第三十二話 慶事
ネイロウの屋敷の応接間。その中央に置かれた机と椅子に、フリエスとフィーヨが並んで腰かけ、机を挟んでネイロウが座っていた。机の上には人形達が運び込んできた酒や料理が並んでいた。
「御主人、こちらでよろしいですか?」
ネイロウのすぐ横には助手であるニーチェが侍っており、手に持つ葡萄酒を見せた。フリエスにはそれに見覚えがあった。
「あ、それって『黄金樹』じゃん」
「ああ。アルコに化けている頃に、いくつか拝借しておいた。まあ、高い酒ではあるが、今日という楽しい日には相応しいであろう」
ネイロウの言う通り、レウマ産の最高級葡萄酒の『黄金樹』は恐ろしく高価な酒であった。少なくても金貨二、三枚は必須であり、おいそれと飲めるような酒ではない。
葡萄酒を持つニーチェが三人の酒杯に注いで回り、飲み物が行き渡ったところでネイロウが杯を手に取って掲げた。
「では、今日という良き日に・・・」
「〈魔力探知〉!」
「〈解毒〉!」
杯を掲げるネイロウを無視し、フリエスもフィーヨも机の上に並ぶ全ての物に術をかけて回った。
「・・・うし、怪しい魔力反応なし」
「こちらも毒物を除去しておきましたわ」
「おぬしら、ワシをなんだと思っておるのじゃ」
ネイロウとしては、割と本気でもてなしているつもりであるのに、客がこの態度である。
「んじゃ、安心して飲み食いできるわね」
「では、早速。・・・て、不味い! なんですの、この酒!」
「おぬしが〈解毒〉なんぞ使うからじゃろうが。酔いは一種の毒状態。酒精が術式で飛んでしまったのじゃろう。幻の名酒を台無しにするとは、救いがたい間抜けじゃわい」
ネイロウは術がかけられていない自分の杯を一気に飲み干し、ニーチェに水でも用意するようにと指示を出した。
「さて、盛り上がってきたところで、折角の“慶事”じゃ。フィーヨに直接祝辞を述べておきたくてのう」
慶事、要するに何かしらの御祝いの事である。フリエスは思い当たることがなかったので、不思議そうにフィーヨの方を向いた。
「あの、フィーヨさん、最近、なにか御目出度いことでもありました?」
「お兄様とルイングラム様と心置きなく話せるようになりました!」
「あ、はい。そうですね」
やっぱりブレないなぁとフリエスは納得した。
今回の“不死者の祭典”における最大の収穫物は何と言っても、神々の遺産《真祖の頭蓋》である。魔王モロパンティラの“不死者”としての特性が備わった道具で、不死者の操作や強化できるようになる。これを利用し、フィーヨに取り憑く二匹の蛇、すなわち兄ヘルギィと夫ルイングラムとの意思疎通が取りやすくなったのだ。
今までであれば魔力が安定する新月の夜だけ、会話を交わすことができた。しかし、頭蓋の力を使えばいつでも話せるようになり、今では毎晩寝る前に三人で会話を楽しむようになっていた。
価値観が常に二人の事が中心であるフィーヨにとっては大いなる進歩であり、慶事と言っても差し支えない事象と言える。
「そうそう。それよ、それ。では、改めて、フィーヨよ、ご懐妊おめでとうございます」
「・・・は?」
お前は何を言っているのだ、と言わんばかりの顔でフリエスはネイロウを見つめた。
「そんな・・・。まだ気が早いですよ」
「なぜに会話が成立する!?」
今度は顔を赤らめるフィーヨを凝視し、どうなっているのだとフリエスは困惑した。
そして、フィーヨになったつもりで思考を進めると、とある結論に達した。
(二人と話せるようになる。復活も間近。というか、もう復活してるも同然。復活しているのだし、イチャイチャしちゃいます。めでたく御懐妊)
おそらくはこういう思考で顔を赤らめているのであろうが、フリエスはため息を吐いた。
「あのさぁ、フィーヨさん。それ、絶対違うから。こいつがそんな殊勝な心掛けをもって、ありきたりな祝辞を述べるわけないじゃん。絶対、裏があるから」
実際、ネイロウはバカげたことをやっているようで、決して意味のない行動はしないのだ。どこかで何かしらの利益を得ていたり、とんでもない方向に状況を動かしていたりするのだ。
(やり方が父さんと似てるのよね。動かす状況が真逆の方向になってるんだけど)
ネイロウも、トゥルマースも、フリエスの父であることを主張しているが、フリエスにとっての父はトゥルマースであり、ネイロウではない。生みの親より育ての親の方が重要であった。
「早いと言うがな、フィーヨよ。もう宿っておるからな」
「「・・・は?」」
今度は二人同時に間の抜けた声を発した。またしてもネイロウの口からとんでもない言葉が発せられたからだ。
「フィーヨさん、一応聞いておきますが、最近、男性とそういうことしましたか?」
「するわけないでしょう! 私がお兄様やルイングラム様以外の男性に肌を許すとでも!? ・・・あ、火口でラオ君を抱きかかえましたが、それは無しってことで」
「抱き着いただけで懐妊するなら、人類はもっと子宝てんこ盛りの種族になってますよ。あと、前者の方はいい加減外しましょう。半分とはいえ、血が繋がっているんだし」
やっぱりこの人ずれてるなぁ、と今更ながらにフリエスは感じたが、それよりも話の内容の方が重要だと考え、ネイロウを睨みつけた。
「あのさぁ、懐妊だのなんだのと言ってるけど、実際のところ、なんのなのよ!? フィーヨさんもそういうことしてないって言ってるし、からかってんの?」
「ハッ! まさか、受胎告知!?」
「いやいや、フィーヨさん。絶対違うって。なんかの神話だからね。それにフィーヨさん、出産経験あるでしょ。その手の神様は清らかな乙女しか選ばないよ」
頭蓋と手に入れてからというもの、フィーヨの精神がおかしくなったのかと思ってしまうことがあった。当人は毎晩、愛する二人と会話できて異様に精神が高揚しっぱなしなのであるが、フリエスの視点で見ればあまりにはしゃぎすぎなのである。
「まあ、はっきり言うとな、見事にセラに乗せられたな」
「「・・・ん?」」
なぜそこでセラの名前が出てくるのか、二人は首を傾げた。
「頭蓋を装備するように勧めてきたのはセラであろう?」
「そういえば、そうでしたわね。まあ、セラの勧め通り、これを装備してみたら、二人と意思疎通が簡単になりましたし、結果は良好ですが」
「まあ、“副作用”がなければな」
副作用、またしても聞き捨てならない単語がネイロウの口から飛び出した。しかし、苦々しい顔をするフリエスをよそに、フィーヨは別段気にした様子もなく、額冠を指でなぞった。
「装備が外せないのは、最初は驚きましたが、別段に体も精神も異常をきたしておりませんし」
「外せないのではなく、選ばれて同化したのじゃぞ」
「選ばれ・・・、え? なんですかそれ?」
勿体ぶるネイロウにさっさと答えるよう、フィーヨは促した。
「単刀直入に言うと、フィーヨ、おぬしが魔王モロパンティラ復活のための、依代に選ばれたということ。魔王の装備を二つも装備して、完全に馴染んでいるのがその証拠じゃ」
サラリと言うネイロウであったが、目の前にいる二人にとっては衝撃的な内容であった。ゆっくりと頭部を動かしてお互いに見つめ合い、そして、頭を抱えた。
「「セラァァァァァ!」」
二人は絶叫しながら、机に向かって拳を振り下ろした。料理を盛った皿が飛び跳ね、酒杯も勢い余って倒れてしまった。
「あんにゃろう、またしてもやりやがったなぁ!」
「一番重要な情報を伏せていたなんて・・・!」
セラは嘘を言わない。その代わりに、情報をぼかしたり隠したりして、とんでもない手札を押し付けてくることがある。今回もまさにそれであった。
「おぬしら、少しは学習するべきじゃわい」
ネイロウとしても、笑うべきか、嘲るべきか、判断に迷う場面であった。
「まあ、ザッと説明してやるとするかな。フリエスよ、魔王モロパンティラの最後は知っておるな?」
「たしか、大盗賊トブ=ムドールとその仲間である大剣豪ヴィッチェロの手によって退治され、三つに分割されたんだっけ? その三つの部位はそれぞれが“吸血鬼”と“不死者”と“魔術師”としてのモロパンティラの属性を意味していて、それらを使って三つの道具を生成した」
「うむ。そのうち、すでに二つが同一人物に装備されている。そして、魔王の三つの道具の最後の一つ、《真祖の子宮》が同化したとき、魔王モロパンティラは復活する」
魔王の道具を念入りな調査もせず、ホイホイ装備してしまったフィーヨの失策であった。いくら愛する二人に関わることであったとはいえ、迂闊と言わざるを得ない。
「じ、冗談ではないです! 私、魔王になるなんて嫌です!」
「とは言え、モロパンティラもおぬしを気に入ってしまったみたいじゃしな。脆弱で魔王の依代に相応しくないと判断されると、取り殺される。しかし、平然としているということは、依代と認められたということじゃ」
「そ、そんな!」
いきなり降ってわいたような話であるし、フィーヨにとっては完全なる不意打ちであった。
「こ、こうなったら、最後の一つと接触しないでおきましょう。そうすれば、封印は解けない! フィーヨさんが魔王になるなんてことにならない!」
「そ、そうね! それがいいわ!」
二人はそう取り決めた。とにかく、接触しなければ同化しようもないし、三つの道具が揃うこともないからだ。
「無駄じゃと思うがな。現に、隔たれた大陸が繋がった瞬間に、分かたれた道具が引っ付いたのじゃぞ。つまり、お互いに惹かれ合っているというわけじゃ。意識的に避けようとも、どこかで不意に接触してしまうものじゃ。それこそ、縁司る愛の女神の御加護というやつじゃな」
「よし、あのバカ女神、ぶっ飛ばしに行ってくる! ボコボコに叩きのめした後、絶縁の呪いで最後の一つと交わらないようにしよう!」
フリエスはセーグラの姿を思い浮かべながら腕をバキバキ鳴らした。なお、その姿はイコのそれであり、正確な姿は記憶に残っていなかった。
「呼び出す方法はないがのう。もうイコとやらの体を使って、呼び寄せることはできんし、かと言って他の信徒を利用しようにも、女神の気を引く“何か”がなければ、振り向いてくれることもない。それこそ、愛の女神の気まぐれが必要じゃろうて」
今からお前をボコボコにするから出てこい、といって出てくるバカはさすがにいない。フリエスの提案は絶対に実行不可能な策であった。
「面白いことになって来たのう。そう遠くないうちに、おぬしらの部隊は、女神(半分)、魔王(自称)、魔王(本物)、子犬(童貞)となりそうじゃな」
「ハッハッハッ、愉快な未来予想図ね! って言うとでも思った!? 冗談じゃないわよ!」
フリエスは今一度、拳を机に振り下ろし、恐るべき未来を粉砕せんと言わんばかりの一撃を加えた。
「まあ、折角じゃし、一つ情報をくれてやろう。なにしろ、もう一つの場所はすでに把握済みであるからな」
「マジで!?」
フリエスは跳び上がるように椅子から立ち上がり、前のめりになって尋ねた。もちろん、フィーヨも是非とも聞きたい情報であるので、座ったままであるが顔を机の上に乗り出していた。
「ただし、条件がある。それさえ飲めば、教えてやろう」
やはり交換条件を出してきたか、フリエスとフィーヨは一度お互いを見やって頷き、そして、視線をネイロウの方に戻した。
「とりあえず、条件を聞きましょうか」
「うむ。フリエスよ、おぬしは近々こちらの大陸のムドール家の者と接触することになるじゃろう。その際に交わされた会話を一言一句漏らさずワシに教えること、これが条件じゃ」
意外な条件に、二人は目を丸くして驚いた。もっと面倒な条件でも出してくるかと思いきや、会話の内容を伝えるだけでいいとは、軽い条件であった。
(たしか、西大陸のムドール家は魔術師組合の代表者だって、フロンさんが言ってたわね。そうなると、接触してくる可能性は十分にあるか)
なにしろ、数百年にわたって誰も終わらせれなかった不死者の祭典を終わらせたのが、他ならぬ自分達である。そのおかげで現在、冒険者の間ではその話で持ちきりである。そうであるならば魔術師組合が興味を持ち、なんらかの接触をしてくるかもしれない。
ネイロウの言う“ムドール家との接触”は十分に起こりうるのだ。
「ま、遠い親戚とのご対面ってとこか。血は繋がってないけど」
フリエスはあくまでも東大陸のムドール本家の養子であり、その血脈も技術も受け継いでいない。それでも会ってくれるとすれば、あちらの興味を引くことを成さねばならず、そして、それはすでに成されていると言ってもいい。
「では、契約成立としよう。接触したあとは、ニーチェを使い番として派遣するつもりじゃ。ちゃんと情報を伝達するのじゃぞ」
ニーチェはフリエスに向かって、よろしくお願いします、と一礼して伝えてきた。フリエスは自身のそっくりさんに不快な感情を抱いてはいるが、仕事上の付き合いがある以上は顔を合わせねばならず、渋々ながら承諾し、軽く会釈して返事とした。
「では、場所を教えるぞ。この西大陸の西部、その山中に今は誰も住んでいない古びた城がある。その城跡の中に封印が施されている場所があり、そこからフィーヨの持つ道具によく似た魔力と波動を感じた。おそらくはそこにあるじゃろう。ええと、場所はこの辺りじゃ」
ネイロウは地図を取り出して、問題の廃城がある地点を指さした。
「なるほど。んじゃ、西部の方に行くときは気を付けるとしましょう」
「果たして、そう上手くいくかのう」
ネイロウはニヤリと笑い、話を続けた。
「ワシに言わせてば、どうあがこうが、必ず赴くと思っておるぞ」
「なぜでしょうか?」
「なぜなら、その廃城は五十年は昔に戦で滅ぼされた城なのじゃが、その名を“スラムドリン城”というからな」
廃城の名前を聞くなり、フィーヨは衝撃を受けて目を丸くして驚いた。そして、額冠に魔力を込め、左手に巻き付いている兄ヘルギィに尋ねた。
「お兄様、私の“母”の名前は?」
「ルールーン=スラムドリンだ。お前も今、そう名乗っているだろう。どこから流れてきた奴隷かは知らなんだが、これは偶然の一致か、はたまた・・・」
フィーヨの母親については情報が少ない。どこかしらから流れてきた奴隷であり、スヴァ帝国の皇帝にその美貌を見初められて買われた事。フィーヨを産んだ後、程なくして亡くなった事。そのくらいの情報しか残っていないのだ。わざわざ流れ者の奴隷の事など、誰も記録もしていなければ、記憶している者もいないのだ。
名前ですら、生前ヘルギィが話す機会があって、どうにか覚えている程度でしかない。
フィーヨは皇帝在位中はフェーヨ=ザルヴァッグ=ドゥ=スヴァニルを名乗っていた。“ドゥ=スヴァニル”はスヴァ帝国皇族の称号であり、“ザルヴァッグ”は皇族の家名だ。退位後は“ザルヴァッグ”の家名は返上し、ヘルギィから聞かされていた母の家名である“スラムドリン”を用いるようになっていた。
冒険者の身分証にも、フィーヨ=スラムドリンと記してある。
(そういえば、冒険者登録の際に、受付の方が怪訝な顔をしていましたが、まさかこれが原因?)
もし、事実であるならば、五十年は昔の話になるはずであった。なにしろ、フィーヨの現在の年齢は四十に到達している。その母親の話となると、さらに十数年は昔のこととなる。五十年以上の廃城となると、時間的には合っている。
しかも、五十年は昔の出来事が伝わっていて、縁もないであろう辺境国家の人間が“スラムドリン”の名に反応を示したことから、余程のことがその当時に起こっていたことも窺えた。
「五十年は昔の話であるから定期航路開拓前になる。しかし、西大陸から東大陸へは一方通行だが航路は存在した。状況的にはなくはない話ではあるな」
ルイングラムの指摘はまさにその通りであり、フィーヨもヘルギィも頷いた。
「では、そこが母の故郷ということも・・・」
「“調査”せねば分からんぞ」
ニヤつきながらネイロウが言い放ち、フィーヨもフリエスも悩ましい顔をした。
「調べておきたくはあるけど、最後の一つと同化する危険もあるわね」
「ですわね。ただ、あくまで母の身の上の調査となるので、現段階では優先度は低くなりますし、後回しにしてもよいかと」
気にはなるが、危険度が高く、優先度も低い。それで場の意見は一致した。
「なんじゃ、つまらん。モロパンティラの復活を拝めると思ったのに」
「祭典は終わったの! これ以上の騒動は御免だわ。あんたの享楽に付き合わされるなんて、絶対にイヤだからね!」
なにしろ、不死者の大群と、それに覆い隠された火山の噴火という二段構えの呪いを仕掛けた魔王である。できれば関わり合いたくないのが本音なのだ。フリエスとしては、手を焼く魔王がさらに増えるなど、絶対に避けたい案件であった。
「享楽とは失礼じゃな。純粋な好奇心や探求心じゃというのに」
「それは結構なことですわね。好奇心は探求心は活力の源であり、足取りを軽くして前へと進ませます。ですが、求め過ぎると足下をすくわれる原因にもなりますのでご注意を」
フィーヨが警告とも忠告ともとれる発言を口にし、目の前のネイロウを睨みつけた。それに倣うかのように皆の視線も集中し、二人の女性、二匹の蛇、合計八つの眼が狂人に注がれた。
「まあ、気を付けておくことにしよう。やらねばならぬことが多い上に、おぬしらの相手までせねばならぬのはきついでのう。片手間でやるには重い案件じゃからな」
わざとらしく肩を竦めつつも、ネイロウはどこか楽しそうであった。少なくとも、フリエスの目にはそう映った。
「最後に一つだけ聞かせて。あんたの目的はなんなの?」
「無論、神を倒し、このふざけた世界を潰すことじゃよ」
即答であった。信念、信条、揺ぎ無い目的があり、決意がそこにあった。
「セラと似たようなことを言って・・・」
「じゃが、今のおぬしならば、理解できなくもないのでは?」
ネイロウの指摘に、フリエスは思わず顔をしかめたが、指摘された点は否定しようがなかった。あくまでネイロウとの会話が全て正しいという前提であるが、今日交わした言葉の数々が正解であった場合、世界は間違いなく“狂って”いるのである。
しかし、それらを認めたくない何かがあることも、フリエスは自覚していた。認めたくないが、否定することもできない。葛藤という名の板挟みになっていた。
(でも、見方を変えれば、この狂人は・・・)
フリエスにしろ、目の前の男に関わってきた者は、皆ネイロウを狂人だと考えている者が多い。だが、世界全てが“狂って”いて、たった一人だけ“真っ当”な思考をしていた場合、真っ当な人間の方が周囲の者達から狂人に映ってしまうことだろう。
そして、今夜の会話ではそれが示されたとも言える。本来、そういう判断を下せるのは神の視点を持つ者だけであろうが、あろうことかその神が“狂って”いるというのだ。
「・・・じゃあ、今夜はこれで失礼するわ。会いたくはないけど、また会うことになるかな」
「そうじゃな。また会える日を楽しみにしているよ、愛娘よ」
別れ際まで苛立つ発言に終始し、フリエスは不機嫌そうに席を立った。フィーヨもそれに倣って立ち上がると、別れの言葉もなしに部屋を出ていった。
(フィーヨさんも思考の真っ最中ってとこか)
フリエスは沈黙を守るフィーヨと二匹の蛇を見やった。頭蓋の力を使っている間は念話による意思疎通が可能であり、おそらくは“スラムドリン”について話し合っているのだろう。
気にはなるが、近付くのは危険すぎる。早急に答えが出そうな話でもないし、しばらくは夜の睦み合いもある意味でお預けとなるであろう。
「では、こちらからどうぞ」
見送りはニーチェだけであり、彼女は再び〈開門〉の術式を使い、空間の裂け目を開いていた。来た道の逆を辿ろうということだ。
「まあ、そのうちまた会うことになるでしょうけど」
「そうですわね。私もお姉様との再会を楽しみにしておりますわ」
ニーチェは微笑み、フリエスは思わず見とれてしまった。
(あたしも多少は可愛げがあれば、こうなるのかしらね)
なにしろ、ニーチェはフリエスを元にして作られた人造人間であり、容姿は髪の色を除けばそっくりなのである。年齢は自分より四、五歳上に設定されているようだが、よく見ると可愛いと感じてしまう。
自分で自分を可愛いと思ったこともなかったので、ある意味では新鮮な体験であった。
「そのお姉様っていうのはやめて。フリエスでいいわよ」
「分かりました、フリエスお姉様」
「・・・いい性格してるわ」
フリエスは訂正を諦め、空間の裂け目に飛び込んだ。
次の瞬間には元いたワーニ村近郊の森に戻っており、そこにはジッと立っているセラと、徹夜明けで寝ぼけ眼のラオが立っていた。
山の向こう側が徐々に陽光が姿を現し、朝を告げようとしていた。狂人の住処の訪問はどうにか無事に終わり、いくつもの謎と興味がフリエスの心に刻まれることとなった。
~ 第三十三話に続く ~




