雷神娘と黒鉄の人形 序
目の前には大海原が広がっていた。どこまでも続く水平線が雄大なる海の広さを見せつけ、時折耳に入る海鳥の鳴き声がなんとも心地よい。岸から程近い所に浮かぶ漁船が網を揚げており、その遥か沖合いには商船と思しき大船が行きかっている。皆、海よりの恩恵を受け、日々の糧を得ているありふれた日常の一幕だ。
しかし、この母なる海を忌々しげに眺める者がいる。それは人ではない、“白鳥”だ。
“白鳥”はこの目の前の海を渡ろうと考えていた。水平線の遥か先、西の果てにはこことは違う別の大陸があると言われている。そこへ、“白鳥”は赴きたいのだ。
渡海したい理由はただ一つ、愛する者を追いかけたいからだ。
“白鳥”と彼女の出会いは二十年近く前に遡る。“白鳥”の住んでいる村の近くには湖があり、そこの湖畔で羽を休めている彼女に出会った。文字通り、彼女は羽を休めていた。なにしろ、背中に翼を生やした天使であったからだ。
あまりの美しさに、“白鳥”は一目で心を奪われた。陽光に照らされて光り輝く波打つ金髪、空をそのまま溶かし込んだような澄んだ碧眼、上質な大理石を彫り上げたのかと思うような滑らかな肌、そして虹色に輝く翼。芸術品、などと易い言葉にするのも憚られるような美しい存在。この世を作りたもう神の御業に感謝を述べたい気持ちでいっぱいであった。
“白鳥”は高鳴る胸の鼓動を抑えられず、出会ったその場で、天使に求婚をした。勢い任せの若気の至りであるが、“白鳥”の率直な気持ちの表れであった。
そして、天使はそれを条件付きで受けた。その条件とは“自分を捕まえてみせる”ことだ。
当然白鳥はそれを受けた。その日からずっと二人の追いかけっこは続いている。
だが、彼女を捕まえることはできなかった。どこへ行こうと追いかけた。どこまでも追いかけた。魔王が復活するなどということもあったが、構わず彼女を追いかけた。魔王を倒した後も追いかけようとした。そうしているうちに、彼女はいなくなっていた。
魔王を倒した天使はそのまま行方知れず。“白鳥”が聞いた話によると、天使は海を渡って、西の大陸へ行ってしまったのだという。
それを聞きつけた“白鳥”は海を渡る準備をした。だが、止められた。
止められた理由はある。今、海を眺める“白鳥”の背中には、数えることもできないほどの多くの人々がいたからだ。“白鳥”は王にも等しい立場となっていた。天使との追いかけっこ、魔王との戦いの日々、それらが“白鳥”を強くし、そういう“余計”な立場を手にすることになってしまったのだ。
そのような肩書きなど、“白鳥”には不要であった。もし、その程度の肩書きで天使が振り向いてくれるのであれば、いくらでも背負いこもう。だが、現実はそうではない。“白鳥”の追いかける天使はいない。王だなんだという肩書きなど、天使は魅力にも感じていない。だから、自分の前から平然と姿を消してしまったのだ。
金貨や宝石と山と積み上げようとも、天使は見向きもしてくれない。どれだけ権勢を誇ろうとも、天使は関心を示してはくれない。ならば、“白鳥”にとってもそれらは無用の長物だ。そんなものより、ただの一度の抱擁と口づけの方が遥かに心を満たしてくれる。
捨ててしまえば楽になるだろう。望んで手にしたわけではないのだから。それでも“白鳥”は悩んだ。すべてを捨てて追いかけるのが正しいのかどうか、と。
もし、立場を捨てて、天使を追いかけたとき、あの麗しの君は何と言うであろうか。立場を忘れ、人々を見捨てた無責任なる愚か者として、なじってくるかもしれない。
あるいは、このまま天使が戻ってくるのを待つべきだろうか。だが、それではいつ来るか分からない。なにより、どこまでも追いかけると述べながら私に対する情熱はその程度か、と蔑んでくるのかもしれない。
“白鳥”がどちらを選ぼうが、道は閉ざされている。縁を司る愛の女神のなんと残酷なることか! 愛する者への道筋を閉ざしてしまう神など、さっさと滅んでしまえばいいのに!
神への呪詛は尽きないが、そう悩んでばかりいられないのもまた現実の辛いところだ。呪詛を吐いたとて、状況が改善するわけでも、天使が舞い降りてくることもないのだから。
ならばと、“白鳥”は自身の想いを手紙にしたためることにした。千の文字を綴り、万の言葉で語ろうとも、とても足りぬ愛する者への恋文だ。“白鳥”は一心不乱に手紙を書き記した。
書き上げたそれを丁寧に封をして、それを皆の前で天に向かって掲げた。
「海を渡り、麗しの君へ手紙を届けてほしい。危険を伴うだろうが、どうか頼む」
自分で渡しに行けないことの、なんと歯痒いことか。“白鳥”はそう思うたびに今にも自分で飛んでいきそうになるが、皆の前ではさすがに立場に相応しい態度をとらねばならぬのだ。
そして、一人の少女が進み出て、“白鳥”から手紙を受け取った。
一人で行くのはあまりに遠いからと、次に蛇が進み出て同行する旨を伝えてきた。血を溶かし込んだような真っ赤な蛇だ。
さらに少女は灰色の狼を引っ張ってきた。これも一緒に連れていくと言うのだが、狼は明らかに嫌そうな顔をしていたが、そんなことなどお構いなしだ。
さてさて準備は整ったと、“白鳥”は海に向かって水平線まで届きそうな大きな声で鳴いた。天使の下まで届けばよいが、そんなことなど無理であろう。だが、代わりに海が返事をくれた。
大きな鯨がやって来た。何度か潮を噴き上げながら、白鳥の目の前まで泳いできた。
少女と蛇と狼は鯨へ飛び乗り、“白鳥”やその他大勢が手を振る中、大海原へと躍り出た。目指すは生きて帰った者のない西の大陸。そこに何が待ち受けているのか、誰も知る由もない。
~ 次話に続く ~