が明るく見える。

 元気になる。


 ひと時だけでも生活にそんなうるおいがあってもいいんじゃないか、と思った。


 この日も、ロイを遠目に見てから話しかけるつもりもなく帰るつもりだった。

 だがロイが気が付いて駆け寄ってきた。


 汗にまみれた半裸。日々の成果か、体がひと回り大きくなったような気がする。その表情は明るく、日々が充実しているだろうことがよくわかる。


 見てくれよ、とロイがシャドーボクシングをする。終わった後に、どうだ、と言わんばかりの目でルーシーを見る。


 ルーシーは、子供が玩具を見せびらかすみたいだと思った。それがなんだか可愛らしくて、笑いがこぼれた。


「笑うなよ。そりゃあ、まだまだ様になっちゃいないけど」

 ロイがねたような顔をする。


「違いますよ。ただ、あなたが楽しそうだったから、つい微笑ましくてね」


「これから帰るのかい?」


「ええ」


「送るよ。ちょっと待っててくれ」


 言ってロイはダルトンに挨拶しにいった。

 話している内容はわからないが、ロイの態度が殊勝なのはわかる。

 すぐに戻ってきた。タオルで体を拭き、シャツを着る。


「それ、護身用かい?」

 ルーシーの持つメイスを見て言った。


「そうですよ。私みたいな者には不要かもしれませんがね。女ならばなんでもよい、と考えるような不心得者がいないとも限りませんから」

 自嘲気味にルーシーは言った。


「そんなことないだろ」


 ロイの声が尖ったのでルーシーは不思議に思って問い返した。

「何がです? やっぱり不要の備えだったでしょうか?」


「いや、そうじゃなくて。あんたが、私みたいな、なんて言うから。その、あんた綺麗じゃないか。すごく」

 そっぽを向いて言った。


 その言葉にルーシーの顔は、かあ~、と熱くなった。

 なにを照れているのよ、私は。

 そんな自分を叱る。


 夜道を二人並んで歩く。

 お互い照れくささを取り繕うように、らちもない話が続いた。

 ロイの小さな弟や妹たちのこと。教会での仕事のこと。毎年、夏に開かれる拳闘大会のこと。


「そういえば、最近、彼らはどうですか? まだあなたにちょっかいをかけてきますか?」

 家路の半ばを過ぎた頃、ルーシーは気になっていたことを切り出した。


「リック? ああ、まあ、絡んでくるよ。でも、前みたいに殴られなくなったな」


「それならいいですけど」


「見てなって、強くなって、あいつなんて返り討ちにしてやるからよ」


 ルーシーは、拳闘を喧嘩の道具にすることは反対だったが、一方的に殴られるよりはずっと良い、と思った。

 だから、頑張りなさい、とだけ返した。


 やがて家の側についた。

「ここでいいですよ。ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げる。


 すると、緩んでいたのか、髪をおおっていた青い布がほどけて地面に落ちた。

 ルーシーの明るい金髪が、満月に照らされてキラキラと光る。

 しゃがんで布を拾うと、ロイが呆然と彼女を見ていた。


 ルーシーはひどくドキドキとして息苦しくなった。夜の空気が、なにか別のものに変わったかのようだった。


「そ、それでは、おやすみなさい」

 ルーシーは耐えきれずに、髪を隠さないままに、ロイに背を向けて駆け出した。

 背中にロイの視線を感じたまま。




◇◇◇




 湯気をたてている料理が乗ったテーブルを、ロイは小さな弟や妹たちと囲んでいる。

 質素だが明るい食卓だ。

 母はすでに亡く、父は病に伏せっている。料理はすぐ下の弟が作った物だ。


「兄ちゃん、最近楽しそうだね」

 その弟のベックが言った。


 ロイによく似た、眉が濃くて鼻筋の通ったハンサム。年は十二歳。学校にも通わずに、弟や妹の面倒を見てくれている。


「ホント、ホント。なにかいいことあったの?」


「ひょっとして恋人ができた?」


 九歳と八歳の妹二人が口々に言う。


「いや、そんなんじゃねえよ。その、そういうんじゃなくてさ」

 ロイは妹たちの無邪気な問いかけに、ひどくドギマギとしてしまった。

 ルーシーの顔が思い浮かんだのだ。

「じ、実は拳闘を始めてよ。その、楽しくて。あれだぞ。あの、勇者アルフレッドの仲間だったダルトン導師から教わってるんだぞ」


 苦し紛れにダルトンの名前を出したロイだったが、それは弟たちに想像以上の効果があった。


「あの、勇者アルフレッドの仲間の聖拳ダルトンに。すげえ」


「無敗の拳闘士なんだぜ」


「勇者アルフレッドの話、聞きたい」


「あたしはサーベル様の話がいい」


 みんな食べるのをやめて、ロイに向けて次々と言葉を放つ。

 ロイはそれを沈めるのに苦労した。


「こら、沈まれ。親父が、何事かって思うだろ」



 ロイが父の部屋へ行くと、病床の父はベッドの中で起きていた。


「ずいぶん賑やかだったな」

 やつれた青白い顔で微笑む。

 まだ四十後半だというのに、ひどく老けて見える。


「ごめん、うるさかったな」

 食事をベッド横のサイドテーブルに置く。

「シチューだけど、食べれるかい?」


 父は、うなずくと、ゆっくりと上体を起こした。途中、その顔が痛みに引きつる。

 ゆっくりと、ロイが運ぶスープを口にした。


 一番下の弟アッシュの出産時、母は亡くなった。六年前ロイが十二歳の時である。

 ロイは学校を辞めて兄弟たちの面倒を見ながら家事を行った。


 父は身を粉にして働いた。学校に行かせられなかったロイのために、せめて金を稼いでやろうと思ったのだ。

 寝る間を惜しんで働き、無理をしすぎたのだろう。二年前に病にかかってしまった。


 どんな怪我も治すことができる教導師きょうどうしだが、病を治すことはできない。治癒で体に活力を与えて治す手助けをするのが関の山である。

 ロイの父も何度か教導師きょうどうしに治療してもらったが、治る見込みはなかった。


「拳闘を始めたんだってな」

 シチューを三分の一も食べられず、再び体を寝かせると、父が言った。


「聞こえたのかい?」

 ロイは照れ臭くなって頭をかいた。


「楽しいか?」


「ああ、すげえ楽しいよ。毎日、教会に行くのが楽しみでしょうがないんだ」


 そうか、と父が笑った。

 本当に嬉しそうに。


「良かったなあ。良かった」


 しみじみという父を見て、ロイは妙に落ち着かない気分になった。なぜか焦燥感を覚えた。



「お前、最近、拳闘を習ってるそうじゃねえか。教会でよう」

 リックがニヤニヤとしながら言った。


 ロイはレンガを積んだ一輪車を持ったまま、彼の脇を通り過ぎた。その肩に手がかかる。


「おい、俺が話しかけてるんだぞ」

 ドスを利かせた声で言った。


 ロイは一輪車を置いて向き直った。


 リックは頭に布を巻き、タンクトップ。はみ出した太い腕が汗で輝いている。ロイもずいぶん腕が太くなったが、それよりも二回りは太い腕だ。


「仕事中だぜ」


「だから? ボスは兄貴のおかげでたんまり稼いでんだ。俺に文句を言うかよ」


 リックの兄ガーマスは、浜で毎週末に行われている賭け試合のチャンピオンだ。そして、その賭け試合を仕切っているのが、ロイとリックの雇い主である商人アルフォート。アルプの有力商人の一人だ。

 ガーマスは普段アルフォートの護衛として雇われている。


「なあ、ちょっと試合してみようぜ。強くなったんだろ」

 リックが言って構えをとる。シュッ、シュッとロイの鼻先にパンチを出す。


「拳闘を喧嘩の道具にするなって、言われてるんだよ」

 ロイは言って一輪車を持とうとする。


 リックは聞かなかった。

「おい、お前ら、ちょっと集まれよ。ロイと俺が今から試合するからよ」

 大声をあげて、建てかけの家にレンガを積んでいた男たちを呼び集める。


 男たちが集まってきた。リックよりもかなり年配もいるが、彼を止めるつもりはなく、それどころか楽しそうだ。

 すぐに人の輪のリングができた。


「ほら、構えろよ。みんな待ってるぜ」


 ロイは仕方なく拳を構えた。

 別に今日が初めてではない。今まで何度もこんなことはあった。

 公開リンチ。

 ロイが倒れるまで殴られるだけのショー。


「誰か、ゴングを鳴らせよ」

 リックが言った。余裕の顔。自分が殴られるとは少しも思っていない顔だ。


 実際に、ロイもリックに殴り返すつもりはなかった。拳闘を習い始めて二ヵ月が経つ。

 ダルトンは筋がいい、と褒めてくれるが、強くなったような気はまるでしなかった。

 いや、強くなることよりも、ダルトンの見せてくれるパンチのフォームが美しくて、それに少しでも近づけようと、そればかり考えていた。


 それにルーシー。

 ロイはちょくちょくルーシーを家に送っている。夜道は危ないからと理由をつけているが、本当は、ただ一緒に歩きたいだけだった。


 ルーシーのことが好きだ。

 そう自覚したのは始めて彼女を送り届けてから数日後のことだった。

 彼女に会いたくて仕方がない。話すと興奮して体が熱くなる。彼女の視線を感じると練習にいっそう気合が入った。


 俺なんかとじゃあ、釣りあうわけないのにな。

 時々、そんな自嘲の念がわく。彼女が教導師きょうどうしだからではない。

 太陽教は男女の関係や性的な欲求に対して大らかである。人としての自然な感情であると位置づけている。

 教導師きょうどうしが恋人を作ることも、結婚することも禁止されていない。結婚し、母として一時家庭に入り、子供が自立したら、また教会に入るという教導師きょうどうしも多いのだ。


 ロイが引っかかっているのは、ルーシーが大教会の副教会長という立派な立場であることだった。それに美人で人気もある(ルーシーは知らないが、彼女の説教は男性に人気)。

 それにルーシーは自分よりもずっと強かった。教養も腕っぷしも叶わない。

 そんな相手と自分を対等におけるわけがない。

 だから、ロイはただ憧れとして、この恋を終わらせるつもりだった。


 同僚の一人がカーンとゴングを鳴らした。リックがどこから持ってきたゴングだ。


 リックがいきなり右ストレートを放つ。

 力任せのパンチ。


 ロイはバックステップでそれをかわした。

 リックが態勢を崩して、つんのめる。

 すぐに姿勢を戻してジャブの連続。


 ロイはそれを時計回りにかわしていく。

 不思議な感じだった。

 リックの動きがとてもぎこちなくて遅い。隙だらけだ。

 それに自分で自分を後ろから眺めているような感覚があった。リックの上体だけでなく、足元、表情、それらがよく見える。


 周りがどれだけの広さで、リックのパンチがどこまで届いて、踏み込みがどの程度のスピードで。

 そんなことが把握できる。


 気づくとリックの笑みが消えていた。 

 顔を怒りに赤くして、しゃにむにパンチを打ってくる。ジャブ、フック、ストレート、アッパーカット。

 どれも腕の力だけで振っている。それをまた強引に構えに戻すので、大きく隙ができる。


 ダルトンが見せてくれるパンチとは、とても同種のものとは思えなかった。


「体全体で打つんだ。必要以上に力むな。重要なのは力を伝えることだ。何かを運ぶように、力を前に向けて押し出す」

 ダルトンの言葉が蘇る。


 リックがフックを大振りして、よろける。


 スッとロイの左手が動いていた。


 パンっ、と乾いた音が鳴った。


 リックが尻餅をついていた。

 呆然とした顔でロイを見上げている。 


「嘘だろ」

 誰かがつぶやいた。


 その気持ちはロイも同じだった。

 リックの頬を打った左の拳を眺める。

 当たった。俺のパンチが。

 リックに当たった。


「てめえ、調子に乗ってんじゃねえぞ」

 リックが体を起こす。


 しかし、思ったよりも効いているらしく、足元がおぼつかない。

 怒声をあげながら、しゃにむにパンチを振るう。もはや、ぶんぶんと腕を振り回すだけの無様なパンチだった。


 ロイはそれらを近距離でかわし、あるいはガードで弾いた。

 余裕である。


 対するリックは焦っていた。

 なんだ? なんでパンチが当たらねえんだ?

 

 自分の渾身のパンチが、軽く避けられ、弾かれる。

 つい最近までタコ殴りにしていたはずなのに。


 クソッタレが。


 リックはとうとうロイに掴みかかった。

 もはや拳闘ではない。


 ロイは、それをパンチで引き離すのを躊躇ためらった。理性がリックを殴ることを恐れていた。

 その躊躇ためらいが命取りになり、ロイはリックに抱き着かれ、そのまま地面に倒された。


 リックはロイに馬乗りになって身動きを封じると、何度もその顔を殴った。今までの遊びではない。屈辱を晴らすために憎悪のこもった拳を振り下ろす。


 ロイはそれを受け続けながらも、その心は静かだった。リックの拳が当たるたびに痛みが体を走る。だが、それはロイの表面を撫で、走り抜けていくだけだった。

 今までの、肉体どころか魂にさえも響くような痛みではなかった。

 惨めさと理不尽さで、切り刻まれていくような痛みではなかった。


「おい、もうやめろよ。死んじまうぜ」

 囲んでいた男の誰かが、そう声をあげた。


「そうだ。反撃したからって、そんなにすることはねえじゃねえか」

 別の誰かが言った。


 リックはそんな制止を無視するように、大きく振りかぶった拳で、殴った。

 それから、唾を、ロイの見るも無残な顔に吐きつけた。


「調子に乗るなよ。カスが」

 リックは言った後に、まだ自分の気が晴れないことに気が付いた。

 この俺がこんな奴に……。


 ロイの髪をつかんで顔を持ち上げる。

「おい、うまいこと、あの教導師きょうどうしを垂らし込んで、ダルトンに取り入ったみたいだけどなあ。お前なんか、全然、だぜ。今日はちょっと俺の調子が悪かっただけなんだよ」


 ロイの目に怒りが宿った。青く腫れあがったまぶたの隙間から睨みつける。

 それにリックは気を良くした。


「なあ、教導師きょうどうしの女はどうだ? 教会で、男たちとやりまくってるんだろ。なあ今度、貸せよ」


 リックが転がった。ロイが急に体をはねあげたためだ。

 リックはすぐにファイティングポーズを取った。

 一瞬、警戒して顔を強張らせたものの、ふらふらと立ち上がったロイを見て、余裕を取り戻す。


「へっ、今度はさっきみたいに行かねえぜ。本気を出してやらあ」


 そうは言うものの、すでに殴りすぎて拳が痛いし腕も疲れた。息も切れている。同僚たちの目が無ければ、やめてしまいたいところだ。


 大声をあげてストレートを放つ。

 力任せのパンチ。

 

 ボロボロで立つのもやっとという様子のロイは、かわすことなどできない。

 リックも、取り囲む男たちも、そう思った。


 リックの大振りパンチがからぶり、宙を打つ。

 

 パン、パン、パン。

 連続で三回音が鳴った。

 まるで拍手をしたかのような。


 リックが倒れていた。

 今度はしっかりと気を失い地面に横たわっていた。誰がどう見てもノックアウトだった。




◇◇◇




 それからリックは、もうロイに絡んでこなくなった。存在を無視するようになったのだ。ちっぽけな矜持を守るためには、そうするしかなかったのだろう。

 ロイとリックのケンカ騒ぎの数日後。

 ロイは上司の親方に呼ばれた。


 親方は現場監督にロイを引き渡し、現場監督は身なりの良い商人風の男に彼を引き渡した。

 ロイが聞いても誰もなにも言わなかったので、彼は不安だった。

 思い当たることと言えば、リックを倒したことくらいだ。ひょっとしたら、大商人のアルフォートを怒らせてしまったのかもしれない。


 その想像はロイをおびえさせた。

 仕事を首になるかもしれない。

 だが、不思議と、反撃しなければ良かったなどとは、まるで思わなかった。



 あの日。

 顔を腫らしたまま教会へ行くと、ルーシーが血相を変えて駆け寄ってきた。


「あの男ですね。あの男がやったんですね」

 震える声で言うと、教導師きょうどうしらしからぬ言葉を吐き捨てる。


 ロイは知らなかったが、ルーシーはいつもロイがやってくる時間を見計らっては、診療所に入って窓から彼をこっそり見ていたのだ。

 この時も、ロイが来るのを胸をときめかせながら待っていた。

 そして、ロイが顔を腫らしているのを見て、慌てて駆け寄ってきたというわけである。


 ルーシーがロイの手を引っ張って、礼拝堂の影の人気のない場所へと連れていく。

 ロイはルーシーの柔らかな手の感触に興奮してしまい、それを沈めようと必死になった。だが、手を振りほどくにはあまりにも、その感触は甘美で、どうにもできなかった。


 ロイを治療したルーシーは、ひどく怒っていた。今にもリックを蹴飛ばしに飛んで行きそうな様子だった。


「本当に大丈夫なんだ。あいつのパンチなんて痛くなかった。本当だよ」

 ロイは怒るルーシーが愛おしくてたまらず、その目は優しく彼女を見ろしていた。


「ですが……」

 顔を上げるルーシー。


 二人の目が合った。

 互いに惹かれあう男女は、相手の瞳に、確かに自身に対する恋慕の情を見た。

 二人とも、それは予想外の発見であり、歓喜ではなく、むしろ戸惑いを覚えた。


 俺なんかを。


 私などを。

 

 それが本当かどうか。確かめるように、互いに半歩近づく。すると体が触れ合った。

 ロイの手がルーシーの背中、肩甲骨あたりに恐る恐る回る。

 ルーシーの手がロイの胴に優しく巻き付く。


 ぎこちない抱擁は、ようやく愛情の確信を与え、遅ればせながら歓喜をわきおこした。


 すぐに二人は離れた。

 ロイの顔は喜びで輝いていた。力が、どんどんあふれてくるような心地だ。今すぐ走って、練習場にいって、拳闘をやりたかった。


 真っ赤な顔でうつむくルーシーは、そんなロイをチラリ、チラリと見ていた。


「また後で」


「はい」

 消え入るようなルーシーの声だった。



 ロイが連れてこられたのは、大通りに建つ立派な建物だった。三階建て。珍しく、コンクリートの外塗りに、黄色いペンキを塗っている。

 他が白ばかりなので、よく目立っていた。

 アルフォート商会という青金属の看板がかかっている。

 高価な青金属で大きな看板を作っているところから、大儲けしているのがわかる。


 ロイはやっぱりアルフォートに呼び出されたのか、と暗澹あんたんたる気持ちとなった。クビは確定かもしれない。

 だが、自分一人の首を切るために、わざわざアルフォート自らが会うだろうか。

 それが不思議だった。


 事務員たちが忙しく働く一階の奥の階段を三階まで昇る。通路の奥にアルフォートの執務室らしきドアが見えた。

 案内した男が入り、すぐに出てくる。


「アルフォート様がお会いになる。失礼のないようにね」


 ロイは覚悟を決めると、ドアを開けた。

 

 広々とした室内。ロイの家のリビングを四つ入れてもまだ足りないだろう。

 黒いカーペットの敷かれた床。天井から小型のシャンデリアが下がっている。

 壁に大きな絵画が飾られている。剣を構えた黒髪の若者。勇者アルフレッドの絵だ。


 正面にあるどっしりとした机には書類が積んである。脇の方にあるソファセットで、小太りの四十がらみの男がお茶を飲んでいた。

 その側にメイドが控えている。


 気になったのは、ソファにかける中年男ではなく、壁際にたたずむ青年だった。

 シャツにネクタイ。黒いベストに黒いズボンというかっこうで、下で働いていた社員たちと似たようなかっこうだが、雰囲気がまるで違う。

 恐ろしく背が高く大柄な体。逆立てた赤毛。リックによく似た三白眼の目。

 リックの兄ガーマスだ。

 ロイと目が合うとニヤリと笑った。


 ロイは寒気を感じた。

 

 ソファの男が立ち上がった。

 満面の笑顔でやってくる。鼻にかかった眼鏡。鼻の下のちょび髭。


「君がロイ君か。仕事中呼びつけてすまないね」

 男は言うと、アルフォートであると名乗った。

「うん、いい体つきだ。鍛えてるね。鍛えてるねえ」

 ポンポンとロイの胸やら背中やらを叩く。


「あのダルトン導師の指導を受けているというじゃないか。聞いたよ、ガーマスの弟を叩きのめしたんだってな。すごいじゃないか。ガーマス、どうだ、ロイ君は? 強そうかね? そんなところにいないで、こっちへ来なさい」


 アルフォートは、どうも所作が慌ただしい。口調も早口だ。


 ガーマスがやってきてロイの前に立った。

 長身からロイを見下ろす。


 いきなり拳がとんできた。

 ロイは反射的に身を引いたが、相手のリーチが長く、かわしきれない。パンチはロイの鼻先で止まった。


「弟は素人です」

 ガーマスが言った。

「こいつは拳闘士です」


「それで、どうだい。君といい戦いができそうかね」


 ガーマスがせせら笑った。

「一分間もったら大したもんですよ」


「そうかあ。だが、ダルトン導師の弟子のルーキー。こいつはいいカードだと思わないか。大会が盛り上がる」


「ダルトン導師本人が出てきたらいいじゃないですか。俺も、彼とやってみたい」


「無茶を言うな。大教会長おんみずからが、外部の大会になど出場するわけがない」


「どっちにしろ、こいつじゃあ、相手になりませんよ」


 アルフォートはロイに向き直った。

「どうだ、ロイ君。今度の拳闘大会に出てみないか? 今大会は私の仕切りなんだ。ぜひとも盛り上げたい。優勝賞金もすごいぞ。なんと2000ジット(2千万円)だ。大会で優勝すれば、男としてこれ以上ないほど名誉だと思うよ」


 2000ジット。その金額は確かにロイの心を揺さぶった。

 だが、それよりも、もし優勝出来たら、その誉れによってルーシーと釣り合いがとれるかもしれない。

  

「大会は二ヵ月後だ。まだまだ時間はある。それまでに、君はもっと強くなるはずだ。そうだろう? 出てみなさいよ」


 ルーシーのはにかみ笑顔が頭に浮かんだ。

 ロイはうなずいていた。

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