第二十四話 王の決意
宴は夕刻ごろから始まったが、外はすでに日が落ち、すっかり暗くなっていた。夜空の月は消えてしまいそうなくらい細く、近いうちに新月であることを告げていた。
宴は賑わっていた。バルコニーで夜風に当たっているフリエスの耳にも、人々の笑い声や歌声が演奏隊の音楽とともに耳に入っていた。久しぶりにドレスを着こみ、あの楽しげな輪に加わってみたが、やはり顔馴染みがいないとやりづらい。
ドレスで着飾った淑女にしては少々はしたないが、手には葡萄酒の酒瓶とグラスを持っており、グラスに酒を注いでから、酒瓶をバルコニーの手すりに置いた。グイッと一気に飲み干し、軽くため息を吐いて、グラスも手すりの上に置いた。
そして、今は姿の見えない仲間の顔を頭に浮かべた。
セラはこうした華やかな席が嫌いなので、どこかで寝転がっているだろう。もちろん、女性を引っかけて“食事”をしているかもしれないが、間違っても吸血鬼化はしないようにと念を押しているので、多分大丈夫だろう。
フィーヨは客室で休んでいるはずだ。あの美しい姿で着飾って会場に現れれば、自分など問題にならないくらいに華を咲かせてくれただろうが、さすがに杖付きではいまいち映えないであろうから、出るつもりもなかったようだ。
(自分一人・・・か)
ふとそんなことがフリエスの頭に浮かんだ。フリエスの記憶する限り、自分の周りには常に誰かがいた。自分を鍛えてくれた父と母。王宮へは王妃の侍女として側に侍った。戦場では数多の英雄達と肩を並べた。単独行動となると、実家を家出して、あちこち一人で旅をしたときくらいだ。
今はフィーヨとセラが一緒にいてくれている。
セラは仲間とは言い難い関係だ。飼い主と番犬、生贄と魔王、あるいは体だけの関係、言い表すのが難しい距離感にある存在だ。強さにおいては絶対の信頼を置いているが、それが発揮されるのがいつも遅いか見当外れなことばかりなのが欠点だ。
フィーヨはその点、かけがえのない存在だ。フリエスにとっては、仲間であり、友人であり、姉であり、あるいは母のような存在だ。フリエスの養母は母性とは無縁の存在で、温か味のある優しさなどを持ち合わせていなかった。母子というより、師弟と言った方がしっくりくる間柄だ。だからこそ、フリエスにとってはフィーヨの優しさが落ち着くのだ。味わってこなかった母の温もりがあり、《慈愛帝》の二つ名に偽りのない存在として、フリエスの中で確固たる地位を築いていた。
この三人で旅することを決めた時、さすがにどうなるかは分かっていなかったが、今ではよかったと思っている。予定外の出来事さえなければ、今も楽しく旅路を続けていた事だろう。
ただ、予定外の出来事があまりの面倒事であったため、予定が大きく崩れた。フリエスとフィーヨは思い出したくもない過去の因縁を呼び起こされ、同時に己の未熟さを思い知らされた。今後はそれを克服するべく、研鑽を積んで強くならねばならなった。
セラは長らく平和な時代で退屈な時間を過ごしていたが、ようやくまともに戦える相手を見つけて、ここ最近は甚だ上機嫌だ。少なくとも、ネイロウがちょっかいをかけてきた場合に限り、確実に反撃の戦力として計算に入れれるようになった。
「フリエス殿、酒に酔われてしまいましたか?」
不意に、後ろから声をかけられたのでフリエスは後ろを振り向くと、そこにはフロンが立っていた。顔色から素面であることが分かった。今の今まで、飲み食いもせず、ひたすら話を聞いて回っていたのだろう。
「宴の主役が会場を抜け出すのは感心しないわね。それに、あれだけのいざこざがあった直後よ。暗殺には気を付けた方がいいわ」
フリエスは経験から知っていた。このような政争のときには、万の軍隊よりも、一人の優秀な暗殺者の方が怖いということを。
実際に、大戦中に《英雄王》も暗殺者に危うく殺されかかったこともあったし、フリエスの父母も一歩間違えば暗殺者の凶刃に倒れていたであろう場面もあったのだ。外にも大勢暗殺の危機に見舞われており、その恐ろしさをよく聞かされていた。
「まあ、そうなったときは、小さくて大きな英雄殿が助けてくれるでしょうから」
「追加料金、吹っ掛けるわよ」
「その程度でしたら、気前よくお支払いしましょう。財布の口を開けてお待ちください」
フロンはすっかりフリエスに対して軽口を叩けるようになっていた。出会った当初は丁寧に話し、距離があったのだが、今ではそれがすっかり縮まり、長年の顔馴染みに話しかけてくるような気軽さだ。
今は誰もいないので、こうした軽い話し方ができるのだが、相手はれっきとした王様なのだ。フリエスとしては、せっかくできた友人との距離がまた空いてしまった感じがして、少しばかり寂しかった。
フロンはフリエスの横に立ち、そして、夜空の星々に視線を向けた。
「なにやら物思いに耽っておられたご様子ですが、私でよければお聞きしますよ」
フロンはフリエスに視線を向けることなく尋ねてきた。視線は星々の海を覗き込んだままだ。フリエスとしてはその方がよかった。多分、今の自分の顔はしょぼくれた冴えない顔をしているはずだ。真っすぐ見られて質問される方が気恥ずかしい。
「物思いというか、反省かな。今回の件は自分を見つめ直すいい機会になった反面、不甲斐なさをさらけ出された気分なの」
そう言って、グラスに葡萄酒を再び注ぎ、また一気に飲み干した。
今回の件はセラがいて本当に良かったと痛感していた。普段は役立たずであるのに、ここぞという場面では力や冴えを見せてくれた。魔王を自称するのははったりでもなんでもなく、本当に肝心な時にだけ働いてくれる存在なのだと再認識できた。
フィーヨと二人だけの旅の方が何かと気楽なのは間違いない。白鳥の依頼も、手紙を届けてくるだけなのだから、むしろ魔王を連れて歩く方が過剰戦力なのだ。また、月に一度の面倒事もないので、身動きも取りやすい。それを考えた上で、あえてセラを連れ立ったのは、最後の最後という場面の保険の意味合いがあるからだ。
そして、その保険が今回はがっちりはまった。もし、二人で《狂気の具現者》とやり合うことになっていたら、間違いなく虜となってあの毒牙にかかっていたことだろう。
今こうして呑気に酒を飲んでいられるのは、他でもない魔王の助力あってこそだ。女神がこうもあからさまに魔王に助けられるなど、恥ずかしさよりも情けなさの方が強く心を締め付けてくる。
「そのようなものなのですか。まあ、私は手袋越しに掴んだ果実を頬張っていただけですから、あまり何かを言えたものではありませんが、フリエス殿も十二分に活躍しておられましたぞ」
「結果だけ見ればね。でも、内容は散々だわ」
当初の話ではフロンを助けて、国内の混乱を収めるということであった。それについては見事に達成され、賊は討ち果たされ、フロンは王位に就いて混乱を抑え込んだ。
だが、“黒鉄の人形”の一戦は英雄二人がかりという割には、あまりにも泥臭い内容になってしまった。もし自分の代わりに父母のどちらかが戦っていれば、間違いなく楽勝で終わっていたであろう。フィーヨの補助を受けた英雄級の戦士、あるいは英雄中最強の魔術師、ただ神の力を半端に行使できる仮初の英雄とは能力も場数も違うのだ。
(せめてこいつが全力で使えるようにならないと、あのイカレには対抗できない。かつて神々すら刈り取ったとされるこの鎌が・・・)
フリエスは自身の首にかかった首飾りを握り締めた。神々の遺産《雷葬の鎌》は怒りを司る雷神フリエスの象徴的な武器で、神々の時代の終末にはその巨大な鎌で神々の首を刎ねていき、その肉体を大地に返していった。その流れ出た血と神力が竜脈の大元になったとも伝えられ、当たり前のように天地が改変していく神々の時代が終わりを告げ、大地が今の形に定まったとされている。
だが、その鎌は今は見る影もない。ただの首飾り、装飾品で、殺傷力はない。もちろん、術法増幅器として極めて優秀であり、これを自在に制御できるだけで十分に強い。並の相手では百や二百程度集まったところで、返り討ちに遭うのがオチだ。
並の相手ならばそれでいいが、真の実力者と相対するときにはまず力不足だ。だからこそ、根本的な火力増強を計るには、鎌の覚醒方法を見つける必要があるのだ。
神話の伝承通りならば、女神フリエスはその鎌で神々の魂すら刈り取り、精神世界へと追いやったとされている。その力が本当に存在し、発揮できるのであれば、魂だけで移動できるネイロウと戦う上ではこの上ない戦力となるはずだ。
「まあ、反省するのは結構ですし、それ自体は否定しません。しかし、今日は全てが終わった事を祝しての宴です。もちろん、何も終わってはいませんが、終わったということにして区切りを付けねばなりません。気持ちを切り替えていきましょう。さあ、にこやかに笑っていただかないことには、主催者たる私が困ります」
フロンは置いてあった酒瓶を手に取り、フリエスに勧めた。フリエスはそれを受け、酒がグラスに注がれると、それをまた一気に飲み干した。
「いい飲みっぷりですね」
「お酒が美味しいからよ。この国が西大陸一の美酒を造るってのは本当よね。フロンさん、いい王様になって、これからも皆を酔わせていってくださいね」
「英雄にして、女神のお言葉なれば、必ずや」
フロンは手に持っていた酒瓶とグラスを置き、フリエスの手を掴んでその手に口づけをした。フリエスにとっては不意打ちであり、少々困惑したが悪い気分ではなかった。
フリエスにはセラと関係を持つまで浮いた話が一つもなかった。というのも、かつて冗談半分に「《英雄王》のお嫁さんになる」と子供ながらに言った台詞を父が真面目に受け取り、そのつもりで動いていたからだ。
フリエス自身は特に気にもかけていなかったが、フリエスの父はムドール家直系を名乗るほど大魔術師であり、《英雄王》の最側近にして軍師であり、私人として二人は親友とも呼べる間柄であった。その娘ともなれば、縁談話などどこからでもやってくるものなのだが、そのことごとくをあやふやにして断って来た。フリエスを《英雄王》に嫁がせる気でいたからだ。
しかし、当の《英雄王》は他界し、父親自身も隠居して一切の権限を捨て去ったため、フリエスは完全に縁談やら色恋沙汰とは浮いた存在になってしまった。その後の家出一人旅の時でも、可憐な美少女としてよりも“英雄”としての名声が却って邪魔をして、愛を語らうほどの男が一向に現れなかった。
だが、目の前の男は英雄であり女神でもある自分に、物怖じすることなく接してくれていた。正体や事情を知ったうえで以前と変わらず接してくれる人は本当に久々であった。
「フロンさんっていい人ですね」
「表面的にはそうですかね。まあ、そのうち偉大な人とは呼ばれたいですな」
半ば冗談、半ば本気のフロンの言葉にフリエスは思わず笑ってしまった。先程まで塞ぎ込んでいたのが馬鹿みたいに思えるほどに笑った。
「そうなるといいですね。あたしも多少は助力してあげてもいいですよ。できることでしたら、なんでも言ってくださいな」
「そうですか。では、私と伴侶の誓いを立てましょう」
フリエスにはフロンの言葉の意味を理解することができなかった。あまりに急なことだったので、それを理解するのに随分と時間がかかってしまったのだ。
そして、理解すると顔を赤らめて、フロンの顔を見つめた。冗談などではなく至って大真面目、それがフロンの表情からは読み取れた。
「え、ちょっ、え? フロンさん、本気で言ってるの!?」
「もちろんです」
少し引き気味だったフリエスであったが、逃げ道はすぐに塞がれた。フロンがフリエスの手を握る力を強める一方、もう片方の手をフリエスの腰に回し、抱き寄せたのだ。勢いと不意打ちに驚き、フリエスは持っていたグラスを落としてしまい、ガラスの割れる音が小さいながらもバルコニーに響いた。
今少し顔を近づければ、口づけも可能なほど距離が狭まっていた。
「大丈夫です。皆にはちゃんとそのように紹介しておきましたので」
「どんな紹介をしたの!?」
なんということであろうか。自分の知らないうちにそのような謀が進められ、気が付けば城壁が突き破られかけているではないか。フリエスは混乱するしかなかった。
「お、落ち着いて、フロンさん。ほら、それに、フロンさんってフィーヨさんみたいな出るとこ出てる女性がよくなかったっけ? うん、ほら、あたし、何から何まで痩せてるし、背も低いし、なんて言うか、その、小さいし・・・。ね? ね? ね?」
「問題ありません。改宗しました」
「どういう意味で!?」
讃えるべき神の名が酒杯神から雷神に変わったのか、あるいは女性の好みが変わったのか、判断に悩むところであった。ただ一つ、はっきりとしていることがあった。
(哀れなり、酒杯神エウル。あなたは今、一人の有力な信者を失った)
神の力の源は信仰力である。人々が神の御名を讃え、その呼びかけに応じてこそそれが芽生えるのだ。そのため、王のような有力者を信者として抱える神は大いなる力を発揮すると言ってもよい。なぜなら、王が讃える神を家臣や領民もそれに倣って唱えることは多々あり、個人の影響力がそのまま神殿や教団の影響力に直結するからだ。
そのため、神が降りてくるのは、王あるいは英雄と相場が決まっていた。人々を惹きつける力や影響力が大きく、それの心を得ることができれば、信仰を集める上でこの上なく有利であるからだ。
いい例がフィーヨであろう。なにしろ、彼女は皇帝であると同時に、軍神マルヴァンスの神官でもあったのだ。元々彼女が治めていたスヴァ帝国は『奉神国』と呼ばれるほど信仰心篤き民が多く、祈りを捧げるのが日課になるほどの国であった。数多くの神殿や教団が存在するが、皇帝が何を信仰するかでその時の影響力に差が出るため、各教団はこぞって皇室から有力諸侯まで幅広く支持を取り付けようと躍起になっていたものだ。
時には行き過ぎて宗教戦争の体を成すときがあったが、《苛烈帝》の大改革によって風紀を乱すものとして、度を超す勧誘活動は制限され、その後継となったフィーヨは軍神の教団を特に支援することもなく、また『信仰の自由と入信活動に関する勅令』によって、帝国の宗教界は一応の平穏を取り戻した。
とはいえ、特に支援などしなくても、皇帝の信仰に付き従って軍神の名を讃える者も多く、また大戦中はまさに最も加護が欲しい神ということもあって、軍神の教団は皇帝の庇護がなくても巨大化していった。大戦が終わった後もその影響力を維持し続け、東大陸では今でもその規模や信者数が三指に入るほど大きな教団となっていた。
神の名を讃えよ。それはこの世に存在する人々の義務でもあるかのように、皆が何かしらの神の名を唱えていた。目の前の青年もまた、抱き寄せる女神に心を奪われたのだ。
「フロンさん、もしかして酔っぱらってる?」
「いいえ、今日は酒を一口も飲んでおりませんよ」
実際、フロンの顔は酒気を一切感じさせない顔色であった。グラスに注がれていた酒は一向に減っておらず、ただ格好だけグラスを持っていただけであったのだ。フリエスもそれを途中まで見ていたのだが、あれからもずっと飲んでいなかったというのだ。
まさか、兄の流儀をそっくりそのまま引き継いでいたとは思いもよらなかった。
(・・・でもまあ、これもこれで案外いいかもしれない、か)
フリエスの視界いっぱいに移る男と伴侶になることは、感情抜きに考えるのであれば、間違いなく最上級の縁談話だ。頭脳明晰で、武芸もかなりのものだ。見た目は絵に描いたような好青年で、気前もいい。日常の生活も仕事ぶりも真面目で、女の気配が他にないので浮気の心配もない。しかも、一国の主だ。考え得る限りでは、間違いなく最良と言える男だ。これ以上のを連れてこいと言われても、まず不可能なほどの優良物件だ。
普通に考えれば、これ以上にない良縁であろう。そう、“普通”ならば。
悲しい事に、フロンが望む相手は普通ではなかった。
フリエスは落ち着きを取り戻し、ようやく頭が動き出すようになった。そして、即座に判断を下したその内容は、放電であった。
だが、フロンはすぐに察した。素早く手を放し、軽く後ろに飛んで、フリエスの放電に巻き込まれないように距離を空けた。
「さすがはフロンさん。名将たるもの、引き際が肝心ですよ」
「おお、これは手厳しい一撃で」
フリエスは思い出したのだ。いや、忘れることなどできはしなかったのだ。自分がなろうとしたのは《英雄王》の花嫁であって、こんな小さな国の御妃様などではなかったことを。なにより、倒さなくてならない相手がいて、過去の因縁が決するまでは、のんびり立ち止まることなど許されないからだ。
「おい」
いきなり二人は声を掛けられたので驚くと、なんと手すりの上にセラが腕を組んで立っており、二人を見下ろしていたのだ。
「あんた、いつの間にそこに?」
「『抜け出すのは感心しない』の辺りから」
「ほぼほぼ最初からじゃん!」
酒が入っていたとはいえ、まったく気付かなかったのはフリエスの落ち度であった。あの後に暗殺者云々と御高説垂れたのがあまりにも恥ずかしすぎた。
もちろん、それは目の前の魔王の実力でもあった。セラは人族、人狼族、吸血鬼の三種混血児である。その内、人狼族はどちらかというと夜行性であり、吸血鬼に至っては夜に愛されし種族であった。この前の戦いでは昼間であったので、本来の力を発揮できなかったが、今は夜である。闇夜に紛れて、姿どころか気配すらも暗闇に溶け込ませるくらい、造作もないということなのだ。
とはいえ、先程の場面をばっちり間近で見られたのは赤面ものであった。
「で、なんの用?」
「“鼠”が入り込もうとしていたから、締め上げといたぞ。術でゲロらせたら、ワウン伯爵家からのお客さんだった。地下牢を勝手に使わせてもらったから、後で検分するなり、処分するなり好きにしろ」
そう言うと、セラは再び夜の闇に溶け込み、姿が見えなくなった。そして、風が僅かに吹き抜けると、気配すら完全になくなり、フリエスも追えなくなった。
ちなみに、地下牢の存在を知っていたのは、コレチェロとベルネの話をしっかりと覚えていたからで、特に関心なさそうなのにしっかりと記憶していたのは侮れない。
「まったく、相変わらずかくれんぼが上手いわね。堂々と姿晒して戦う方が好きなはずなのに。・・・で、フロンさん、どうします?」
「どうもしませんよ。セラ殿がこの屋敷を見張っていてくれるならば、いかなる刺客も入場資格は貰えないでしょう。入り込もうとした招かれざる客も、明日直接尋問しますよ」
フロンは顔こそ笑顔であったが、その瞳は笑っていなかった。その奥底から、ワウン伯爵家からさらに絞り上げようかと思案しているようであった。
思案の邪魔をするのは悪いかなと思ったことと、フロンから逃げたかったこともあって、フリエスはさっと身を翻して屋敷の中へと進みだした。
「フリエス殿、先程の紹介云々の話は嘘ですから、気にされなくて大丈夫ですよ」
フリエスは背中からフロンにそう告げられ、ひとまずは安心した。いちいち訂正して回るのが面倒であったから、嘘であったのは朗報だった。フリエスは手をヒラヒラさせて、それをもってフロンへのおやすみなさいとした。
一人バルコニーに残されたフロンは、手すりに置いていたグラスを手に取り、それを口に運んだ。今日初めての酒であり、味はまずまずであったが、妙に味気なかった。また、その程度では酔うこともできないので、フリエスが置いていった飲みかけの酒瓶も手にし、そのまま中身を飲み干した。
半分近く残っていた酒瓶を一気に飲み干したというのに、それでも酔えなかった。酔いたい気分なのに、一向に酔えそうになかった。生まれて初めて女性を真剣で好きになり、いつまでも一緒にいたいと思った。そして、真っ向から告白して拒絶されたのだ。酔い潰して、気分を変えていきたいのに、どうも上手くいかない。
「陛下、左様な飲み方はいささかお見苦しいかと」
声をかけてきたのは、コルテであった。フロンは歩み寄り、空になった空き瓶を手渡し、わざとらしいくらい大きなため息を吐いた。
「なあ、コルテ、先程な、生まれて初めて女性に愛の告白というやつをしてみたよ。そして、見事な負け戦だ」
「左様でございますか。それはお巡り合わせが悪うございました。しかし、女性はあの夜空のごとき星々の数だけございます。また良き縁がありましょう」
コルテはフロンが誰に告白したのかなど、特に聞かなかった。フロンの性格や最近の行動を考えれば、誰なのか推察するのは容易であるからだ。
コルテとしては、告白が失敗して良かったと思っていた。東大陸からの来訪者との結婚を、小国とはいえ王位にある者が行ったとなると、良くも悪くも大きな波紋を呼ぶことになるだろう。現状の国内の事を考えると、あまり波風の起こりそうな言動は控えてほしいというのが、偽らざる本音であった。
また、世継ぎの事を考えると、あの小さな体では難しいのではという問題もあった。王侯貴族にとっては家門を守るのが重要な役目であり、そのための世継ぎを産むということは最重要課題なのだ。できれば、今少し健康そうな女性を選んでほしいとも考えていた。
「コルテよ、星々は美しいし、たくさんある。だが、天に輝く太陽は一つしかないのだ。そして、私が望むのは、外ならぬ太陽なのだ」
「太陽とは至高神イアの加護を受けし、この世で最も輝ける存在でございます。個人が所有するのは叶いますまい。なにより、近づきすぎれば、その輝きによって目を潰され、あるいは熱で体を焼かれることでしょう」
かなり遠回しな言い方となったが、コルテはフロンに対して想い人とは距離を取ることを勧めた。もちろん、コルテの言わんとすることはフロンにも分かっていた。だが、それでも欲するのは、人としての欲の現れであったのかもしれない。
基本的に、フロンは兄に仕えることを第一とし、自分を抑えるような言動を心掛けてきた。だが、支えるべき兄が失われると、自分を抑え込む必要がなくなり、今は少しばかり感情が自身でも抑えにくいまでに噴き出しているのではと考えていた。
女神を物にしようなど、かつての自分ならば思いもしなかったことだ。
「なあ、コルテよ、私は悪どい奴なのだろうか?」
フロンは自分の手を見ながら尋ねた。その手を先程まで、女神を我が物にせんと掴んでいた手で、まだほんのりとその手には小さな女神の感触が残っていた。
女神を我が物にするなど、人の身では蒙昧この上ない所業とも言えることだ。だが、それでも感情を抑えきれなかった。フロンがフリエスと旅して感じたことは、あの小さな女神は神という括りの中においてはあまりにも弱すぎるのだ。だからこそ、彼女を神ではなく外見相応のうら若き乙女として見てしまっていた。
であるからこそ、守ってあげたいと、強がっても裏で泣き崩れている彼女を慰め、あるいは支えてあげたいと思えるようになっていた。
もっとも、その結果はあくまで強がることを貫くための拒絶であったが。
「はい、陛下。悪どいも悪どいです。率直に申し上げれば、それこそ大悪党と申しあげても差支えないくらいには」
きっぱりと言い放つコルテに、フロンは少しばかり恨めしそうに睨みつけた。無論、否定しておべっかでも言われるのは嫌であったが、こうも真っ向から返されると、返す言葉が思いの外、浮かばなかったのだ。
「ですが、それで良いではございませんか。女神を我が物とする人間が一人くらい、そう、世界の理を壊してしまうくらいの大悪党が一人くらいいてもよろしいかと」
「おお、そうかそうか。世界の理を破壊するか!」
女神を物にしようとするには、それくらいは必要かとフロンは納得した。同時にそれを成しうるたった一人の人間とは、自分ではないことも理解していた。
もしそれを成しうるものがいるとすれば、おそらくはあのネイロウという魔術師なのだと感じていた。
なにしろ、魔王が喜び、皇帝が怯え、女神が怒り狂うほどの存在だ。ただの人間の魔術師と呼ぶには、あまりにも大きすぎる存在だった。しかも、あの『金の成る畑』において神の領域である天地改変すらやってみせたのだ。女神を虜とするのであれば、少なくともあれを物差しとして測らねばならぬほどなのだ。
無論、自分がその領域に到達するのは無理だとも実感していた。
そう思うと、なんだか急に軽くなった気がしてきた。人には人の領分が、魔王には魔王の領分が、神には神の領分が、それぞれ存在するのだ。自身の上位存在の領域に踏み込もうなど、まっとうな判断力の有る者ならば、まずは選ばない選択だ。
「・・・とはいえ、今日は私の初陣で、そして、初めての負け戦だ。コルテ、宴が落ち着いてからでよいから、酒に付き合わんか?」
「私などがお相手でよろしゅうございますか? 今少し華のあるお相手がよろしいかと」
コルテとしては主君が女神に入れ込むのを、早く止めにしてほしかった。さっさと次の相手でも見つけ、そこで愛を育めば真っ当な君主となれるのではないかと思っていた。
そのため、無駄になる可能性が高いと知りつつ、それなりの女性は見繕っていて、宴の席に呼び込んでおいたのだ。良家の子女から、領内の見知った村娘、果ては信用のおける娼婦まで、幅広く用意していた。今は給仕に混じって酒や料理を運ばせたり、あるいは歌や踊りで宴に華を添えさせたりとしていたが、主君がその気になれば夜伽を命じるつもりでいた。フロンの指示通り、コルテは宴の準備を“完璧”に用意していたのだ。
もっとも、当の主君はまったくその気になっておらず、無駄になりそうであったが。
「もうな、私にはお前しかおらんのだ。まともに酒を交わせそうなのがな。兄上もいなくなり、ベルネもそれに従って行ってしまった。アルコ師もいない。そして、私には今この国には友人、あるいは同輩と呼べる者がいない」
今のフロンは孤高なのだ。フロンは元々交友関係が狭いのだ。せいぜい、友と呼べるのはアルコの私塾時代に机を並べた者達だけで、自領においてはどうしても身分が付きまとい、対等かあるいは近しい身分の友人などいないのだ。もし、平穏な時代に伯爵位を継承できていれば他の伯爵家の面々は同輩として友となれたかもしれないが、現状は明らかにそれらは下なのだ。
そうなると、もう一緒に酒が飲めて愚痴でも言えるのは、目の前の執事だけなのだ。口外できぬ秘密を共有し、自分を赤ん坊のころから見守っていてくれていたコルテだけが、唯一弱みを見せても許してくれる存在となっていた。アルコやコレチェロがいればよかったのだが、もうその二人はこの世の住人ではない。死した人と会話する術を、フロンは知らなかった。
コルテにはそれが痛いほど理解できていたので、それを女性でも当てがって心の隙間を埋めようとしたのだが、どうも主君は女神に心を奪われてしまい、人間の女性には関心を示してはくれそうもなかった。
であるならば、主君が少しでも早く心変わりしてもらえるよう、自分が積極的に動いてそれを促すべきだとの結論に達した。
「分かりました、陛下。今夜は陛下の初めての、そして、最後の負け戦となるよう願いまして、私の秘蔵の酒をご用意いたしましょう。宴の締めを整えてまいりますので、しばしの時間をいただきます」
コルテはフロンに会釈してバルコニーを後にした。
また一人になったフロンは再び夜空を見上げた。自分は太陽を手に入れようと遥かな高みに手を伸ばしたが、太陽は沈み、今は月が僅かな光を放っていた。じきに新月になろうかという細い月は、まるで邪神の薄ら笑いにも見えてきた。
空の星々から選べと言われても、太陽を眺めたあとでは、どれも見劣りしてしまうのは明白だ。身の程知らずと言われればその通りなのだが、それでも諦めたくないというのは、初めてということへの思い入れなのだ。
「王様、王様ぁ~」
物思いに耽っているフロンに、誰かが話しかけてきた。そちらを振り向いてみると、そこには酔っぱらった老人がいた。顔を真っ赤にした恰幅の良い老人で、右手には葡萄酒の酒瓶が、左手には酒が注がれた盃を持っていた。なんとも陽気な雰囲気がこれでもかと周囲に振りまいており、少しおぼつかない足取りでフロンに近づいてきた。
老人はフロンの見知った顔ではなかった。先程のセラの話もあったので、どこからかの招かれざる客人かと警戒したが、それもすぐに消えた。セラが見張っているのならば、侵入者などが入って来れるとは思えないし、コルテと入れ違いに近いくらいで寄って来たのなら、あの執事が気付かずに素通りさせるとも思えなかった。自分に覚えがないだけで、どこかの招待客だろうと結論付けた。
「なにかね、ご老人。随分と酔われているようだが、大丈夫かね?」
「いえいえ、これくらいは酔ったうちには入りませんぞ」
陽気な声に、酔っ払いの常套句。フロンもつられて笑ってしまい、少し足取りのおぼつかなかった老人を支えてあげた。
「おお、これはすみませんな。年のせいか、足が言うことを聞きませんでな」
「年ではなく、酒のせいではございませんかな、ご老人」
「いやはや、酒が旨すぎてついついですわい。今年はあの騒動でしたから、酒の具合がどうなるかと心配でしたが、どうにか収まりそうでよかったですわい。さあ、死んだ方々の分まで今日は飲み明かして、うっかり死者が起きてしまうくらい盛り上がりましょうぞ」
そう言うと老人は酒を杯に注ぎ、それをフロンに手渡してきた。盃に毒を塗られていると考えないでもなかったが、それでもよいかと思い盃を受け取った。女神にフラれた上に、酒も回って来たので、少し判断力が鈍っていたのだ。
だが、それよりも、目の前の老人の勧めを受け取らないのは失礼にあたるのではと思い、受け取った酒を一気に飲み干した。
「おお、いい飲みっぷりですな。さすがは新たなる王様よ。あなたなら、この国を導いていき、また良い酒をのませてくれそうですな」
老人はさらに酒を注ぎ、フロンにもっと飲むように勧めた。
「ありがとう、ご老人。あなたもせいぜい長生きされて、いつまでもこの酒を味わってください。来年には今までにない酒ができるかもしれない。次の年には、それを上回る酒ができるかもしれない」
「うむ、結構結構。ならば、進歩と研鑽を忘れぬお主に褒美をやろう。我が神力によって、次の収穫の豊作は約束しよう。その次からはお主の手腕を以て良き実りをもたらしてみせよ。楽しみにしておるぞ」
フロンが注がれた葡萄酒を飲み干した時、老人の姿はどこにもなかった。まるで夢か幻でも見せられた気分であったが、口には老人から注がれた酒の味がまだ残っているし、その言葉は頭にしっかりと残っていた。
酔ったというには、あまりにもしっかりしすぎている。どういうことかと、フロンは少し混乱したが、ある言葉が脳裏に浮かんだ。
「酒杯神エウルは時折、人間たちの宴に紛れ込み、酒を飲んでは歌いだし、良い酒を造りし者に奇跡を起こす」
レウマ国に伝わるお伽話で、国民なら小さいころから誰でも聞かされていることだ。
「もしや、あれがエウル様・・・?
あまりの突然の来訪に、フロンは気付かずに応対したが、そもそも神が人の前に姿を現すことの方が異常なのだ。
もちろん、フリエスという例外もいるが、彼女はあくまで人間に神の力を降ろした半人半神の状態だ。神そのものがやってくるなど、お伽話や神話以外ありえないのだ。
だが、目の前にやって来た。奇跡を喜ぶべきであろうが、フロンの脳裏には狩猟小屋で皆と交わした言葉が蘇っていた。
「人々から神への呼びかけが信仰心となり、それを糧としてかつての力を一時的に取り戻す。すなわち、争いこそ信仰心の源である」
当時の事を思い浮かべ、つい言葉に出てしまったが、同時に背筋に寒気を覚えた。確かに、レウマ国は混乱の渦中にあり、人々はそれが鎮まるよう神への祈りを行った者がいることだろう。それに応える形で神が降臨したのであれば、それは戦と信仰が連動し、さらなる混乱を招きよせるかもしれない危惧が沸き上がって来た。
そうなれば、長らく平穏であった西大陸に、騒動の火種がまきちらされることを、神自身の降臨によって証明してしまった。東西交流は思わぬ副作用を生み出してしまったのかもしれなかった。
(そうだ。よくよく考えてみれば、あのネイロウは混乱を望むだろう。神を超えることをの証明として、神を殺すことが目的とするならば、神を地上に降ろしてこなければならない。だが、神は精神世界にいるので、人々の信仰心を餌にして神を引っ張り出さなくてはならないはず。とするならば、かつての東大陸の再現があいつの狙いか!?)
それは国を平穏に収めたいと思っているフロンには、決して容認できないことであった。東大陸の話はフリエスやフィーヨからよく聞かせてもらっていたので、あれが間近で起こるなどとんでもない話であった。
戦乱を望む者がいる。英雄もいる。魔王もいる。神の降臨も確認された。つまり、かつての再現には条件がすべて整ったことを意味していた。あとは、燃えやすい油にでも火種を放り込めば出来上がるのだ。
そして、フロンはそう考えた段階で、ある名案が思い浮かんだ。危険な賭けではあったが、このまま神や魔王がうろつく世界にするよりかはマシな選択かもしれない。
フロンは大きく息を吸い込み、そして、天に向かって叫んだ。
「エウル様に申し上げる! 改宗の件は取り下げるつもりはございません。かの女神こそ、我が愛と信仰を捧げる存在! “奇跡ごとき”では釣られませんぞ!」
夜空に響く大絶叫だ。宴の会場の方からグラスや皿が割れる音がして、「おいおい爺さん、大丈夫か?」などと聞こえてきたが、フロンは無視することにした。
無論、この叫びがエウルの気に障り、奇跡を取り下げるどころか、力を逆転させて不作にすることも考えられたが、それでは神としての器の小ささを見せつけるようなものである。つまり、一度出した札を引っ込めるようなマネをしてしまえば、自らの威信やら威光やらに泥を塗りかねない行動になるのだ。
なにより、誰よりも酒好きな酒を司る神だ。大陸一の酒蔵を壊すようなことはしないはずだ。むしろ、こちらの関心を買おうと、奇跡の上積みをしてくるかもしれない。
(なるほど、フリエス殿やフィーヨ殿が言っていた通りだな。戦によって神に祈り、信仰心は争いより生まれる。神は供物、贄を望まれる。すなわち、神は戦を望まれる、だな。ああ、畜生め。自由気ままに動き回れる神なんぞ、人の世界には邪魔な存在でしかない。大人しく、精神世界でも、あるいは神殿でもいいから鎮座していればいいものを)
フロンは神に対して煩わしさを覚えてしまった。今までは、祠を綺麗に掃除したり、程々に祈りを捧げたりしていたのだが、それが声をかけてきたり、望まぬお節介をやいてきたりするなど面倒この上ないことだ。
神に一発かましてやると吠えている三人組の気持ちが、僅かばかりだが理解できた。
それ故の信仰の逆用を思いついた。すなわち、西大陸では失伝してしまって名前すら知られていない雷神フリエスの教団を創設し、信仰心をあの小さな女神に注ぎ込むことだ。
信仰心が神の力の源であるならば、人々が雷神フリエスの名を讃えれば、そこに信仰心が生み出され、フリエスもまた強くなるということだ。そうなれば、覚醒することができないでいる神々の遺産を全力で使えるようになるかもしれない。
そうすれば、戦乱の火種をまく危険のあるネイロウを仕留めることも可能だ。
いい考えを提供してくれたと、フロンはかつて讃えた酒杯神に礼を述べた。だが、今より讃える名前は書き変わった。名はフリエス。怒りを司る雷神フリエスだ。
この時を以て、西大陸におけるフリエス教団の誕生となった。信徒は今のところただの一人。だが、一国の主という大きな力を持つ信徒だ。
フリエス教団の創設、後にこのことで世界が崩壊へと突き進むきっかけになろうとは、作った本人でさえ知る由もなかった。
~ 第二十五話に続く ~




