第十話 忘却
その夜、闇を照らす月は、その光を失っていた。ようやくにして待ち望んだ新月の夜がやってきたのだ。
満月が“邪神の眼”であるならば、新月はその瞼が完全に閉じられている時であり、誰しもが心穏やかに過ごすことができる月に一度の静かな夜だ。
『酒造国』レウマ王国にて、そんな静かな夜とは無縁の集団がいた。場所は王の城館近くにある『金のなる畑』、悠久の時代よりレウマの酒造を担ってきた枯れない葡萄の畑だ。
この畑の正体は、“竜脈”と呼ばれる地中を走る巨大な魔力の流れであり、畑がその噴き出し口になっているため、膨大な魔力が植えられている葡萄に作用し、究極の葡萄を実らせていた。
葡萄酒を作る最高の材料であり、これで造った酒は西大陸最高の逸品だと言われ、信じられないほどの高額で取引されていた。
しかし、今夜集まっている面々はその葡萄や酒が目当てではない。畑に溢れる魔力が目当てであった。
新月の夜は魔力の流れが最も安定するため、普段は危なくて使えないような術式であろうとも、制御しやすくなっていた。
そして、その目当ての術式は“大陸間長距離通信”である。巨大な海を隔てた東西大陸を繋ぐ数少ない連絡手段だ。船を使えば膨大な時間と費用を要するが、これさえ使えば情報交換だけなら一瞬だ。ただし、距離が操作の難しさを上げており、魔力の流れが安定する新月の夜でなければまず不可能な術式だ。
かつて存在した『魔導国』という統一国家の時代には、竜脈を用いた様々な技術が存在し、通信どころか〈瞬間移動〉による大陸間移動すら確立していた頃に比べればまだまだであるが、着実に一歩ずつそれに向かって歩みを進めている。そう実感できるだけの手ごたえはあった。
その立役者でもある魔術師にして半人半神の英雄フリエスは現在、通信のための術式を込めた魔法陣に魔力を流し込んでいるところであり、精神を集中させていた。肩の辺りで適当に切られているまとまりの悪い金髪が夜風になびき、同じ色の瞳がじっと魔法陣に向けられていた。成功した術式とはいえ、まだまだ制御が難しく、普段のにこやかな雰囲気はどこにもない状態だ。
それを見守るのは、レウマ王国の国王フロン、フリエスの親友たる竜族の姫《白鱗の竜姫》ヴァニラ、それに抱えられた小さな竜の姿をしている《天空の騎士》ルイングラム、人犬族の少年《子獄犬》ラオ、フリエスのそっくりさんである雷神の神殿巫女ニーチェ、以上がフリエスの執り行う儀式を見守っていた。
「うは~、こりゃすごい。やっぱ竜脈の力は桁外れね。これを自由に使えたらって思うと、興奮が止まらないわ」
ニーチェはこの顔触れの中では長距離通信の術式を見るのが初めてであり、その愛くるしい姿でじっくりと観察していた。
ニーチェはフリエスの血肉を元に精製された人造人間であり、その容姿はとても似ている。ただし、製作者でもある《狂気の具現者》ネイロウによって紛らわしいからと、多少手が加えられていた。フリエスの見た目が十二、三歳であるのに対して、ニーチェのそれはだいたい十六、七歳であり、髪も金髪ではなく黒髪で、しかも長めであった。
体の成長が停止しているフリエスが年齢を重ねたらこうなるかな、という想像のもとに作られており、そうであるからこそ二人の姿は似ているのだ。
「フリエスは凄いのだ。親友として鼻が高いのだ」
ドヤ顔で親友自慢をするヴァニラを自慢し、興奮しながら鼻を鳴らした。その姿はフリエスの旅仲間であるフィーヨにそっくりで、髪が銀髪である点を除けば瓜二つである。変身の術式で人の姿をしているのだが、フィーヨに変身する癖がついてしまって、人型をしているときはこうなっているのであった。
その手に抱えられたルイングラムはそのフィーヨの夫であり、またヴァニラにとっては竜と竜騎士という間柄で、かけがえのない戦友であった。
「これだけの魔力が噴き出すとは、なるほど、聞いていた以上に凄いですよ。これを制御できていた『魔導国』の技術の高さが窺い知れるというものです」
学者肌の濃いラオにとっては、目の前の始めてみる術式に興奮しっぱなしであった。普段はヘタレている頭の上にある犬耳がピンと張り、尻尾がブンブン振り回されていることがその証明であった。
「ああ、愛しき女神よ、今宵もまた美しい」
なお、この期に及んで一切ぶれないのがフロンであった。儀式に集中するフリエスの横顔をじっと見つめ、その可憐な容姿を満足げに眺めていた。熱烈な求婚に、神殿の建立など、端から見れば奇行にしか見えない振る舞いであったが、当人は至って大真面目であった。
目の前の女神を我が物とできるのであればなんでもする、そういう雰囲気を隠そうともしていなかった。それほどまでに、完全な虜になっていた。
「あのさぁ、もう少し静かにしてくれないかな? ほんと、制御が大変なんだから」
呑気な周囲に多少の苛立ちは覚えつつ、フリエスは意識の触手を竜脈に潜り込ませ、遥か彼方にある東大陸へと自らの感覚を飛ばした。
ただし、前回よりは楽であった。前回は東大陸の“どこの”竜脈の特異点かは決めていなかったため、しらみつぶしに調べて回っていたが、今回は『埋没せし三角錐』という遺跡にある特異点と取り決めていたためだ。頭の中の地図と竜脈の流れを把握していれば、前回ほど接続は難しくない。
そして、フリエスは見つけた。
「うん、あったわ。魔力同調、ヨシ。通信回線接続、ヨシ。安定性、ヨシ。・・・繋げるわよ」
フリエスは久方ぶりに会う父の姿に少しばかり浮かれてたが、その笑みは一瞬で崩壊した。飛んできた映像が想像していたのとは全く違っていたからだ。
映し出された人影は二つ。一つはまるで屍人化したような悪魔の姿をしており、もう一つは頭髪から翼まで全身が赤一色で統一された天使であった。
「魔王ヒャズニング! それに堕天使ウィトゥク!」
フリエスの悲鳴にも近い絶叫が響き渡った。当然、相手が何者か知っているヴァニラやルイングラムはすぐに身構えて戦闘態勢をとったが、事情を知らぬ他の面々は困惑するだけであった。
なにしろ、二十年近く前に倒したはずの魔王とその片腕の映像が映し出されたのだ。かつての英雄達にとっては警戒して当然の状況であった。
ただし、フロンだけは何食わぬ顔で映像に近付き、そして頭を下げた。
「お久しぶりです、義父殿。今日はまた変わった趣向ですな」
「ほへぇ?」
フリエスが呆けた声を発すると、映像が切り替わり、フリエスの養父トゥルマースと英雄“白鳥”が変わって映し出された。
「婿殿ぉ~、ネタ晴らしが早すぎますぞ」
「てことは、さっきの映像は偽物!?」
まんまと騙されたことにフリエスは顔を真っ赤にして恥じた。そして、怒った。
「父さん! そういうイタズラは心臓に悪いから!」
「婿殿はすんなり気づいたぞ?」
「それ! フロンさん、なんで気付いたの?」
フリエスが振り向くと、どや顔のフロンがそこにいた。
「簡単なことです。私は“魔王”を何度も見ているのですよ? しかし、映像越しの“魔王”からはその気配を感じなかった。それだけです」
フロンの言う魔王とは、当然旅仲間のセラのことだ。自称とはいえ魔王を名乗り、それに見合うだけの力を有している。
無論、かつて倒した魔王と、よく見かける魔王は気配が違う。しかし、圧倒的な存在感と他を抑圧する息苦しさを放つことがある。それが一切なかった、とフロンは述べたのだ。
「まあ、私は東大陸の魔王を見たことがないので、純粋に気配だけで判断できただけですよ。まあ、義父殿なら、こういうイタズラくらいするかな、と」
「ハッハッハッ、ひどいな婿殿!」
トゥルマースとフロンは周囲が唖然とする中、平然と大笑いした。出会った頃から妙に気が合い、これで映像越しとは言え二度目の顔合わせだというのに、昔からの知己のような仲の良さである。
フリエスとしては、養父と“自称”婚約者のやり取りに苦笑いするよりなかった。
「まあ、それはさておき、だ。顔触れが変わったな。二人減って、二人増えた」
「うん。フィーヨさんとセラは現在別行動中。ヘルギィさんもそっちに行ってるわ。で、そこのちっこい竜がルイングラムさん」
「おお、蛇から竜に進化したということは、《竜の涙》との同調は上手くいったようだな」
トゥルマースが満足そうに頷くと、小さな竜の姿をするルイングラムも軽く吠えた。
両者は親友と言ってもいい間柄であり、これに《英雄王》を加えた三人組は力を合わせて、《狂気の具現者》を打ち倒したこともあった。もっとも、倒したのは肉体だけで、その時は魂で移動するとは思ってもいなかったので、取り逃がす結果となってしまったが。
「んじゃま、新顔の紹介しときますか。ラオ君、こっち」
フリエスが手招きすると、ラオが歩み寄り、トゥルマースの映像に向かって頭を下げた。
「東の大陸の大賢者トゥルマース様、お話しは色々と耳にしております。まずはお会いできましたること、感激でございます。僕は召喚士のラオといいます。正式に決まったわけではありませんが、フリエスさんの内弟子として研鑽を積んでいる次第です」
「おお、これはご丁寧に。それにしても、フリエスがとうとう弟子持ちになったか」
そして、トゥルマースはじっくりとラオを眺めた。耳や尻尾から人犬族であることはすぐに分かったが、腰から下げていた六つの弩に目が行った。
「ほほう。腰の弩は神々の遺産か。しかし、まだ使い慣れていない、といったところか?」
「慧眼、恐れ入ります」
パッと一瞥しただけでそこまで分かるのか、ラオは目の前の魔術師の圧倒的な実力や観察眼にただただ恐縮するだけであった。完成された魔術師と、修行中の魔術師とではここまで違うのか、と見事なまで思い知らされた。
「まあ、そいつは後にしよう。長くなるやもしれんからな。道具の特性を教えてくれれば、何かしらの助言をできるやもしれん」
「ありがとうございます」
ラオはもう一度頭下げ、トゥルマースはそれを見てから別の新顔を見つめた。そして、すぐに気付いた。
「フンッ、あの悪趣味な奴め。フリエスの模倣品を作ったか」
「その通りです、パパ♪」
ニーチェはこれみよがしに笑顔を作り、おまけに投げキッスまでする始末であった。
「お前にパパ呼ばわりされる覚えはないが、フリエスの模倣品となると、どう扱っていいのか、いささか判断に迷うな」
「娘として扱ってくれてもいいんですよ」
「いらん」
トゥルマースはきっぱりと断った。あまり深入りし過ぎると、厄介なことになりかねないからだ。なにしろ、この世で一番相手にしたくないネイロウが絡んでいるのだ。どんなものが仕込まれているか、知れたものではないのだ。
「しかし、フリエスから数えて四、五年ほど齢を重ねたといったところだが・・・、成長しとらんな」
「ちょっと、父さん」
フリエスはトゥルマースを睨み付けた。なにしろ、自分とニーチェの “胸部”を交互に見て、大きさを比べているのが露骨に分かったからだ。
「フリエスよ、残念なことに、お前の体には“胸が大きくなる”という因子が含まれていなかったようだ。残念な事だ」
「・・・映像越しにでも、相手に電撃を喰らわせる方法ってなかったかな~。じゃなくって! 心配しなくても、そのうち大きくなるから!」
「そうかそうか。しっかり成長するのだぞ!」
あからさまに期待していない口調であった。今に見てろよ、とフリエスはまた養父を睨み付けた。
「そうですよ、フリエスお義姉様。お義姉様が大きくならないと、私もいつまでたっても悲壮な体つきのままなんですから」
「悲壮? 貧相? ええい、どっちでもいいわよ。てか、その体が気に入らないなら、作り直してもらいなさいよ!」
ニーチェは人造人間である。設備さえ整っていれば、文字通りの意味で肉体改造ができるのだ。
「それは出来ませんわ。雷神の巫女として、神に近しい姿をとって、人々を扇動・・・、じゃない、先導して教え諭すのが職務ですから」
「本音が漏れてるわよ」
相変わらず、こいつのと会話は疲れる。フリエスは改めて思い知らされた。
「まあ、それは置いといて、父さん、色々と話したいことがあるわ。確認したいこと、教えて欲しいこと、山ほどある。ほんと、ここ最近、色んなことがあり過ぎて、正直整理できてない」
「まあ、顔色からだいたい察するわな。こっちも告げておかねばならないこともある。まずは、そちらの話から聞こう」
フリエスは促されるままに、前回の交信以降に起こった出来事を話した。
『不死者の祭典』の事、《混ざりし者》の事、魔王モロパンティラとその依代になったフィーヨの事、そして、そうした情報を全部ネイロウに抜かれてしまった事、それは数多くの出来事があり、聞いているトゥルマースも驚いていた。
「よくもまあ、そんな濃い出来事が一遍に襲ってきたな」
「うん、あたしもびっくりしてる」
「ああ、私もそちらに行けたらいいのだが、こっちもこっちで大混乱なのだよな」
「へぇ、珍しい」
魔王が倒されて以降は、東大陸は平穏そのものであり、戦争も魔物の襲撃も鳴りを潜めていた。そんな平和な世界にあって、賢者が大混乱というほどの事態とはなんなのか、フリエスとしては大いに気になる事であった。
「大混乱と言っても、私の頭の中でのことだ。なにしろ、この件は“白鳥”以外に話していない」
トゥルマースはすぐ横に鎮座している白鳥に視線を向けた。スッと立ち上がり、そして、首を伸ばしてフリエスの前まで顔を出してきた。あくまで、映像ではあるが。
「はっきり言うと、大賢者に指摘されるまで、まったく気付くことができなかった。そして、気付いたとき、世界が壊れたような感覚に襲われた」
「白鳥がそこまで言う出来事って・・・」
フリエスとしても緊張せざるを得なかった。白鳥は愛しの天使が絡むと見境が無くなるが、それ以外のことには冷静で計算高い。その白鳥が取り乱すような事態が発生しているのだ。
「かく言う、私もな、竜王と会話するまで気付けなかったのだ」
「おお、母さんとこに行ったのか。起きててよかったのだ」
ヴァニラは竜王ネイデルの卵から産まれた竜であり、親として誰よりも慕っている。竜はとにかく眠りが長いので、起きている方が稀なのだ。特に竜王ともなると、年単位で眠りに入ることもある。
「では、フリエスよ、心して聞け。そして、今から発する質問に、しっかりと答えよ」
勿体ぶるようにトゥルマースが尋ねようとすると、フリエスも緊張してきて思わず生唾を飲んだ。ゴクリという音がことのほか響き、緊張の度合いも上がっていった。
そして、賢者の口からとんでもない質問が飛び出した。
「フリエス、《英雄王》の名前を言ってみろ」
「はい?」
フリエスは質問の意味が分からなかった。東大陸の住人なら誰もが知っている英雄、その名前を言ってみろというのだ。
何を言っているのだかと、フリエスはため息を吐いた。
「ふぅ、何を言い出すかと思ったら・・・。そんなの決まってるじゃない! 陛下の名前は、あ、ア、ああ、ア、あれ? ええ!?」
言えない。覚えていない。たった一人の人間の名前を、それも誰もが知っているはずの英雄の名を、自分が今も憧れている王の名を、記憶のどこにも記載されていないのだ。
皆を鼓舞し、戦場を駆け回り、豪快に笑う姿はフリエスの脳裏に刻み込まれている。それは確かな記憶であり、思い出なのだ。だが、名前の部分が完全にぽっかりとなくなってしまっていた。
「嘘・・・、な、なんで?」
「私もな、気付かなかったのだ。竜王も似たようなことに、トブ=ムドールのことを思い出せなかったようだ。だからこそ、それを自分の立場に置き換えたとき、ようやく《英雄王》の空白に気付けた」
「竜王まで!?」
竜王は神にも等しい力を持つ、この世界屈指の実力者である。その記憶を改竄するなど、とんでもない話であった。
そして、それは自分にも影響を与えている。仮にも“神”である自分すら、記憶が失われているのだ。そう考えるとフリエスは言い表せない恐怖に襲われ、ガタガタと震え出した。
それはヴァニラも同様らしく、うなり声を上げながら必死で思い出そうとしているようであった。
「ダメなのだ。全然分からないのだ」
「竜王ですら抗えない何かが働いているのよ。あたしらじゃあ、無理だわ」
憧れのあの人は忘却の彼方。フリエスの胸中は賭けた記憶同様、なんだかぽっかりと空いてしまった。
何がどうなっているのか。神や竜王すら気付かぬうちに、世界は全てを欺き、変化の時を迎えようとしていた。
~ 第十一話に続く ~




