現象nの揺籃
––––––『現象』。
空間に張り付いたノイズの様なそれは、全ての人に見えるものではなかった。匂いはなく、触れるとまるで液体の様ななめらかな肌触りと、ぬるま湯ほどの暖かさが感じられる。現行の物理学理論で説明の付けられないそれは、条件を満たさなければ知覚されない性質のおかげで未だになりを潜めていた。
私が現象について知ったのは、ある青年の依頼からだった。
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「よくわからないものが見える。誰にも信じてもらえない」そう、何かに怯えた様な様子で青年は言う。
口角に力が入らず表情が作れていない。焦点の合わない目を地面に這わせ、まるで監視されているかの様にそわそわと縮こまっている。まるで見世物小屋の小動物の様だ。
『......病院での集団失踪事件から一週間が経』––––––消し忘れていたテレビをぶつりと消すと、青年は窮屈そうにお礼を言う。
ニュースは、不安を掻き立てることばかりを報道する。そうすることで世論を操り、利権を手に入れているのだ。言葉には一つ一つ作為が織り込まれ、それらが積み重なって言霊となる。醤油を取ってくれ程度の裏は大それた結果を生むことはないが、それでも人が人を動かすにあたってこれほど効果的なものはない。眼前の青年は、まず、信じる事を要求している。人を根底から覆そうとしているのだ。
悪戯だと思った。あるいは彼が精神を病んでいるかだ。
ここは私立探偵とは名ばかりの何でも屋だ。退職後の暇つぶし、そんな浅い考えで設営された事務所には、ろくに仕事もありはしない。自分の親くらいの年寄りに頼まれて電球を変えに行ったり、いなくなったペットを探し回ったり、そんな依頼がたまに起きるかもしれない程度の、そんなものだ。
普段から犬猫鳥を追いかけ回している中年など威厳のかけらもなく、悪戯は少なくない。
今回もそれだろうと高を括った。
青年は話を続ける。
「あそこの裏山には............見に来てくれませんか?」
彼の言葉には何の具体的な説明もなく、ついてゆく道理はなかった。
信じる必要はない。きっと青年に騙されてここを出たところで、皆で笑い者にでもしようという魂胆なのだろう。彼は集団いじめで餌の役割を背負わされて、ここにいるのだ。そうに違いない。
姿で差別をする人種は子供の頃からいる。これでは推理とは言えない偏見、しかし疲れていた私にはどうでも良いことだった。
乗ってやるのも、いいだろう。真実も見えない自称探偵を釣ることで、彼はいっときの平穏が得られる。私も痛む様なプライドはない。世代差がそのまま反映された情報格差、それに少しの足腰さえあれば、私の仕事は事足りる。探偵という仰々しい名を名乗る道化師であっても何の問題もないのだ。
私が黙って頷くと、青年は事務所の入り口へとそそくさと歩き出した。
前金の話でも振った方がリアリティがあっただろうか。
青年の背中には緊張が張り付いている。擬似餌は硬く、とても生きている様には見えないものだ。そして、糸越しに伝わる不自然な生の脈動に釣られた獲物が、鋭い針の生贄となる。
役割は完成する。そしてそのとき、私は水のない空へと初めて飛び立てるのだ。
笑えばいい。それだけが、釣られた魚への最大の賞賛なのだから。
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予想の反面、裏山までの道のりで何かが起こることはなかった。
青年は変わらずに固まった体で歩みを続け、私はそれを追った。不気味な感覚だった。普段から活気を感じる場所というわけではなかったが、塀の上で見かける野良猫の気配すらもない道は、生気なく静まり返っている。
ここは、もう死後の世界なのではないか。ふとそう思う程に、静寂はねっとりと張り付いていた。
生きている以上、我々は死を知ることは出来ない。そしてそうであるからこそ、我々は自らが死んでいないということも理解できない。もしかしたら、今この状態が死なのかもしれない。そんな疑問に、我々は妥当な解を与えることはない。死は生の対偶にあり、もはや判別の不可能なところにある。
理解もまた、同じところだった。
「ここです。見えませんか? 何か黒いもやの様な......」神経質に辺りを見渡しながら言う青年は、廃屋を指してそう言った。
生憎私は寺生まれではない。幽霊かなにかを見る力もなければ払う力も持たない。そして今、探偵の殻を脱ぎ捨て道化師として生まれ変わろうとしている身だ。真実を見る力も捨てようとしている。いや、真実を見ようとする力、だろうか。
「あー、これね。見える見える。これはなんだろうね? すごいなあ」私はどこか脱力しながら大袈裟に言った。その方が間抜けで良いと思った。二番目の餌は作為に吊られながら、滑稽に跳ねていた。
矮小で盛大に踊ってやろう。いかにも知ったかぶりをしているものの様な演技を。プライドのなくなった大人の醜態を。私たちをここまで導いた観客どもに、見せてやろうじゃあないか。しかしいじめは嫌いなので、顧客リストくらいは作らせてもらおう。
私は実在する虚構を見据えた。ただそれだけの動作で、真空は透明な何かに変質し、そしてだんだんと色を持ち始める。演技は演技であってはならない。妥当性を受肉し、真実味をもって現実へと混ざる必要がある。それは甘いものではない。
私は喝采を期待した。下校中の子供が死にかけの蝉に向けた視線の様な嘲笑を。若者が孤独な老人に向けた差別的な哀れみを。自分たちはまだ高みにいるという安堵を。潜在性に胡座をかいているその姿を。そしてその時に私の生き餌としての役割もまた完成するのだ。
しかし、現実はいつも私の予定などは理解してくれないものだった。
私は目を見張った。
視界が突然崩れ落ちた、と、そうとしか言いようのない何かが瞳を塞いでいた。ブラウン管のテレビを眺めていると画面が乱れることがある。電波がうまく受信できないとき、その部分の情報が欠落するのだ。そして、全ての番組を終えると電波は止み、翌日の電波を受け取るまでテレビは砂嵐を映すのだ。
私の視野はノイズと欠落を見た。そして、それは私の目ではなく空間側に存在したのだ。これまで一度も確証が得られる程の超常を凝視したことのない目が、不可解な景色の斑点を見据えていた。一人なら幻覚、しかし、共有されてしまえば真実性を孕み、生物の一部となる。
よくわからないものが見える。青年の言葉に嘘偽りはなく、そこには純粋な不条理だけが張り付いていた。
私は青年の方へと振り向いた。一瞬前まで青年の立っていた虚空には、忽然と消失した彼の姿があった。私の視線は空振り、当てもなくぼんやりとした背景に吸い込まれる。
––––––一人なら幻覚。
––––––或いは、彼は精神を病んでいるか。
狂ってしまったのは、私の方なのかもしれない。
廃屋に巣食った砂嵐は、真実を捨てたものを歓迎するかの様に揺らいでいた。
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「現象」を視認する様になったあの日から、私の日常は代わり映えしなかった。
驚きもあった。孤独な廃屋からの帰路は、青年の背中を追っていたときとは変わり果てた繁雑な様相を呈していた。現象は廃屋だけのものではなかった。それまで当たり前に明瞭であった視界は、散見される現象をありありと捉える様になった。触れると僅かに暖かいが、そこに掴めるかの様な手応えはなかった。
道ゆく人はそれが見えていない様で、いつもと変わらぬ未知なき道を何食わぬ顔で歩いている。私もつい先ほどまでそちら側だった。そして、今は違うのだ。手を伸ばせば触れられる距離の隣人が、絶望的なほどの断崖に隔てられている様な気さえした。もちろん私は谷底側だ。
知らなければよかったと思った。知るべきでないことはこの世にいくらでもあった。操作可能性を持たないものはその最たる一例だ。手応えの得られないものを、人は無力で受け入れる。それによって受容した感情が幸福へとつながることはない。小さな事柄ならば、それは反発するまでもなく現実の一部となる。例えば死が必然で、不死を望むことが不健全である様に。
今ならまだ、狂人は一人だ。強靭な忍耐力を持ってすれば、息を殺し自然に振舞うこともできよう。簡単だ、見えないフリをするのだ。何故なら狂っているのだから。見えるものを見えないと思うことも、狂気の備えた権能の一つに過ぎない。これで何もかもが自然に戻る。不自然は二つかけると自然になる事もある。丁度、負が二つ揃っていたのだ。
そうして私は代わり映えのない日常へと凱旋した。見たくないものに蓋をして、視界の端をちらつくそれらを私は盲点と呼んだ。そろそろ歳だ。体に焼きが回ってきたのだ。その根拠を材料に過去の退職を合理化し、私はこの日常を謳歌することに決め込んだ。
それでも、気付きは積み重なってゆく。現象はこの世界の至るところに存在するのだ。目を瞑ろうが耳を塞ごうが、否が応にも知ることは増えていった。その流れは自然の摂理であり、現象もその原則からは逃れられない。
逃げ出したペットを追う最中、私は何度も現象と衝突した。手応えのないそれは私の体をすり抜けて、まるで私が透明であるかの様な錯覚を覚える。しかし、そんな綺麗なものではない。この手応えのない日常から最も逃げ出したがっている私が、日常から逃走したものを捕まえる側になっているのだ。
––––––私は逃げられないというのに。そんな腹の奥に幾重にも織り隠した慟哭が動物には良く聴こえる様で、あの日以来、彼らは私の腕の中で暴れもがく。昔は良かった、そんな憧憬に浸ることを許すほど、彼らは大人しくしてはくれなかった。記憶の可塑性を無理矢理ねじ曲げて。生まれた亀裂は全て私だった。
世界は変わってしまった。私が変わってしまった。いや、それは厳密には違う。変わらないものはない。変わってしまったと感じることは、私と世界の距離が遠くなってしまったということなのだ。
関係性の不変を信じていたツケは、心の痛みをもって、粛々と精算されている。
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私の知る限り、という枕詞を前提に整理しよう。
現象は乱れた映像の様なノイズの姿をしている。至るところに存在する。法則は見出せず、不規則な配置、形状をしている。拡大する事も縮小することもなく、発生や消滅もしない。空間に張り付いている様であるが、地球の自転等の影響を受けないことから、厳密に空間を参照しているわけではないのだろう。或いは、我々の思う空間とは違う形式で存在しているということも考えられる。触ることは出来ないが、液体の様な触感を持つ。これは余韻の様なものであり、実際に手に付くということはない。匂いがないことも分子の放出が見られないという点で共通する。根本的に存在している次元が違うのだろう。僅かに熱を感じるが、温度計はそれを検出できなかった。また、デジタル媒体にも写るが、それを写っていると確認できるのは、やはり私だけの様だった。
それは、私の幻覚として結論付けることが、最も合理的な状況だった。あの日以来、依頼に来た青年を見ることもなく、全てが白昼夢であったかの様にすら感じられる。あの青年など最初から実在しなかったのだ。私は脳の障害を発症し、ひとりでに裏山の廃屋へとピクニックに行き、ある妄想に取り憑かれて帰ってきた。それだけなのだ。
世界がおかしいのか、私がおかしいのか。規模と整合性を編み合わせて繋がった構想は、私に非を求めることの方がよほど楽であるという結論だった。
世界の異常ではない。私の精神に根差した問題であるのだ。
私は違和感に埋没することで、自由を得ることを選んだ。
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過ちは、放置されれば消えるものではない。幻想が幻想であるのは、同時にそれが境界線で崩壊と隣接しているからだ。永久に壊れない幻想は、ただの事実と何ら変わりない。いや、区別が不可能という方が的確か。
私の幻想が完全に打ち壊されるのは、思い出も日常も何もかもが風化しかけたころだった。
「この青年に見覚えはないだろうか?」
警官はそう言って、あの、見覚えのある青年の写真を見せる。
私はまるで意表をつかれたかの様に目を見開いた。嘘にはいずれ現実が踏み入ってくることを知っていながらも。
あの青年は実在したのだ。彼は私の妄想ではなく、実在する人間だったのだ。私は震えた。それは安堵ではない。再び混沌の渦中にいることを思い出した恐怖からだった。狂っているのが私であるのなら、私は私の手綱を握るだけで、安全を手にすることができる。しかし、狂っているのが世界であったのなら? つまり、「現象」は実在する。
未知の恐怖は、今もなお私の肌を舐め回すかの様に走っている。
とはいえ、突然取り乱すわけにもいかない。つとめて冷静に私は答える。
一月ほど前に依頼に来たが、途中で姿をくらましてしまった。彼になにかあったのか? 私は何に巻き込まれたのか? 現象については伏せて、概ねこの様な筋の話をした。
見て見ぬ振りをする時代は、もう既に終わりを告げていた。私の耄碌を問題視し、思考停止に永住することは許されなくなっていた。怯えた青年の姿が、より巨大な策謀の渦を示唆している。私は現象、ないしその震源とも言える彼について知らなければならない。それがたった一本の糸であったとしても、今度はそれを掴んで手繰り寄せるだろう。ぷつりと切れてしまわない様、慎重に。
警察は守秘義務を鉄格子の様に立てながらも、その隙間を縫って話せるだけの話をしてくれた。隠し事はお互い様だ。彼らが言うに、あの青年は失踪した治療中の脳障害者だったそうだ。目撃証言があった為、彼らはこの辺りの一軒一軒に聞き込みをしている様だった。
私も私立探偵という職務を傘に捜索の手伝いを提案すると、快く承諾された。おかげで青年の写真が手に入ることとなった。
再び、現象によって欠落した空と私は向き合っていた。思えば真実を捨てたその瞬間から、全てが狂い出したのだ。私がこれから見るものは、現象でも狂気でも、ましてや真実そのものでもない。真実へ向ける誠実性。探偵とは、遠回しにそういう定義に成り立っている。
急がば回れとは、よく言ったものだ。
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現象について調べるにつれ、分かったことがある。現象は、ある条件を満たした人間にのみ知覚される。
その条件はシンプルだった。
––––––現象について知っている。
しかし、それは認知しているというだけではない。信じている、ということが鍵であった。
私はあの、現象が特に多く巣食っている廃屋をオカルト写真としてインターネットに投稿した。結果は、廃屋に数人の人だかりができるほどのものだった。その中に混ざり、観察をする。霊障だのなんだのと現象の呼び名はバラバラであったが、彼らが同じものを見ていることは確かだった。
人には予め見えるものが決まっている。いや、認識の過程で世界は人の知る姿へと歪曲されるという方が正しい。可聴音、可視光線。ありのままの世界を知ることはなく、常に人智の中でしか知覚を許されない。人間性や感情だって、人が知覚する対象の一つだ。大自然の理不尽を擬人化
することによって、神は生まれた。故に神の実在論は、常に人為的に歪められている。
では、その認知機能が後天的に変わることはあり得るのか。先天的に与えられた我々の世界に、異物が混入する。未来永劫を約束していた四次元座標が、より高次元の干渉によってレールを外れる。そんなことが許されるのか。誤った二分法、許す許さないの命題の主語は、果たして原始的な神であった。
つまり何が言いたいのかというと、この世は矛盾だらけだった。そして、だからこそ美しいとも言える方程式の解へと、真実は収束してゆく。人は不明瞭には相入れない。
目を増やした私は、手札を着実に増やしていった。そして、その全ての公約数は、あの半年ほど前に集団失踪事件を引き起こしたあの病院を指していた。青年は失踪者のうちの一人だったのだ。
心を支配していた混沌は晴れ、私は一つのきっかけを思い出した。私をこの渦中へと引きずり込んだのは、真実が人を救うという瞬間、それそのものであった。
怯えた子供を助けるのは、大人の役目だ。その輪廻が、社会を運営する。秩序だけでは社会は腐ってゆく。
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その病院の現象量は、筆舌に尽くし難い様相を呈していた。遠巻きに見えるものは、砂嵐の箱。そこだけが世界の材料を打ち切られたかの様に、黒と灰色の連鎖を残していた。壁は最早、窓の認識すらも許さない表面の乱れ。ここが全ての震源地であることは、想像に難くない。入り口を探すこと数分、その間壁に衝突した回数は三十にも及ぶ。結局その中に入ることができたのは、応援を依頼した知り合いの刑事が到着してからだった。
「なんでよりによって目がよく見えない日に来たんですか?」若い刑事は呆れた口調で漏らす。その吐息には疲労の色も含まれていた。そして、私の腕を取りながら、病院の中へと私を誘導する。勿論、彼は現象についてはまだ何も知らない。私は眼科でもらった薬の副作用ということにして、この状況を誤魔化したのだ。少し申し訳なく思う。
「いやー、すまん。主治医には言われていたんだが、正直侮っていた。どうしても早く調査したかったんだ、許してくれ」何も見えない視界に現象由来の生暖かい空気を感じながら、私は笑った。彼の目も、きっと生暖かい視線を私に向けているのだろう。
「一応、現場は事件が発覚してから保存されています」
「今はどこにいるんだ?」
「待合室......ってそんなこともわからないのに来たんですか? 本当に来る必要あったんですか?」
「まあ、そう言うな。目以外の感覚器は寧ろ鋭くなっている気さえする......探偵の嗅覚が真実を求めているんだ」
「でぃて、くてぃぶって......本当にお若い感性をお持ちの様で......。先輩方から聞いた噂を今痛感していますよ。外来語に凄い被れ方をした奴だって」
旧友たちにどう思われていたのか、今更になって知ることになる。
「......とにかく、失踪した青年のカルテを見に行きたい。そこにつれて行ってくれ」
私の指示で、彼は動く。権威という上位層プロトコルは人を部品として操ることに優れている。彼は今、一人の人間である以前に警官であり、盲導者の役割を与えられている。文明において一人の人間が役職に先立つことなど、余程の人間力がなければ許されない。人間的な温かみも、機械的な契約をもってはじめて成立するほど、一人の人間は社会に隔離されてしまった。
「はい、すぐ前一メートルほどに階段がありますから、気を付けてくださいね」
介護される年齢、私はまだだと思っていたが、そう遠くではないのかもしれない。私は彼の肩を借りながら、ゆっくりと階段を踏み締めた。
なんやかんやあって青年のカルテを発見した。その過程には多大なる二人三脚的な失態があったことは言うまでもない。持ち帰るかを提案されたが、いちいち往復するのは面倒であったため読み上げてもらうことにした。幸いにもカルテは日本語で書かれており、彼にも読める様だった。最近の病院、特に大病院は、患者のプライバシーよりも情報伝達を優先している様だ。
「幻覚、幻聴、それぞれ数種類のものを持っていたらしいですね。脳の知覚統合機能の異常とよく似ているとか。道を歩くこともままならないほどの病状なのに、失踪後に目撃証言があるんですよね......おかしいな。白い線に、赤い球体、黒い斑点、意味不明な音......他にも......」
その瞬間、私の頭の中で爆発が起きた。そうとしか言いようのない衝撃とともに、新たな知覚が世界に繋がっていった。反射的に彼の言葉を止めたが、間に合わなかった。
脳裏に、これまで経験したことのない感覚が響いた。理解できない情報群の裏に、外側の作為が蠢いていた。
その日の、いや、全ての調査は終わりにして帰ることにした。私にはどうすることも出来ない。はっきりと理解できた。付き合わせた彼には悪いことをしたと、もうどうにもならない頭で反省をしていた。終わりを避けられないということが絶対の事実だとしても、彼の最期を早めたのは、紛れもない私であったからだ。
そうだ、知ることで見える様になるものが一つだとは限らない。範囲すら未定である既知の外は、無限の未知に他ならない。私の帰路は今まで以上に煩雑で、絶望的なものへと塗り変わっていた。
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あの病院で私を牽引してくれた彼が脳障害で入院したとの知らせが入ったのは、それから少し経ってからだった。
日付で表せば地続きであっても、世界は絶望的なほどに遠くへと変動した。今なら天動説を信じることも罪にはならないだろう。それほどに世界は混沌一色に染め上げられた。
世界の各地で現象を目にするものが現れ、そしてそれをメディアが報じた。それがどんな結果をもたらしたかは、想像の通りとなる。我々の住む世界は、醜い「現象」の特産地になったのだ。
かく言う私も、その黎明に立ち合い、二つほどの新たな現象を貰ってしまった。メディアがそれでは、何も叶わない。今日では知ることは恐ろしく危険なこととされ、皆の目は曇ってしまった。人々は新たな発見を恐れ、目を瞑り口を閉ざす様になった。テレビは砂嵐を見せるだけの物言わぬ箱になった。インターネットは人類の新たな居住地になりそこね、未開のまま閉鎖された。今では外出も発見を孕む危険な行為とされ、街は空洞と化した。必要最低限の食糧自給が、政府の最大にして唯一の仕事だった。
もう既に、「現象」は異常ではなかった。その名を冠するのに相応しいものがあるとすれば、それは正常そのものであった。
私は考えていた。青年は何に怯えていたのかを。発見の気配から来る脳裏の警鐘は、既に他の現象たちにかき消されていた。もう歯止めがきく状態ではなかったのだ。
彼は最初から、我々が元いた世界を殆ど知覚できない状態にあった。それなのにこの事務所を訪れ、私を現象まで導いた。そして現象に視覚を阻まれた私は、協力者に介護されながら目的を完遂した。
彼は常に目を気にしていた。私はその対象を、人だと勝手に思い込んでいた。しかし現象に意識を劈かれた今は、常識などあってない様なものだ。そうだ。勝手にルールだと思い込んでいただけなのだ。
新たな神経が繋がると共に、意味不明な音の群から意思を感じ取れる様になる。彼を操っていた人形師との交信が開始されたのだった。
異次元の生命は、私の命を天秤に乗せて指令を見せびらかした。彼らは混沌に生息し、区別という明文化した意識を破壊することで住居を得ているのだ。私も青年と同じ立場になったと理解した。青年は最期に抵抗したことによって消滅したのだということも、この胸の中でありありと感じることができた。この理解が人類の最後の命綱にして、本体だった。この糸を彼らがぷつりと切ることで、我々は意識という世界との繋がりを失い、死と同じ場所へ行く。
週末は、海に行きたい。全ての命が生まれた場所に、唯一の泉源に。
私はまた、白くなりたかった。
何とは言いませんが、ルビがたくさんあるSF小説を読みました。影響を受けました。
......我ながらいくらなんでも単純すぎる。
しかし、我々が感じ取れないものは確かにこの世に存在します。そして、もし我々の認知形式のその全てを素通りする何かが意思をもっていたとしたら......。まあ素通りするので影響力もなく、怖がる必要もないのですが。