第二十話 狂人
その人物は男性であった。アルコのような老人ではなく、顔には皺一つない。体躯も程よく締まっている。先程まで地べたを引きずっていた長衣が、膝近くまで見えていることから、かなりの長身であることも分かる。
ただ、頭髪に白髪が僅かに混じっていることから齢が中年くらいであると推察できた。
そして、その姿が完全な物になったとき、少し離れた所にいたフィーヨが絶叫し、頭を抱えながら倒れこんでしまった。まるで見てはならない物を見てしまったかのように。
側にいたフロンも慌ててフィーヨに寄り添って落ち着かせようとするが、フィーヨはガタガタと震えだし、何かをブツブツと呟くだけであった。
「あたしを娘と呼ぶな! 狂人め!」
「お前を作ったのは私なのだ。娘と呼んでもかわまんだろう。それとも雷神娘とか、電源娘とか、何かしらの枕詞でもご所望かね?」
フリエスの手から強烈な電撃が走った。口より先に手と雷が出る。これこそフリエスの本来のやり方だが、最近は随分とお上品になったものだとフリエス自身も思っていた。だが、目の前の忌まわしい存在を目の当たりにして、かつての自分を思い出してきたのだ。
だが、フリエスの苛立ちを表する電撃は狂人には届かなかった。手に持つ杖を軽く地面に突き立てると、見えざる障壁を生み出し、電撃をあっさり止めてしまったからだ。
「妙な呼び方をするな! あたしの名はフリエスだ! フリエス=ムドールだ!」
「まったく、とんだ不良娘に育ったものよ。余程、育ての親が悪かったと見える。あの変態に育てられたならば、止むなきことか・・・。それに名前もよな。神に名前を付けようだの、まして神と同じ名をつけようだの、増長も甚だしい」
狂人は少し不機嫌そうに呟いた。狂人はフリエスの養父である《全てを知る者》トゥルマースとは幾度となく戦ってきた間柄であり、それゆえに互いの事をよく知っていた。互いの実力を認めてはいるものの、思考の方向性があまりにも違い過ぎるので、時に侮蔑し、時に冷笑し、時に潰し合ってきたのだ。
「とはいえ、こうして十数年ぶりに再会したのだ。今夜は一緒に飲まんかね? 可愛い娘に酌でもしてもらうのは、父として喜びをだな」
「はん! 神がどうこう言ってる割に、その高みの存在に酌をお願いするなんて、それこそ増長極まることでは?」
挑発とも本心とも分からぬ狂人の言葉に、フリエスはとにかく噛みついた。何もかもが気に入らないからだ。世話になった養父への侮蔑、こちらの神経を逆なでする物言い、言い表せぬ怒りがフリエスには満ちていた。
フリエスは怒りを司る雷神だ。怒りを具現する存在として、今ここにいると言ってもいい。それこそ自身の存在意義だと言わんばかりに。
「それより、どうやって生き延びたのよ! 《苛烈帝》にやられたはずでしょ!」
「ああ。それは間違いない。まったく、ヘルギィの奴め、まんまとやりおってからに。あの隠し玉には正直驚いたぞ。あそこで死ぬ予定でなかったのに、復活に手間取ったわい」
狂人はわざとらしく身震いし、かつての事を思い出した。
あの時、狂人とフリエスと合体していた。合体していると言っても、〈輸魂〉によって一時的に女神として覚醒中のフリエスに入り込み、最も見やすい位置で神に挑む英雄達の苦悩する様を眺めていたのだ。
あの場にいた英雄は《苛烈帝》ヘルギィと《氷の魔女》ミリィエであった。さらに付け加えると、近くには復活したばかりのフィーヨもいた。フィーヨはとにかく巻き添えにならないように隠れて身を守るしかなく、皇帝とその宮廷魔術師の二人だけで神に挑むこととなった。
この二人は二十五人いる英雄の中でも、間違いなく強い部類に入っていた。戦士、魔術師としてならば、どちらも英雄の中では二番手の実力者として名前が上がるほどの力量を有していた。それでも、女神フリエスには及ばなかった。
剣も魔術もフリエスには通じた。腕を切り落とし、頭を吹き飛ばし、心臓も貫いた。だが、女神フリエスは決して倒れなかった。電光と共に即座に復活し、その巨大な鎌で体と命を刈り取らんと振るってきた。
そのまま押し込まれそうになった時、《天空の騎士》ルイングラムが助けに入った。ヘルギィとルイングラムは敵対国同士の皇帝と将軍であり、本来ならばこちらこそ刃を交えるべき因縁があるのだが、狂人打倒を優先した。ルイングラムはかつて狂人によって父を失ったことがあり、狂人に対してこそ恨みがあったのだ。
ヘルギィとルイングラムの二人によって女神を抑え込み、その間にミリィエが狂人を抑え込むための術式を組んだ。〈魂魄停止〉は魂に直接作用し、精神活動を強制的に停止させる魔女が独自に編み出した術であった。
これにより女神フリエスは停止したが、そこで手詰まりとなった。あくまで止めただけで、倒してはいなかったからだ。このまま停止させ続けて、さらなる増援を以て押し込もうとも考えたが、皇帝も魔女も消耗が激しく、悠長に増援を待つ時間はなかった。なにより、フリエスの中にいた狂人が凍った魂を溶かそうと蠢いていたからだ。
元の木阿弥となりかねない状況に、ヘルギィが最後の切り札を出した。それこそ、秘匿してきた神々の遺産《心斬剣》であった。この剣は“刃”の部分がなく、柄だけの剣であるが、握った者の精神力に応じて刃を形成する特殊な剣であった。そして、呼び出した光の刃はあらゆる物理的攻撃力がなく、相手の精神や魂を切り裂くことができた。
これはミリィエを通じて魔王が『物理攻撃完全耐性』のスキルを持つことを知っており、それに対しての切り札となり得ると判断し、その存在を徹底的に隠していたのだ。できれば魔王との対決まで秘匿しておきたかったが、そうも言っていられない状況となったので、遺産を使う時が来たと判断したのだ。
まず、ヘルギィは軽く精神を注入し、短剣程度の刃を形成し、フリエスの魂に寄生する狂人の魂だけを綺麗に切除した。無理やり居座っていた魂が元の体へと強制的に戻されると、今度はありったけの力を剣に込め、狂人をその魂ごと貫いた。
これで狂人は消滅した。〈輸魂〉によって肉体が滅びても魂だけで動き回り、倒すことが不可能のはずの存在を見事に討ち取ったのだ。
「・・・とまあ、こういう感じで話を聞いてるわ。これであんたは魂ごと消滅して死んだはず。なのに、どうして生きてるの!?」
フリエスは現場にいた人々から後の状況を聞かされており、それを聞く限りは狂人が生きて目の前にいることが信じられなかったのだ。魂が消滅しても存在できる者など、神ですら不可能だからだ。
「考えが浅い。なにも切り札と呼ばれる物を持っていたのが、ヘルギィだけではないということじゃ。まあ、正直なところ、念のための保険が功を奏しただけじゃがな」
狂人はそう言うと、指をパチンと鳴らした。すると、目の前の水の塊が現れた。フワフワと宙に浮き、狂人の目の前で漂った。
「これが魂としよう。あのとき、ワシがやっておったのはこういうことよ」
狂人が水の中に手を差し込み、そして、その手を軽く横に払った。すると、水の塊は二つに分かれ、それぞれが別の存在として宙に漂った。
これでフリエスは理解した。殺したはずなのに、死んでいなかった理由を。
「魂を分けたの!?」
「そう。これぞ〈輸魂〉に続く我が秘術〈分御魂〉よ。魂を分けておき、本体の魂が消滅したとしても、予備の魂が起動して復活できるようになっている。まあ、一度に分けられる魂が一つだけなのだがな。あと、情報共有が自動でできないので定期的に本体の方から情報を入れ込んでやらんと、記憶が飛んだ状態で復活することになる。完全無欠の術式ではないが、いざというときには役立つわい」
狂人の説明を聞き、フリエスは頭を抱えて絶望した。ただでさえ、精神や魂を直接攻撃する方法が限られているので、魂だけで活動できる狂人を倒すのは困難極まることだ。それが、予備まで用意され、同時に倒さないと復活するとなると、ますます倒すのが困難になってしまうからだ。
(こいつを殺しきれる手段が、現状ないに等しい。どうやって倒す? 倒したところで、予備の魂の居場所が分からないと、また元通りよ。対処できない)
どうにもできない。それがフリエスの結論であった。怒りと悔しさが入り混じる表情を狂人に向けたが、満足そうに頷いて返され、余計に苛立ちが増していった。
狂人はそんな葛藤するフリエスから視線を外し、今度はセラの方へ向いた。
「さて、魔王殿よ、いかがする?」
「勢いが殺がれた。闘争の空気ではないな」
セラもすっかりやる気をなくしていた。久々に殺し合いができた楽しい一時であったが、とんだ横やりとネタ晴らしですべてが台無しとなってしまった。気付いてはいたが、それでも楽しむためにあえて無視したというのに、何もかもがさらけ出された。
不本意ではあったが、今更どうしようもないので、セラは引き下がることにした。
「ところで魔王殿よ、どの段階で気付かれた?」
セラに向けた狂人の問いかけは、フリエスも気になるところであった。セラはアルコの姿をしていた頃からずっと疑いを以て接していた。フリエスやフィーヨが術式で調べたり、その時々の会話で白か黒か悩んでいるときに、セラの対応は常に黒出しであった。
では、どの段階で気付いたのか。フリエスは直感で正解を引き当てたのに、それをみすみす逃す結果となった。直感で気付けたのも、狂人と深く接してきたからで、フリエスの洞察力が優れていたからというわけではない。
一方、セラと狂人は接点がない。大戦中は一度も顔を合わせていないはずだ。それ以前に会っている可能性はあるかもしれないが、少なくともそういう話は一切聞いていない。にも拘らず、その存在に気付いたのだ。
「まあ、狩猟小屋の段階でおおよそ察したな。確証を得たのは昨日の酒場に入った直後だったがな」
「おお、それは随分と早い。さすがさすが」
狂人は素直に感心し、拍手をした。だが、フリエスには驚愕の事実だった。自分が思考を右へ左へ動かして悩んでいる間に、自称魔王は気付いたうえで素知らぬ顔を決め込んでいたことをだ。
セラは味方とは言い難い存在だ。なにしろ魔王を自称する存在で、常に自分の楽しみを優先する傾向にある。ネタ晴らしによる混乱よりも、秘匿した際の衝撃の方が面白い、そう判断して黙していたのだろう。
腹立たしいが、気付かない方が悪い。そう考え、フリエスは歯痒い思いを受け止めざるを得なかった。
「して、どうして気付いた?」
「最初にお前に尋ねたのは、〈瞬間移動〉とゴーレム作りの件だったな。あれで容疑者名簿の筆頭に名を連ねることになったが、直接的な疑惑はその後のフロンとの会話だ。こう言ったよな、『立派な領主にはなれんぞ』と。後の会話でこの件は流されたが、聞く奴が聞けば違和感を覚えるはずだ。これはフロンと親しい間柄からは決して出てこない言葉だ。事件の裏側を知りでもしてないとな」
セラの言葉を聞き、フロンはハッとなった。フロンは領主の弟であって、領主そのものではない。兄が死ぬか譲位されない限りは、領主の予備的な存在でしかないのだ。今回の事件の裏側を知っていれば、フロンが領主になることは道筋として出来上がっているが、あの段階で出る言葉ではないのだ。なにしろ、コレチェロが殺されたと告げる前の会話であるからだ。
フロンと関係が薄い人間ならば、領主と誤認したりするかもしれないが、アルコとフロンは長年の師弟関係にある。立ち位置や身分を間違えるなどあり得ないし、言い間違えとしてもその後の訂正が一切ない。
つまり、コレチェロの放った捕り手から慌てて逃れたアルコが、絶対に知りえないはずの情報を握っていたことになる。つまり、〈瞬間移動〉とゴーレム作り、事件の裏事情、これらが出た段階で“黒”が確定したのだ。
「昨日、酒場に入った時、色々な種類の酒瓶や樽があったな。あの中に蒸留酒がなかった。これで黒に加えて、東大陸にいた人間であることが確定した。フロン、確か蒸留酒はアルコが開発したって言ってたな?」
「それは間違いありません。十数年前にアルコ師が提案されて・・・、あ」
そこまで思考を進めた段階でフロンは気付いた。アルコが酒を蒸留して、より強い酒を作りだす方法を披露し、皆を湧かせたものだ。試作品として提供された蒸留酒の味も上々で、新たな名物になると蒸留酒作りを始めたのだ。フロンはまだその頃は子供であったが、父が随分と興奮しながら喜んでいたのを覚えていた。
とはいえ、既存の葡萄酒作りもおろそかにはできず、徐々に蒸留用の工房を拡張していく方向になったが、熟成に十年はかかるので、数はそれほどない。その数少ない蒸留酒も贈呈品として周辺国の有力者へ渡し、評判を上げている段階だ。そのため、市場に出回る数はごくごく僅かである。
酒場に蒸留酒が置いてないのはそのような事情があるからだ。
だが、アルコが偽物だとなると話は変わってくる。その時までなかった蒸留酒の技術がいきなり現れたことになり、それをもたらしたアルコの中身は東大陸からそれを持ち込んだことになる。東大陸では蒸留酒は普通に流通していた。研究系の魔術師ならば蒸留くらい余裕であった。
セラは蒸留酒が出回ってないことを確認した段階で、これを疑った。誰かが東から西へと技術の橋渡しをした者がいる、と。そして、黒出ししたアルコの中身は、東大陸出身の凄腕の魔術師というのがセラの中で追加確定した。
そうなると、候補は一人。《氷の魔女》だ。だが、セラは即座に彼女を候補から外した。アルコの中身がミリィエであった場合、その行動があり得ないからだ。フィーヨに突っかからない、ヘルギィについての言及なし、魔女の性格から絶対にこの二点は外せない。これがなかったので、ミリィエではないと確信した。
そうなると、候補がいなくなる。《虹色天使》と《全盲の導師》はともに実戦主体で、研究系ではないので候補から外してある。そうなると、残ったのは《狂気の具現者》だ。すでに死んでいると聞かされていたが、実際にセラが見たわけではないので、生きているのではないかと疑った。
そして、アルコの中身が《狂気の具現者》であると仮定した場合、驚くほど散らばっていた謎解きの欠片がはまることに気付いた。〈輸魂〉を使えば解決できる問題が多く、これが決め手となった。
セラはそこでアルコの中身は《狂気の具現者》であると確信した。
「つまり、東大陸から西大陸への技術伝播。東大陸の凄腕の魔術師。全部の条件を揃えているのが、その男であると?」
フロンはそう結論付けてセラに投げ返した。セラは頷き、返答を肯定した。
「しかしまあ、随分と回りくどい事をするな。どういった意図が?」
セラは再び視線を狂人に戻し、そう尋ねた。いくらでも効率的に動けるし、あるいはさっさと撤収することができるのに、目の前の狂人はそれらをせずに未だに居座っていた。あまりにも話が見えてこないのだ。
「なぁに、新たな世界の幕開けに対しての、私なりの歓迎会だよ。かつての大崩壊で、東西は分かたれた世界となった。一部の実力者だけが渡れる隔絶した世界だ。しかし、今は定期航路開拓によって、誰でも行き来できるようになった。喜ばしい限りだ。諸手を挙げて歓迎し、羽目を外してはしゃぎたい気分だ」
狂人はポイッと杖を投げ捨て、両手を天に向かって突き出した。その表情は心の底から喜んでいるような、無邪気な少年を思わせる顔をしていた。
だが、フリエスにはそんな態度が腹立たしかった。裏に一物どころか、いくつも災厄の種を仕込んでいる男の言葉を信用するつもりはなかった。
「で、本音は?」
「そのうち渡ってくると思っていた。我が愛娘へのちょっとした楽しい催し物よな」
狂人は放り投げた杖を拾い直し、真顔でフリエスを見据えた。何かを伝えようと悩んでいるようであったが、フリエスはそんなことなどお構いなしに怒鳴りつけた。
「ほんと、イライラするわね! あんた、これだけ国を一つ無茶苦茶にしておいて、言うことはそれなの!?」
「まあ、無茶苦茶になったのは事実だが、無茶苦茶にしたのはコレチェロぞ。ワシはあやつに助言はしたが、決断したのはあくまでコレチェロ。そこのところは間違えんでくれ。あ、それと、コレチェロにはすでに正体はばらしておいたぞ。そのうえで、ワシの描いた絵図に乗って来た。個人的な報復に、国の大改造、両方を成すのに最適と言ってな」
怒るフリエスに狂人はあくまで和やかな姿勢を崩さずに述べた。
この狂人の言葉はフロンを絶望させた。兄が自分よりも、アルコを騙る異邦人の方を選択し、国を混乱に陥れたと改めて突き付けられたからだ。
アルコ師はどちらの味方でもない、コレチェロが出した言葉は事実であった。なぜなら、アルコ師はとっくの昔に死んでおり、別人にすり替わっていたからだ。それでも偽物の師の言葉を受け、国と『金の成る畑』を滅茶苦茶にしたのだ。やはり、一言相談してほしかったと、フロンは再び思い悩んだ。
「それと、今のワシがどの程度の実力なのかと知っておきたかった。研究主体でしばらく実戦から遠ざかっておったからのう。あと、羽筆の試験も兼ねてな」
「魔王を物差し代わりに使うとはいい度胸をしている」
そう言いつつ、セラは割と上機嫌であった。フリエスの横やりで強制的に中断することになってしまったが、久々に戦うことの喜びを思い出させてくれたからだ。しかも、自分も相手もまだまだ引き出せる力を残した状態で、あそこまで戦えたのだ。より完璧な状態でお互い死力を尽くせばどうなるか、想像するだけで魂が熱くなっていた。
「ま、おおよそ満足する結果であったとだけ言っておこう。魔王殿は不満やも知れぬが、いずれ第二幕は用意しよう。その時は是非とも主演として参加してほしいものじゃ」
「よかろう、狂人よ。そのお招きに与かるとしよう。だが、下らん脚本を書いたら、二度と筆を手に取れぬ体にしてやるから、その覚悟を以て存分に描いてみせろ」
セラと狂人はお互い納得したのか、揃って大笑いした。その笑い声はフリエスをさらに不機嫌にしたが、この二人はお構いなしだ。
結局のところ、この二人は方法こそ違うが、神を倒すという一点で一致しているのだ。切磋琢磨というわけではないが、目標に向かって互いに高め合うことも可能で、セラにとってはようやく戦うに能う存在の登場でもあった。旅の目的を達成するためにも強くなることは必須であり、それを満たしてくれそうな存在がこうも早く見つかったのだ。笑わずにはいられない。
一頻り笑った後、狂人は軽く会釈してセラに挨拶すると、これで会話は終わりだという仕草だ。そして、杖を地面に突き刺すと、その姿は消え去り、少し離れた位置にいたフィーヨの前へと移った。
「フィーヨさんに手ぇ出すな!」
フリエスは慌てて狂人に向かって電撃を飛ばそうとしたが、フィーヨが近すぎて巻き添えを食らう可能性が高く、撃つのをためらわせた。だが、いつでも撃ち込めるように、手に電撃だけは溜めておいた。
そんなフリエスをなだめるためか、狂人は手をヒラヒラさせて、何もしないということを強調した。
「安心せい。口は出しても、手は出さんわい」
そして、狂人は尻もちをついてへたり込むフィーヨを見据えた。
フィーヨは怯え切っていた。頭を抱え、ガタガタと震え、思い出したくもない記憶が走り抜けていた。目の前の男に連れ去られた事、自分を助けるために兄が犠牲になった事、それらはフィーヨにとって辛く悲しい記憶であった。
その元凶たる男が目の前にいる。兄ヘルギィが倒し、魂ごと消滅したはずであるのに、なぜか目の前にあの時の顔そのままに立っている。どことなく哀れみのこもった表情だ。
「怯え、助けを求め、惑うばかり。あの頃から変わらんな、スヴァの皇女よ。・・・っと、皇帝になって、今は退位していたのだったな。なんと呼べばいいか、フィーヨがよいか、様付けでもしようか、それとも陛下かのう?」
狂人はかつての事を思い出しつつ、フィーヨに語りかけた。
一昔前、流行り病で亡くなったフィーヨを蘇らせるため、その兄である当時の皇帝ヘルギィはミリィエとともに蘇生実験に取り組んでいた。実験自体は成功したのだが、その直後に研究所が狂人の襲撃を受けた。当時は狂人もフリエスへの神降ろしのために最後の詰めをやっており、必要な道具や資料を手っ取り早く手にするため、ミリィエの研究所を襲撃したのだ。目的の物は手に入れ、物のついでに復活したばかりのフィーヨも誘拐した。
自身の研究所に戻ると、程なくしてフィーヨは目を覚ました。復活した直後とあって、生前の記憶がかなりの部分が混濁したり曖昧であったりと、頭が正常に動くようになるまでに数日を要した。
その数日のうちに、フリエスへの神降ろしの術式が完成し、その小さな体に雷神の力を付与することに成功した。
ようやく自身が長年取り組んだ研究が実を結び、早くその威力を確かめたくなった。フィーヨを誘拐すれば、必ずヘルギィが取り戻しにやってくるであろうから、フィーヨの身柄もついでに確保しておいたのだが、ただ待っておくのも暇であるとも考えた。
そうなると邪な考えと言う物が浮かんでくるもので、どうせならヘルギィが怒り狂うよう、目の前の少女を手籠めにでもしておこうかとも考えた。実際、誘拐した少女はとても可愛らしかったし、遊び半分に抱くというのも悪くはなかった。
だが、そこまでしなくてもヘルギィは怒り心頭であろうし、なんらかの交渉材料にもなるかもしれないかと考え直して、客人として遇することにした。
だが、フィーヨは思いの外、手がかかった。ひたすら軍神の名を唱えて祈るか、あるいは兄の名を出して助けを求めるか、そのどちらかであった。何か語りかけようとしても、与えられた部屋の隅でガタガタ震え、ただただ怯えるだけであった。
そして、今もその震える姿はほとんど変わりない。ただ、見た目は少しばかり年を取っていた。出会った頃は十五、六歳であったが、今の姿は二十歳前後といったところである。成長するだけ成長して、全盛期の状態を《真祖の心臓》で維持しているからだ。
フィーヨは怯えながらもゆっくりと顔を上げ、狂人の顔を見つめた。何一つ変わっていない、あの日と同じ顔だ。言葉にするのであれば、その顔は“哀れみ”だ。
「な、なぜあなたが生きているの? お兄様が殺したはずなのに・・・」
「先程、愛娘に話した通りぞ。殺されたが、死んではおらんかった。ただそれだけじゃ」
狂人にはあの日の苦痛は記憶にほとんど残っていない。なにしろ、今の自分は殺された自分とは別人で、分かたれた魂であるからだ。定期的に情報が更新され、順次新しい記憶が入り込んできていたが、本体の魂がやられた後に分けた魂が動き出したが、それに残る最後の記憶はヘルギィが光り輝く刃を自分に突き刺さんとしていた場面だ。そこでぷっつりと記憶が途切れており、その直後に本体が死んだと推察できた。
情報の更新が途切れているし、送られてきた情報も穴が多くて、記憶が曖昧な点もいくつか見られた。それらを修復したり、保存しておいた予備の体に魂を定着させ、体の動きや魔力が戻ったころには、すでに魔王が倒され、平和になった東大陸の姿が狂人の前に広がっていた。
ただ一人、戦乱の空気を帯びたまま、いきなり平治の世界へと戻る羽目になったのだ。これは良くないと考え、まだ見ぬ西の大陸へと渡った。
そして、幸運なことに西大陸に渡って程なくして、アルコと知己となり、さらにその体を乗っ取る好機に恵まれた。表向きは平和な国の宮廷魔術師として過ごし、重臣の相談役や若者らの教師として名声を得た。同時に、魔術師組合や冒険者組合を通じて情報を集め、西大陸にも存在するはずの神々の遺産の行方を追った。
情報もある程度出揃ったところで、自由な時間を増やすべく宮廷魔術師の職を辞し、こっそりと方々を飛び回っていたところへ、コレチェロから謀反の相談を受けたのだ。狂人はこれを利用し、レウマ国にある遺産を手に入れ、また混乱の渦中で自分を殺し、別人の体で国を出ていくことを計画していた。
それが大きく変更となったのは、吟遊詩人ルークの登場によって、東西の航路が繋がったことを知ってからだ。狂人は白鳥にかけられた愛の女神の呪いのことを知っていたので、いずれ天使を追って海を渡り、西大陸を目指すであろうことを予想していた。ルークの登場によって、とうとう東西が繋がったことを知ることができた。
いずれ本命が来ると判断し、歓迎の準備をしていると、そこへフリエスら三人組があらわれたことに狂喜した。久方ぶりに愛娘との再会となったからだ。
そして、事前に買収等で仕込んでおいた情報屋や冒険者に、レウマ国の『竜脈の駅舎』の情報を出させて移動先を誘導し、時機を合わせてコレチェロに決起を促し、フロンを逃がすように手を回し、三人組みと鉢合わせさせた。
はっきり言ってしまえば、狂人の思い描いた絵図の通りの結果となった。フリエス達がいかに足掻こうとも、事前の準備や知り得ている情報量の差が思い切り出てしまったのだ。
狂人としては満足する結果となった。遺産の入手や愛娘との再会に加え、魔王との邂逅によって得られた新たな楽しみ、これはもう大成功と言ってもよかった。
そして、その最後の仕上げ。過去との因縁の再確認をせねばならなかった。その対象はフィーヨ、ではなく側を離れぬ二匹の蛇に対してだ。
狂人が見下ろすフィーヨは怯え切っていたが、その両方の袖口から顔を見せる二匹の赤い蛇は大きく口を開け、今にも飛び掛からん勢いで威圧していた。
「本当に変わらない。あの頃から一向に変わらない。・・・嗚呼、嘆かわしい。お主らのせいじゃぞ、この娘が未だに独り立ちできておらぬのは」
狂人が哀れみを以てフィーヨを見下ろしていた。手を差し伸べて起こしてやってもよかったが、そんなことをすれば二匹の蛇に噛みつかれることは明白であった。さすがに嚙まれることを前提にして起こしてやる義理はない。
「ヘルギィ、そして、ルイングラムよ、お主らが甘やかすから、その娘は弱いままなのだ。少しは離れて見守り、自らの足で歩ませ、自らの考えのままに行動させよ。お主らの人形としてではなく、一人の人間として見守ってやらんか」
狂人の叱責とも嫌味ともとれる言葉が二匹の蛇に突き刺さった。だが、二匹の蛇は特に反応を示すこともなく、威圧を止めなかった。
むしろ、動いたのはフィーヨの方であった。先程の言葉が何よりも大切な二人を罵倒したと認識し、怯えが怒りへと反転した。普段の精神状態ならばこうも激変することもないのだが、今のフィーヨは明らかに冷静さが失われていた。
「軍神マルヴァンスよ、我は汝の忠実なる下僕なり。我、汝の力を欲したり・・・」
フィーヨは倒れて尻もちをついた状態で両手を広げ、それを狂人に向けた。神の奇跡を振り下ろし、目の前の邪悪な存在を打ち払わんとするのは明らかだった。
だが、狂人は一切動かない。ただ、先程同様に哀れみを以てフィーヨを見下ろし、今から放たれるであろう神術を受ける体勢だ。しかも、なんの防御系の術式も出さず、真っ向から受け止めるようであった。
フィーヨはまだ先程のゴーレムとの戦いで受けた傷は癒しきっていない。外傷は塞がっているが、すり減らした神経はまだ回復途中で、消耗した魔力に至ってはまだまだ安静にしている必要があるほど目減りしたままだ。
だが、フィーヨは祈りを止めない。目の前の不快であり恐怖の対象である男に、とにかく一発食らわせなくては気が済まないのだ。
「光り輝く裁きの鉄槌を今ここに! 不浄なる者を打ち滅ぼす力を示せ!」
軍神への呼びかけが天へ通った。はるか上空から強烈な光が降り注ぎ、フィーヨが手をかざすその先、狂人に突き刺さった。まるで滝に打たれるがごとく、光が次々と狂人に覆いかぶさっていった。
フィーヨが使用できる最強の神術〈軍神の投槍〉であった。万全の状態ならば、防御態勢をとっているセラにすらダメージを通せるほどの威力がある。もっとも、魔王たるセラに言わせれば、「火にかけた鍋をうっかり素手で掴んでしまった」程度であるが。
眩い光が周囲を覆い、フィーヨの近くにいたフロンなどは目を覆わねばならぬほどの強烈な光であった。
フリエスは目を光でやられないように目を瞑りながら、急いでフィーヨに駆け寄り、そして、その肩を掴んだ。
「フィーヨさん、落ち着いてください。それ以上消費すると、連れていかれますよ!」
フリエスは抑えめにしながらフィーヨに電流を流した。それに驚いたフィーヨは術を止め、そのままフリエスに体を預ける格好で倒れてしまった。
神は生贄を望まれる。捧げた供物がそうであるが、その供物は神の信徒たる神官の場合もある。最期を迎える瞬間の祈りこそもっとも強力であり、それこそ神が思わず奇跡を起こしたくなるほどに強い信仰心がそこに生じるのだ。
自己犠牲こそ最大の献身であり、神が望まれる信徒の姿なのだ。
例え自身が滅ぶとも、目の前の邪悪な魔術師を打ち滅ぼす。その願いが神に届き、不足していた魔力を信仰心で補った。献身的な自己犠牲、今のフィーヨはそこへ半身を突っ込んだ状態であったが、フリエスが慌ててそれを呼び戻したのだ。フィーヨが神の御許へと旅立ってしまわないようにと。
だが、無慈悲な現実が突き付けられた。光が収まってみると、狂人は涼しい顔で立っていた。顔はもちろん、衣服にも一切の汚れも傷もない。全くの無傷であった。
「やれやれ、君は大いに勘違いしておるぞ。ワシは不浄なる命を持つ不死者でもないし、邪神の穢れが刻まれた魂を持つ魔族でもない。ただの“人”だ。魂で動き回れ、体を乗っ取ることができようとも、ただの“人”なのだ。その術式では傷一つ付けることはできんぞ」
諭すように語りかける狂人であったが、その言葉の内容を認めたくないフリエスが見上げながら睨み返した。
先程、天より降り注いだ光の鉄槌は、不死者や魔族に対しては致命の一撃と成り得る程の威力があった。現に、かつての大戦でフィーヨは先程の神術によって、魔王軍の幹部に対して致命の一撃を与えたこともあった。
だが、目の前の狂人に対しては一切の効果がなかった。人に対しては眩しいだけの一撃だが、邪神に魂を売ったり、悪事に手を染め続けた者、すなわち魂に穢れがある者にはそれなりの効果がある。それを防御もせずに無傷で凌いだということは、目の前の狂人は悪ではなく、中庸であると神がお墨付きを与えたようなものであった。
それはフリエスにとって認めたくない事実であった。
「あれほどのことをしていながら、なぜ人でいられるの!?」
「当然、ワシが初めから人であり、人であることを止めてはおらんからだ。不浄の命を以て永遠の時を得た不死者ではない。強大な力を得るために邪神にへつらう者でもない。だからと言って、神を気取るつもりもない。神なんぞクソ喰らえじゃ。ワシはどこまで行こうとも、人であることを止めはしない。お前を・・・、神を作ろうとも、ワシは人なのだ。世界に縛られた人形ではない。人のまま生き続けようとも。この世の終わりまでな」
狂人はきっぱりと言い切った。だが、フリエスには理解できなかった。誰も理解できないからこその、《狂気の具現者》なのだ。
フリエスは震えた。理解不能、知覚の範疇外、自分の及ぶべきもない存在が今、目の前に間違いなく存在するからだ。
~ 第二十一話に続く ~




