第十二話 観察
椅子に腰かけている男の前には、大きな一枚鏡が壁に備え付けられていた。そこにはいくつもの映像が映し出されており、男はそれを一つ一つ眺めながら、次から次へと画面を切り替えていった。大陸各所に派遣した使い魔から送られてきた映像であり、探し物の探索や、仕掛けた事案の進捗状況を確認していた。
男の名はネイロウ。《狂気の具現者》の二つ名で呼ばれる魔術師だ。
フリエスに神の力を降ろした張本人であり、フィーヨをかつて誘拐したこともある因縁浅からぬ相手だ。魔術師として傑出しているのみならず、数々の実験を繰り返し、あるいは事象を動かして世界に干渉し、自らが思い描く未来を掴むため、動いていた。
“神を倒す”、これこそこの狂人の現在の目的であり、行動原理だ。この世界には不条理が溢れている。なぜ不条理なのか、それはこの世界を作った神とやらが、「そうあれかし」と言って作ったからに他ならない。
神は強大な力を持つ恐るべき存在なのは間違いない。この世界に住まう者など及びもしないだろう。だが、完全無欠の全能なる存在ではないことはすでに証明されている。神が本当に全能なる存在であるならば、精神世界に押し込まれ、物質世界への干渉が制限されるはずなどないからだ。
つまり、神と呼ばれる存在にすら制限を加えれる“何か”がいるのか、あるいは従わざるを得ない真理でもあるのか、それはまだ分からない。だが、神が実際に制限を加えられている以上、“何か”があることだけは間違いない。間違いないなら、そこへ至る方程式は絶対に存在する。目的地は見えていても、そこへ至る道が分からないだけに過ぎない。ならば、見つけてみせよう、その道を、この私が。
これがネイロウの基本的な考え方だ。
故に、彼は誰からも狂人呼ばわりされるのだ。神を倒して世界をひっくり返そうなど、まともな人間のする思考ではないからだ。だが、ネイロウは自身を狂人だと思ったことがない。むしろ、普通の人々こそ狂人だと考えている。理不尽なこの世界とその創造主たる神に頭を垂れて良しとする、まさに奴隷の発想だ。それを甘受するなど“自由を求める反逆者”を自任する者として耐えられない。
真っ当な人間が狂人達の住処に紛れ込めば、真っ当な人間の方が狂人と思われるしかない。そういう状況なのだと、ネイロウは割り切ってこの世界とその住人を見ていた。
(おそらく、この域にまで思考を進めているのは世界でただの二人、いや三人か。私とトゥルマース、そしておそらくはミリィエもだ。他の勘のいい奴もある程度までは進めているやもしれんが、そういう奴とは出会えておらん。しばらくは一人の思考が続くな)
ネイロウは自身を絶対的な強者とも並ぶ者なき知恵者だとも考えたことはない。自分の成しえなかったことをやった者は何人もいるし、そうした偉業を成した者に対しては敬意も払っている。
《全てを知る者》トゥルマースや、《氷の魔女》ミリィエなどはまさにその代表例だ。智者としての力量ならば間違いなく同水準か、あるいは上をいっている連中だ。それはネイロウもよく認識していた。
だが、それでもネイロウは両者よりも先んじて世界の真理に到達できると確信している。あとの二人は人間の社会に関わりすぎて、人間としての生活に染まりすぎている。一方の自分は人間ではなく、一個の思考装置と化して目的地までの道を探っている。目的のためなら手段を選ばない。世間一般で言うところの、外道な行いや悪魔の所業と呼ばれる行動すら、ネイロウにとっては選択肢に入れれる程度のことでしかないからだ。
(まあ、協力し合うのが一番なのだろうがな。三人揃えば何とやらよ。だが、あの堅物共は理解はしても、納得はするまいて)
ミリィエは行方知れずだが、こうして使い魔を放って各所を調べさせていた。もちろん、それらしい人物にはまったく当たっていなかった。無駄かもしれないと思いつつも、探すことを止めるわけにもいかないのも事実であった。味方に引き入れるにしろ、あるいは敵対するにせよ、相手の情報を少しでも掴んでおくのは当然の行動であるからだ。
(トゥルマースは居場所は知れている。東の大陸において、現在は自身の研究室と魔術師組合の図書館に入り浸りの状態だ。あそこにはかつてワシの進めていた研究資料がある。それを読み解いている。おそらくは邪神のことに気付くはず。最初は復活を、次にその“落とし穴”に)
ネイロウは世界をひっくり返す“最短”の方法は、邪神を復活させることだとかつては考えていた。神々が世界を作る前の状態、虚空あるいは混沌と呼ばれる世界への回帰を望んだのは邪神に他ならない。ならば、その世界の裏側を覗き見ることこそ、反転させる最良手だと仮説を立てた。
だが、ある程度邪神に関する研究を進めた段階で“落とし穴”の存在に気付いた。邪神を復活させてはならない、そう結論付けた。邪神から幾ばくか力を引き出せたが、それ以上のことはしなかった。邪神は今はまだお空の月として、皆を眺めてもらう方がいいと考えを変えたのだ。
同時に、至高神イアの危うさについても気付いた。これの扱いも注意がいる。
邪神も至高神も使い物にならない。というか、使ってはならない。使わずに、世界の真理に到達する必要がある。ネイロウはこの難題に挑んでいる最中なのだ。
(これに気付いたときは、ワシも一時絶望したものよ。神を超えるには神をも縛る真理を垣間見る必要がある。それを見ることによってこそ、始めて世界の仕組みを“全て”知ることができる。だが、そこへの道筋が一向に見当たらない。どころか、道筋だと思っていた邪神と至高神が実は“落とし穴”であったと気付いたときの失望感よ。だが、ワシは諦めなかった。一筋の光明が雷光と共に舞い降りた。それこそ我が秘中の秘にして、最後の希望。逆転の発想が生み出した、我が愛娘よ)
鏡の画面が切り替わり、今度はそこにフリエスが映し出された。どうやら就寝前の風呂上りらしく、湿った髪を風に当てて乾かしている最中の姿が、ネイロウの目に映っていた。
湯上りの少女独特の可愛らしさ、風に揺れる波打つ金髪が実に魅力的であった。背後で見知った黒髪の女性が赤い蛇に対して涙ながらに訴えかける映像が映ってなければ完璧であったのだが。
「相変わらず騒々しいな、あの元皇帝は。我が家に招いて躾をし直してやろうか?」
ネイロウは冗談半分で、鏡に映し出されたフィーヨを見つめた。ネイロウにとってはフリエスが最重要であったが、フィーヨの重要度も高い。なにしろ、この世界において、唯一蘇生実験に成功した稀有な存在であり、研究者としての探求心を刺激する存在であるからだ。
邪神の目的が原点回帰であるならば、それはすなわち時間を巻き戻すことであり、死から生へと時間を戻したフィーヨは、まさに回帰の手掛かりとなりうる貴重な実例なのだ。あるいは、フリエスを使った道とは、別の道をここから導き出せるかもしれない、そうネイロウは考えていた。
そんな愛娘とその友人の姿をじっくり鑑賞していると、部屋の扉を叩く音がした。
「開いておる。入ってよいぞ」
ネイロウがそう答えると、扉が開き、部屋の中に一人の女性が入ってきた。年の頃なら十六、七歳といったところで、大人か子供か迷う境界の存在だ。少々癖の強そうな黒髪をしており、それをかなり強引に三つ編みにして後ろで束ねていた。服装は紺地のワンピース、純白のエプロン、カチューシャリボンと、絵にかいたような典型的な女給仕の装束であった。
「失礼いたします、御主人。第三百三十四号実験体の調整が終わりました。いつでも所定の実験を行えます」
メイドは恭しく頭を下げた後、そうネイロウに報告した。ネイロウは満足げに頷き、側に来るようにと手招きをした。
ネイロウは他の追随を許さぬほど超常的な力を持っているが、あくまでも“人”の範疇に収まる存在にすぎない。時間が過ぎればお腹も空くし、眠くもなる。風呂にでも入って疲れを取りたくもなれば、あるいはふと女を抱きたくなる瞬間もある。それゆえに、側に一人身の回りの世話と、研究の助手を務めれる者を置いていた。
「ニーチェ、これを見てみなさい」
ネイロウは鏡を指さし、そこに映るフリエスを見せつけた。ニーチェと呼ばれたメイドはもう一度恭しく頭を下げ、それからネイロウの隣に立ち、鏡を見つめた。
そこには金髪の少女が映し出されており、ニーチェはそれをしっかりと見つめた。
「お前には初めて見せるが、こやつが以前から話していたフリエスじゃ」
「ああ、こちらがそうなのですね」
ニーチェは鏡に手を伸ばし、その指先でフリエスの顔をなぞった。その表情は無機質な何も感じさせないものであったが、どこか楽しそうであった。
「ニーチェよ、そやつに会ってみたいか?」
「はい、一度お目にかかりたいと思っております」
表情こそ動かないが、その声色は明らかに弾んでいるように聞こえた。ネイロウは満足し、そして、椅子から立ち上がった。
「近いうちにこやつを我が研究所に招くことになろう。そのときは、しっかりともてなしてあげなさい。さて、実験実験っと。結果は吉と出るか、凶と出るか」
ネイロウはあれこれ思考を巡らせながら歩き始め、扉の方へと足を進めた。
ニーチェは歩く主人の後ろ姿を眺めた後、もう一度視線を鏡の方へと戻した。そして、鏡に映るフリエスの顔に手を添えた。
「お会いする日を心待ちにしております、“御姉様”」
ニーチェは鏡の魔力を断ち、映像を消してしまった。そして、急ぎ足にて部屋を出ていった主人の下へと向かうのであった。
~ 第十二話に続く ~




