35. 酒の席での話
アイシャには央都の貴族とのつながりが欲しい輩がひっきりなしに挨拶に向かい、アイシャは必死に商家の娘のふりをする元皇太子妃を装っていた。
アイシャがボロを出さないように側でライがうまく制御しているのが見えた。
遠縁ではあるが叔父と姪とは言え、良く助ける気になったものだ、と思った。
ラズを含めた西との交渉材料とは言え、影の長であるライ自ら出張ってくるのだから、よほど西との関係を重視しているのだろう、と。
「ゼノ殿。お人が悪い」
「なんでしょうか?ハジュ殿」
声をかけていたのは、ゼノと同格の商家の若旦那である。
父親が未だに健在で、良い年にもかかわらず若旦那の地位から抜け出せず、だからと言って自分でなにか商売を始めようという気概もないと父親が嘆いていたのを聞いている。
ゼノにとって一利なしとその嘆きを聞くだけにとどめている。
しかし、野心だけは人一倍大きく、央都の貴族とのつながりを欲しくてたまらないようだ。
とてつもない女好きで、「英雄色を好む」と本人が口にした時には、目眩がするかと思った。
誰が英雄だ、と。
本当の英雄と言うのは…と思い出した相手が若い妻をめとり、何人もの女性を侍らせていたのを思い出した。
格言に嘘偽りはなさそうだ。
ハジュと言う若旦那はゼノとは商家の規模が同じくらいのせいかよく顔を合わせるため、何かと取り入ろうとしてくるのだ。
前からはゼノのことを尊敬していて実の兄のように思っているという噂が流れてきてうんざりする。
弟なんて手の焼けるモノは血の繋がった1人と義理の間柄だけで十分だ。
とはいえ、変に憎まれるのも困るので、慇懃無礼に接している。
「あんな美人を隠しておくなどと」
「隠しておくもなにも隣邦の商家の未亡人ですよ。ご主人には生前世話になりました。私も不遇の時代はありましたからね」
ほぼすべての財産を失いこの町に現れたゼノのことはこの町の商人であれば誰でも知っていることだ。
妻と幼子を抱え、ボロをまとい、あばら屋に住み、両親と寝る間を惜しんで働いたという話はこの町の商家の間ではよく話題になることだ。
この町では敬遠される西や南の者とも分け隔てなく商売をし、自身の才覚で商家をここまでの規模に育てたこともだ。
ハジュと言う若旦那はゼノを憎々しげに見つめた。
衣装が揃いであるのだから、あの美人がゼノの愛人だというのは誰の目から見ても明らかである。
「あちこちで、失脚した皇帝の妾と言っていますが?」
「まさか!」
うまい具合にバラまいた噂が浸透しているようだ。
「それにあのアイシャという娘は行方不明の皇太子妃では?」
「それこそ、ありえない!レンカ殿のご主人の遠縁の商家の娘ですよ。皇太子妃はつかまったのではなかったか…」
とぼけた様子で言えば、事情を知っていると思われたようだ。
「そうですか?で、あれば随分羽振りの良い商家だな。あんなに豪華な首飾りに髪飾りをあんな若い娘に身につけさせるなんて、場違いなほどだ」
「たしかに。皇太子妃から下賜されたと言ってもおかしくないかもしれぬ。あそこの主人は央都によく出向き、当時の皇帝陛下や皇太子殿下の目通りもあったとかなかったとか…」
そんな風に言えばわかりやすくハジュの目が光った。
「酒の席での話だ」
ハジュの視線はアイシャから外れなかった。
「とはいえ、あの娘は西に嫁ぐ準備のために滞在しているのですがね」
「ああ、だから、西の男を伴っているのか…」
男たちに囲まれてのぼせたかのようにほおを赤く染め、ふうと息を吐きながらパタパタとあおいだレンカに手を伸ばしたザイードにハジュの視線が移った。
レンカがホッとした様子で色香を伴ってザイードを頼る仕草を見せるとハジュの奥歯がギリっと音を立てた。
「もしあの娘が皇太子妃だったらどうするつもりです?」
ゼノが聞けばハジュはとぼけた。
「さて…どうにも?央都で捜索がかかっていると聞きますから。本当に央都を脱出しているのであればこの町まで話が来るのは時間の問題でしょうね」
「そう…ですか…そうであれば、レンカ殿も黙っているなんて人が悪いな」
ゼノの目に浮かんだ色をハジュは見逃さなかった。
「あの美人はレンカと言うのか…一度お相手願いたいものだ」
その宴席ではたっぷりと噂と疑惑をまいた。
あちこちでゼノ一行の噂話に花が咲いているのを見て、ゼノは隣の妻、少し距離のあるところにいるライ、ザイードに視線を送った。
それぞれがコクリと頷くのを見て、順番に退出しようとしたが、ヤンとリァンの姿が見当たらなかった。
宴席の下働きに扮した影の1人が早々に休憩室に引き上げていると告げた。