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婚約破棄から始まる復讐の結末

作者: 上田 成

 カーン、カーン、カーン。

 曇天の空の下教会の鐘が鳴り響き、葬儀が終わったことを告げる。


 子爵家令嬢が亡くなったというのに棺だけが運び込まれ、身内すら参列しなかった葬儀を哀れに思ったのか、老齢の神父が真新しい墓石に祈りを捧げている。

 墓石に刻まれているのはルイーゼ・エルモア、享年16歳という文字。

 レッドブロンドの髪にアクアマリンの瞳だったという花も盛りの年頃の令嬢の死因は、突然死ということにされていた。

 祈りを終えた神父は痛ましいような表情を浮かべると、教会の講堂の方へ戻って行く。

 曇天の空には徐々に風が吹き始め、嵐の兆しを見せていた。


 ◇◇◇



「貴女とステファンの婚約は破棄しますから」


 月に一度の婚約者とのお茶会に訪れたルイーゼは、挨拶早々彼の母親であるセイバン元伯爵夫人から言われた言葉に頭が真っ白になった。

 伯爵邸のエントランスで立ち尽くしてしまったルイーゼに夫人が誇らしげに続ける。


「ステファンは侯爵家へ嫁いだ私の姉の娘と婚約することが決まりましたの」

「そ、そのことをステファン様は承知したのでしょうか?」


 伯爵邸に来るといつも出迎えてくれるステファンがこの場にいないことに不審を覚えたルイーゼが震える声で聞き返すと、夫人は不快げに眉を顰め声を荒げた。


「当然でしょう! 従妹とはいえ侯爵家のご令嬢と婚約できるなんて大変名誉なことなんですから。ああ、慰謝料ならきちんと支払いますわよ。子爵家では到底考えられないような額を支払ってさしあげるわ。それなら不服はないでしょう?」


 ルイーゼの地味なドレスを見て侮蔑したように吐き捨てた夫人の物言いに思うところはあったが、ルイーゼはそんなことには構っていられない。

 ステファンの母親が自分を嫌っていることは言動の端々でわかってはいたがずっと我慢していた。

 ここで言い返すと益々嫌われるだろうと思ったが、それよりもステファンとの婚約が破棄されることが嫌だった。


「そのようなものは必要ありません。それよりどうか婚約破棄をご再考くださいますようお願い申し上げます」

「慰謝料がいらないって、もしかして世間の同情を買うつもり? なんて浅ましいの。さすがあのエルモア子爵家の娘だけあるわね! とにかく婚約破棄は決定しました。手切れ金は子爵家に送金させてもらいますから! 貴女が不要でも貴女の両親は喉から手が出るほど欲しいに決まっているから遠慮なく受け取るでしょうよ!」


 ピシャリと言い切った夫人が話は終わりとばかりに、従者を促してルイーゼを外へ追いやる。そのまま押し込まれるように馬車へ放り込まれてしまったルイーゼは走り出す車内で身体がガクガクと震えだす。


「どう……して……?」


 同じ齢のステファンとの婚約が決まったのはルイーゼが物心つく前のことだった。

 裕福なセイバン伯爵家から打診された婚約に、貧乏子爵家だったエルモア家は諸手を挙げて承諾し現在に至る。

 何故伯爵家が縁組みを打診したのか理由は不明だったが、ステファンとルイーゼの仲は傍から見てもとても睦まじいものだった。

 何よりルイーゼは婚約者であるステファンを愛していた。

 昨年父親を亡くし若くして伯爵家当主となったステファンは多忙だったが、予定通りもうすぐ彼と結婚しセイバン伯爵家に嫁ぐ日を指折り数えて待っていた。それなのに。


 ルイーゼの心を支配したのは絶望だった。

 父は自分を許さない。母は蔑み、弟は罵るだろう。

 ルイーゼの子爵家での扱いは奴隷以下だった。


 公にされてはいないがルイーゼはエルモア子爵である両親の子ではない。

 父の姉が私生児を産んですぐに儚くなったため、祖母の嘆願で弟とその嫁の実子として届けられたのがルイーゼだった。

 両親は押し付けられた私生児のルイーゼを省みることはなかった。

 それでも祖母が生きているうちは貧しいながらも令嬢として生活できていたが、亡くなってからの10年は家事を全て押し付けられ、少しでも気に入らない出来事があれば虐待される。そんな日々だった。

 婚約者と会う日だけは地味ではあるがドレスを用意され家から解放されるのと、大好きなステファンに会えるため楽しみにしていた。

 それがまさか婚約破棄をされるなんてルイーゼにとっては青天の霹靂としか言いようがなかった。


 震える身体でいつもより随分と早く帰宅したルイーゼを待っていたのは、まるでゴミを見るような眼差しを向けた弟だった。

 ルイーゼはその弟に引き摺られるように父親の執務室へ連行されると、無理やりドレスを脱がされ下着姿で床に張り倒される。


「婚約破棄されたというのは本当か?」


 大きな机に両肘をかけ顎を両手に乗せた父親に問われ、ルイーゼが目を伏せて小さく頷くと盛大な舌打ちが聞こえた。


「お前はどこまでも役に立たない娘だな!」


 怒声とともに立ち上がりズカズカと暖炉の側まで歩いてきた父親は、ルイーゼを見下すと残忍な色を灯した瞳で呟く。


「婚約破棄されたのはお前に落ち度があるからだ。これは親としてきちんと躾けなければならない。なあ?」


 父親はそう言うとパイプを燻らせながら、暖炉に刺してあった焼けた火掻き棒をルイーゼの背中に押し付けた。


「いつもより派手に躾けてやる。どうせ婚約破棄されたお前は年寄りの後妻か娼婦にでもなるしかないから、多少傷があっても構わないだろう」

「ぅああ!!! あああ!!!」


 布と肉が焼ける匂いがして、ルイーゼは痛みで悲鳴を上げる。

 何度も何度も真っ赤に焼けた火掻き棒を押し付けられ、あまりの痛みに床を転がりだしたルイーゼの身体を今度は鞭が襲う。


「これはねお前をまともな人間にするための愛のムチなの。だから、避けるんじゃないわよ!」


 歪んだ弧を描いた唇で娘を楽しそうに鞭打つ母親は狂気染みていた。

 肩で息をするほどルイーゼを打ち据えた母を、愉悦を湛えた顔で眺めていた父が弟に頷いて合図をする。


「不出来な姉の躾なんて不本意だけど仕方ないね。せっかくセイバン伯爵家と縁続きになって贅沢しようと思ってたのに、姉上はどこまでも役立たずだなぁ」


 母の鞭から逃れようと這いつくばっていたルイーゼを踏みつけた弟は、まるで楽しい遊戯をするかのように満面の笑みを浮かべながら腹を蹴り上げ、全身を殴打した。

 やがてルイーゼの白い身体が火傷と裂傷、殴打で赤黒く腫れあがった頃、長いレッドブロンドの髪を鷲掴みにすると、側に置いてあったバケツを手にする。


「顔に傷をつけないだけ有難く思えよ?」


 ニヤリと嗤った弟は、傷だらけの身体へバケツに入った液体をぶちまけた。

 途端に耐えがたい焼けるような激痛がルイーゼの身体を襲う。

 彼女の傷だらけの背中にかけられたのは塩水だった。

 痛さと熱さで狂ったように転げまわるルイーゼを三人が愉快そうに嗤い飛ばす。

 やがて声にならない声をあげボロ雑巾のように動かなくなったルイーゼに満足したのか、弟は執務室の扉を開け放つと彼女を文字通り廊下へ蹴り飛ばした。


 床に叩きつけられ呻き声をあげる自分を一瞥し乱暴に扉を閉めた弟の姿を確認してから、ルイーゼは激痛に耐え自室までを可能な限り早足で歩く。

 彼らが扉を開けた時に自分がいたらまた暴力を奮われるからだ。

 霞む目で懸命に足を動かし漸く自室へ辿りつき扉を閉めて力尽きる。


 あと少しで解放されると信じていたから家族からの暴力にも耐えられた。

 ステファンがこの家から救い出してくれると思っていた。

 大好きな彼を信じて待っていた。


 それなのに婚約は破棄され、ステファンもそのことを承諾したという現実がルイーゼの淡い希望を黒く塗りつぶしてゆく。

 この世でただ一人、好きになった婚約者から拒絶された自分では、痛みも苦みももう耐えられそうになかった。


 苦痛に耐えながら立ち上がり、机の引き出しにしまってあった祖母にもらったペンダントを手にとる。

 机上にある縁が欠けたコップには裏庭で咲いたスズランを挿しておりルイーゼはそれを食い入るように見つめた。

 ルイーゼの唯一の味方だった祖母が昔、スズランには毒があると教えてくれた。だからスズランを触ったときにはちゃんと手を洗おうねと笑った祖母はもういない。

 結婚しようねと、はにかんだ笑顔を見せた婚約者は自分の未来から消え去ってしまった。

 ルイーゼに優しい人は、みんな自分を置いていってしまう。


 コップを持ったまま寝台の上に腰かけスズランを抜きとる。

 重度の火傷と裂傷でルイーゼの呼吸は乱れていたがゆっくりと瞳を閉じると、瞼の裏に映るのは朱金色の髪と銀色の瞳をした大好きな婚約者ステファンの顔だった。

 身体が軋み背中が焼けるように痛んで、意識が遠のいてゆく。

 寝台に倒れ込んだルイーゼの手から零れ落ちたスズランが、床に散った。


 ◇◇◇


 婚約者であるルイーゼとのお茶会が先方の事情で急遽キャンセルとなった翌朝、母親から告げられた言葉にステファンは頭を抱えていた。


「だからねルイーゼ嬢とは婚約破棄して、私の姉の子である侯爵家のライラ様と婚約をしたから」


 喜々として話す母親の姿にステファンは頭痛を覚える。

 この母はいつだって勝手気ままだった。伯爵夫人としての務めも育児も気が向いたときだけ手をだし、気分が乗らなければ平気で投げ出した。

 ステファンの婚約者であるルイーゼにも、まるで嫉妬のような嫌がらせをすることもしばしばだった。しかしまさか婚約破棄まで言い出すとは考えていなかった。

 ステファンの父親が望んだ婚約だったが、彼は婚約者であるルイーゼのことを愛していた。


 従妹であり侯爵令嬢であるライラは我儘で傲慢な娘だと社交界では有名だ。大方嫁入り先が見つからなくて侯爵夫人が妹である母に泣きついたのだろう。

 本人は王族や公爵家を狙っていたようだが高位貴族があんな令嬢に靡く訳がない。

 ライラは両親の前や高位貴族の前ではしおらしい態度をとるのだが、格下の者やライバルである令嬢に対する言動が酷いことは有名で、それが余計に敬遠される由縁なのだが本人も家族も気が付いていない。更に言えば目の前にいるこの母も盲目者の1人だった。


 ともかくも相思相愛であるルイーゼと婚約破棄など馬鹿げたことを言いだした母親に反論しようとしたところで、執事が入室の許可も取らずに青い顔で飛び込んできた。

 いつにない執事の様子に母親も話すのをやめ目を丸くする。

 ステファンと母親の驚く視線を受けた執事だったが、青褪めた顔をさらに青くして口を開いた。


「エ、エルモア子爵家から火急の連絡です」

「エルモア子爵家?」


 途端に不機嫌になった母親に執事は一瞬だけ責めるような視線を向けると、声を震わせながら続きを口にする。


「ルイーゼお嬢様が……お亡くなりになったそうです」

「え?」


 執事の言った言葉が理解できずにステファンは目を見開く。

 何だ? 今、変な単語を聞かされた気がする。

 ナクナルって何だっけ? ナクなる? なくなる? ……亡くなる?


「何だと!?」


 脳裏に浮かんだ信じられない言葉に椅子を蹴り倒して立ち上がったステファンへ、執事は瞳を伏せ苦々しく告げた。


「詳細はまだ不明ですが……服毒により自ら命を絶ったようでございます」

「自ら……命を?」


 ステファンは震える声で執事の言葉を反芻する。

 意味がわからなかった。

 もうすぐ自分と結婚するルイーゼ。

 自分が愛を囁けば嬉しそうに笑っていたルイーゼ。

 誰よりも大切で愛しい自分の婚約者。


「何故!? どうしてルイーゼが自ら命を絶つ必要がある!?」

「それは……」


 激高するステファンに、言い澱んだ執事がチラリと夫人に目をやる。執事の視線の先を追ってステファンは先程母親から告げられた言葉を思い出し、ゾワリと背中が総毛だった。


「まさか私との婚約破棄のせいか……? 昨日ルイーゼとのお茶会が急遽キャンセルとなったのは母上のせいだったのですね!?」


 ステファンの発した底冷えするような低い声に、母親の肩がビクンと震える。

 息子から氷のような眼差しを向けられた母親は薄い水色の瞳を彷徨わせ、慌てたように捲し立てた。


「な、何よ! 私のせいだって言いたいの!? 慰謝料は渡すと約束したのだし、そんな……婚約破棄位で自殺するような弱い人間と結婚しなくて良かったじゃない! そんな女このセイバン伯爵家には不要だったのよ!」


 母親でなければ殴りつけていたであろう暴言にステファンが拳を強く握り締める。


「言いたいことはそれだけですか……」


 罵倒したい気持ちに無理やり蓋をして、絞り出すようにそれだけを口にしたステファンは母親に背を向けた。


「エルモア子爵家へ向かう。馬車の用意を」

「はっ」


 執事に命じたステファンの言葉に驚いたように母親が追いすがりブロンドの髪を振り乱す。


「私は貴方のためを思って婚約破棄をしたの! 子爵家には慰謝料を払うことで話がついているわ! もう婚約者でもないのだから貴方が行く必要はないでしょう!」

「私のためを思って? 貴女はいつまでたっても自分勝手な人なんですね」

「ス、ステファン? 何を言ってるの?」

「わからないから、救いようがないんです」


 呆然と立ち尽くす母親の手を振り切って、ステファンは足早に馬車へ乗り込む。

 無言の馬車はエルモア子爵邸へ向けひた走った。



 子爵邸へ到着したステファンを出迎えたのはルイーゼの母である子爵夫人だった。

 罵られることも覚悟していたのにルイーゼに会いたいと言うとすんなり応じてくれたため、ステファンは拍子抜けするとともに希望が湧いてくる。

 もしかしたらルイーゼが亡くなったというのは誤報なのではないかという都合のいい希望。

 夫人に案内されルイーゼの部屋へ向かう途中で、ステファンは日当たりの悪い裏庭に白い花が所狭しと咲いているのが目に留まった。

 地面より少しだけ高い位置に造られた花壇の花が、以前にルイーゼが話してくれたスズランの花であると気づいて足を止める。


 ああ、ルイーゼ。君が好きだと言っていたスズランはこれだね?

 君の両親は伯爵家を招待できる環境ではないと、いつも私が来るのを拒んでいたから、やっと見ることが出来た。

 可愛らしい見た目に反して毒があるから気をつけないといけないと教えてくれたルイーゼ。

 君がもうこの世にいないなんて嘘だよね?


 突然立ち止まってしまったステファンに先を歩いていた夫人が不審そうな視線を向けたので慌てて足を動かす。

 生き生きと咲き誇っていた可愛らしいスズランの花に一縷の望みを託して、ルイーゼの部屋へ入室したステファンの願いは……叶わなかった。


 初めて入室した婚約者の小さな部屋の真ん中には不釣り合いに大きな棺が置かれていた。

 その棺の中に、まるで眠っているかのように横たわる自分の愛しい人を見つけてステファンが膝をつく。


「ルイーゼ?」


 這うように棺に縋りつきカラカラに乾いた喉で彼女の名前を呼ぶが、いくら呼んでもルイーゼの澄んだアクアマリンの瞳が見えることはなかった。


 ステファンの婚約者であるルイーゼは死んでいた。


 信じられない。

 信じたくない。

 こんなこと到底受け入れられない。


 ルイーゼの遺体の傍らで呆然とするステファンを現実に引き戻したのは、彼女の父であるエルモア子爵だった。


「この度はわざわざご足労いただきまして申し訳ありません」

「いえ……このようなことになってしまったこと心よりお悔み申し上げます」


 悲しさや憤りや悔しさ、そんな感情でないまぜになった頭で何とか応えたステファンは次に子爵が発した言葉に目を丸くする。


「それで、その……娘は亡くなりましたが、婚約破棄の慰謝料はお支払いいただけるのですよね?」

「はい?」


 この場の話としてはあまりにそぐわない子爵の言葉に疑問形で返事をしたステファンだったが、彼の返事を肯定と勘違いした子爵夫妻が顔を綻ばせるのを見て愕然とした。


 考えてみればこの屋敷に来てから違和感は覚えていたのだ。

 娘が亡くなったというのにどこか淡々とした様子の母親。

 自殺の原因が婚約破棄かもしれないのに自分という原因を責める様子もない子爵。

 そして先程投げつけられた言葉と笑顔で、ステファンは婚約者がこの家でどういった扱いを受けていたのかに思い至った。


 きっと伯爵家に報せを寄越したのは慰謝料がとれるか心配になったためなのだろう。

 娘が亡くなったことより金の心配をする子爵夫妻に沸々と怒りが湧き上がる。

 そこでステファンは改めてルイーゼの部屋へ視線を移した。


 ルイーゼの父親が当主となってから事業に失敗したエルモア子爵家の財政状況が逼迫していることは伯爵家当主として当然把握していた。

 だがそれらを鑑みてもかなり粗末な部屋だった。木製の机と椅子は素人の手作りのような拙い出来だしベッドは随分古そうな造りである。

 ベッドの上に置かれた布団は薄く擦り切れていて、例え今が春先でもこれ1枚で寝れば風邪をひいてしまうだろう。

 これほど酷い扱いを受けていたのなら、何故自分に相談してくれなかったのかとステファンは唇を噛む。

 慇懃に慰謝料の話を始める子爵夫妻の話に上の空で相槌をうち、見るからに寝心地が悪そうなベッドを睨みつけていたステファンだったが、ふと薄いシーツについた赤い染みに目を止めた。


「何だ、この赤い模様は?」


 ベッドへ近づき薄い布団を剥がすとそこにはスズランの花と共に大量の赤い液体がこびりついていた。


「あっ! いや、これは、その……」


 途端に慌てだす子爵夫妻を尻目にステファンはシーツについた赤い液体を確認する。


「これは、血?」

「きっと、毒を飲んだ時に苦しさで掻き毟ったんでしょう!」

「ええ! そうですわ! ああ、可哀想なルイーゼ」


 ステファンがこの家に着いて初めて口にした娘を憐れむ夫人の言葉は白々しく、余計に神経を逆なでさせられる。

 激情のままステファンは子爵夫妻に詰め寄り激高した。


「だがこの量は異常だ! これでは、まるで身体中裂傷だらけということになる。それに爛れた皮膚のようなものまで落ちている。これはルイーゼのベッドなのですよね!? 彼女の死因は服毒自殺ではなかったのですか!? まさか婚約破棄になった彼女に暴力を奮いそれが原因で彼女は亡くなったのでは!?」

「ち、違います! 娘は婚約破棄されたことによる自殺です!」

「そうですわ! それにいつもは次の日には治っていたし……はっ!」


 思わず口にしてしまった夫人が慌てて口を噤むがステファンは聞き逃さなかった。


「いつもは? ということはルイーゼは日常的に虐待を受けていたわけですか?」

「ち、違……」

「これは、そう! 躾の一環だ!」


 ステファンの迫力に悲鳴に近い声で否定した子爵夫妻だったがその表情は真っ青だった。

 明らかに動揺している子爵夫妻を睨みつけステファンが強い口調で言いきる。


「どうせルイーゼの身体を見れば解ることだ。このことは治安警察に連絡させていただきます」

「セイバン伯爵! これ以上、姉を貶めるのはやめてください!」


 吐き捨てるように言ったステファンの言葉に反論したのは、両親の叫び声を聞きつけたルイーゼの弟だった。

 将来義弟になるのだと多少なりとも目をかけていたルイーゼの弟がステファンに嘲るような眼差しを向ける。


「治安警察など呼べば姉の身体は知らない男達の目に晒されることになるのですよ? 貴方に婚約破棄をされ悲嘆にくれて自殺をした姉にこれ以上の恥辱を与えるつもりですか? 

 姉は間違いなく貴方に婚約破棄をされたことによる服毒自殺です。ここに医師の証明書もあります。どうかこのままお引取を」

「だが!」


 反論しようとしたステファンの脳裏にルイーゼの笑顔が浮かぶ。

 治安警察を呼べば彼女の虐待は白日の元になり子爵たちは罰を受けるだろう。だがそのために彼女の身体を他の男達に晒すことはステファンにとって我慢できないことだった。

 つきつけられた選択に発狂しそうになるほどの慟哭を覚える。

 黙ってしまったステファンに弟になるはずだった男が歪んだ顔で微笑んだ。


「それに婚約破棄をされた令嬢が自殺したなど知られればセイバン伯爵家といえども醜聞は免れませんよ? ここは穏便に済ませようではありませんか。勿論我が子爵家への慰謝料と口止め料をお忘れなく。それこそがスズランの毒なんてチンケな毒で死んだ姉へのせめてもの手向けですよ」


 くははっと噴き出すように笑いだすルイーゼの弟に釣られ、子爵夫妻がステファンに遠慮しつつも歪に口角を上げる。

 いっそこの場にいる全員を殺してやりたい衝動を抑えつけステファンは無言で踵を返した。

 その背の向こうでは子爵たちが勝ち誇ったように笑い合う声がして、忸怩たる思いで屋敷を後にしたステファンは馬車へ飛び乗った。


 走りだした車輪の音を聞きながらステファンは逆巻く胸中とは裏腹にどうしようもない喪失感に襲われる。

 ルイーゼが虐待をされているなんて気づきもしなかった。

 自分と会えばいつも笑顔を向ける彼女が、その笑顔の裏側でこんな仕打ちを受けていたことにステファンは悔恨の波に襲われる。


「ルイーゼ、私は……」


 ステファンの呟きは騒めく街の喧騒と馬車の音に掻き消され霧散していった。


 ◇◇◇


 婚約者の遺体と対面し衝撃的な真実を知ったばかりだというのに、その夜ステファンはどうしても外せない夜会があった。

 子爵邸から戻った午後、ルイーゼの遺体が墓地へ埋葬されたと連絡を受けたステファンは、思い詰めた表情で1人フラフラと外出し、戻ってきた時には昼から曇天だった空はすっかり嵐の様相に変わっていた。

 それでも夜会を中止にするという選択肢は主催者にはないようで、ステファンは溜息を吐きながら夜会の会場の窓を叩きつける風雨を眺めていた。


 伯爵邸へ険しい顔で戻ったステファンに最初は気遣う素振りを見せた母親だったが、夜会の会場に到着してからは開き直ったのか、しきりに新しい婚約者だというライラをやたらと押し付けてくる。

 実のない会話に適当に相槌を打っていると、ホールの中央に今夜の夜会の主催者である金髪銀目の麗しい公爵が夫人をエスコートしながら登場してきた。

 ファーストダンスが始まる合図にステファンの隣にいたライラが誘ってほしそうな素振りをみせるのを気が付かない体を装い誤魔化す。

 つれないステファンの態度に母親の方が慌てるが、彼はただ黙ってホールを眺めるだけだった。

 そんな彼にライラは憤慨して立ち去ってしまい母親は血相を変える。


「ステファン! 婚約者をファーストダンスに誘わないなんて失礼ですよ!」

「私の婚約者はルイーゼだけです」

「いい加減、あんな女のことは忘れてしまいなさい!」 

「母上、やはり貴方は自分勝手な人ですね。まるで……」


 言葉の途中で天上を見上げ仄暗い笑みを浮かべたステファンの目の前で、シャンデリアが落ちていった。


 響き渡る悲鳴と怒声、煌びやかな夜会会場が一瞬にして悪夢のような光景に包まれる。

 ホールの中央では挨拶をしていた公爵夫妻がシャンデリアに押し潰されていた。

 すぐさま使用人が駆けつけ2人を救出しようと試みているが、シャンデリアの重さで難航している。

 更に運の悪いことにシャンデリが吊り下がっていた天井付近には、ぽっかりと穴が開いてしまい、そこからバケツをひっくり返したような雨水と強風が会場に降り注ぎ、公爵夫妻の他にも落下したシャンデリアから飛び散ったガラスの破片が突き刺さった者が複数いて、夜会は混乱を極めていた。


「た、助けて……」


 か細い声が近くから聞こえステファンはそちらに目をやる。


「痛い、痛い、痛い……!」


 額から血を流し強風と逃げ惑う人々によって押し倒されたテーブルの下敷きになった母親がステファンに手を伸ばしている。

 差し出された手を呆然と見て母親の顔を覗き込んだステファンが小さく呟いた。


「ルイーゼはもっと痛かったと思いますよ」


 酷く小さな声だったためステファンの声は母親には聞こえなかったようで、目の前に座りながら自分を助けようとしない息子に声を荒げる。


「ステファン! 早く助けて!」


 額だけでなく両足もガラスの破片で負傷してしまったらしく身体に力が入らない。そんな母親にステファンは首を傾げた。


「母上、どうして私とルイーゼの婚約を勝手に破棄したんですか?」


 自分を助けようとするどころかこの期に及んでまだ婚約破棄の話をしだした息子に、夫人の苛立ちがピークに達する。


「い、今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょう! 早く私を助けなさい!」

「嫌です」

「ほら、早くし……え?」


 思いも寄らないステファンの返事に母親がポカンと口を開ける。


「嫌です。母上は私から一番大切な人を奪いました。私はそんな貴女を助ける義理はありません」

「ステファン? 何を言っているの?」

「ルイーゼは死にました。貴女のせいで」


 冷たい眼差しで自分を見てくるステファンに母親が焦りだす。切れた額も痛いが何よりテーブルの下敷きになっている両足の感覚が段々となくなっていくのが怖かった。


「だからそれは申し訳なかったと言っているでしょう! 仕方がないじゃない! まさか婚約破棄された位で自殺するなんて思わなかったんだから!」


 ヒステリックに叫ぶ母親の声は、混乱し怒声が飛び交うこの場ではステファンにしか届かない。そんな母親とは対照的にステファンは静かに彼女に問いかけた。


「ルイーゼとの婚約を破棄したのは彼女が毒婦ローザの実家であるエルモア子爵家の娘だからですか?」

「……何故貴方がそのことを?」


 ステファンの問いに母親が露骨に眉を顰める。

 それをチラリと見やったステファンは無表情のまま会話を続けた。


「知っていますよ。10数年前王族を巻き込んだ毒婦ローザの騒動くらい」

「でもあれは箝口令が敷かれていて」

「他人の口に戸は立てられませんからね。それに公爵家が当時恣意的にエルモア子爵家を貶める噂を流した形跡がありますから、彼らに敵対する他家の夜会等で今も時折話題になることがありますよ」

「恣意的に? ステファン、公爵家に対して不敬な発言は控えなさい」

「平気ですよ。混乱したこの場で私達の会話を聞いている者なんて誰もおりません」


 肩を竦めたステファンは遠くを見る様に銀色の瞳を少しだけ細めた。


「10数年前、子爵令嬢だったローザは当時第2王子だった公爵に取り入り篭絡した。しかしそれは媚薬による催眠のせいで、婚約者である公爵令嬢への真実の愛のおかげで我に返った王子はローザを断罪し、彼女は実家である子爵家で幽閉処分とされた。断罪されたローザは王子を恨みながら亡くなったとされています」

「そうよ! 毒婦ローザ、あの女の実家である子爵家の娘と貴方の縁組を旦那様が決めたときには羞恥で死ぬかと思ったわ! 全く忌々しい!」


 拳を握りしめ悪態を吐く母親を冷たく見下ろしてステファンは話を続ける。


「しかしこの毒婦ローザの話は公爵家が流布させた虚言です。爵位は低いが見目麗しいローザに王子が一方的に熱をあげ、在学中に何度も関係を迫った醜聞を隠すためにね。王家がこの件に関して箝口令を布いているのが何よりの証拠です。公爵家に遠慮しつつ愚かな王子のせいで冤罪となったローザへの謝罪もこめた苦肉の策なのでしょう。しかしローザに嫉妬した王子の婚約者であった公爵令嬢は今でもエルモア子爵家を逆恨みし、ことある毎に嫌がらせをしているようですが」


 黙りこんでしまった母親にステファンは侮蔑したような眼差しを向けた。


「身分を笠に着て何度も王子に関係を迫られたローザには仲睦まじい婚約者がいましたが、王子に遠慮してか婚約者の両親によって婚約は破棄されてしまったそうですよ。その挙句散々ローザを弄んだ王子は公爵令嬢との結婚が決まるとさっさと彼女を捨ててしまう。しかし王子が学園で派手にローザに言い寄っていたのは周知の事実で、婿入りした公爵家は王子の醜聞が広まる前に毒婦ローザの噂を流した、というのが真相です。けれどこの話は続きがありまして、実は王子に凌辱されたローザは彼の子を身籠っていたんです。ローザは子供を出産するとすぐ亡くなってしまい、子供は公爵家を怖れた子爵家によって秘匿されローザの弟の子として届けられたそうですよ」

「子供!? では、ま、まさか、ルイーゼは!?」


 ローザと王子の子なの!? と、驚愕で悲鳴を上げそうになった母親にステファンは首を横に振る。


「いいえ、ルイーゼはローザの子供ではありませんよ。彼女が野蛮なケダモノの血を半分も引いているわけはありません。彼女は賢く聡明です。……自分勝手ではありましたが」

「ケダモノ?」


 ステファンの言葉に母親が怪訝な顔をしたが無視をする。


「ローザの婚約者は治癒魔法が得意だったそうです。

 王子に言い寄られて公爵令嬢から怪我などの嫌がらせを受けるようになったローザは、放課後の誰もいなくなった教室で彼に傷を癒してもらっていた。しかしローザの婚約者に懸想していた令嬢がいましてね。彼女はローザを教室に閉じ込めると王子をけしかけ、自分は婚約者の足止めを図った。婚約者が教室にやって来た時には王子に凌辱されたローザが蹲っていたそうですよ。

 怒りと悲嘆にくれる婚約者にローザは婚約破棄を願い出たが彼は承諾しなかった。だがローザは彼の両親に自分はもう彼には相応しくないと懇願し婚約は解消されてしまう。

 最愛の人を救えず彼女との未来もなくなり憔悴していた彼は、ローザを陥れる見返りに媚薬を手に入れた件の令嬢に容易く篭絡され、気がつけば既成事実とともに結婚までしてしまっていた。そして自分の妻が最愛の人を陥れた事実を彼が知ったのは子供が産まれる少し前だったそうです。

 ローザを陥れた令嬢とは……母上、貴女ですね」


 ヒュッと息を吸い込む音が聞こえ、ステファンは母親の赤みがかかったブロンドの髪に付いていたガラスの破片を手で払う。


「ところで、ルイーゼは治癒魔法が使えたんです。この意味、母上なら解りますよね?」

「治癒魔法……!? まさか、そんな!」


 息子の言葉に有り得ないと薄い水色の瞳を大きく開いた母親を一瞥して、ステファンは淡々と話を続ける。


「この国では我がセイバン伯爵家の血を引く者だけが使用できる治癒魔法です。ローザの婚約者だった亡き父上は治癒魔法が得意でしたよね。誤解のないように言っておきますが父上は浮気はしていませんよ? 勿論、王子との子を出産後まもなく亡くなってしまったローザとも関係はない。生涯ローザだけを愛していた父上の子は、後にも先にも媚薬の誘惑に負けて出来てしまった貴女の子1人だけです」


 ステファンの言葉に胸を撫で下ろした母親だったが次に息子が放った言葉に困惑する。


「ただし私は治癒魔法が使えません」

「な、何を言っているの? ステファン。旦那様には及ばないとはいえ貴方は治癒魔法を使用していたはずよ。昔、私が手を擦りむいたときも治してくれたでしょう?」

「あれは水魔法で傷口を清潔にし湿潤状態を徹底することで他人より早く回復しているように見せていただけですよ。現に私の治癒魔法は脆弱だと噂されていましたよね?」

「それは、稀にそういう子も生まれるから仕方がないと……」

「本当の治癒魔法は父上のように一瞬で傷を治せるのです。私の魔法は治癒魔法ではない。ただの紛い物です」


 母親の薄い水色の瞳が彷徨い蒼白になる表情を眺めながら、ステファンは自嘲の笑みを浮かべる。


「父上はずっと意気地のない自分を責めていた。しかし母上がローザと自分を陥れ、ローザが王子の子を妊娠していることを知った父上は一計を思いついたそうです。とても残酷な計画を……」


 そう呟いたステファンが薄く笑い、その昏い笑顔に母親が息を呑んだ。


「父上はね……自分の子とローザの子を取り換えたんですよ」


 壮絶な笑みを浮かべた息子に母親が髪を振り乱し半狂乱で叫ぶ。


「そんな! 嘘よ!」


 ガタガタと肩を震わせ、こぼれんばかりに見開いた母親の薄い水色の瞳はルイーゼによく似ていた。もうあのアクアマリンの瞳を見ることは叶わないのだと思うとステファンの胸が締め付けられる。


「本当です。ローザの母親だった前子爵夫人と共謀して私とルイーゼを取りかえた。奇しくもルイーゼと私は同じ日に生まれたので容易にその計画は成功したそうです。出産後、気を失ってしまった母上を騙すのは簡単なことだったとも聞いていますよ。

 父上は公爵家に恨まれる原因となったローザの産んだ子が、エルモア子爵家で碌な扱いをされないことを予想していた。だからローザを陥れたくせにのうのうと自分の妻の座におさまった貴女に復讐するために、生まれたばかりの自分の子であるルイーゼとローザの子である私を取り換えたんです」

「そんな! じゃあ、あの子は!? ルイーゼは!?」

「父上と貴女の子ですよ」

「嘘! 嘘! 嘘よ!!!」

「思い出してみてください。ルイーゼの瞳の色を、ご自分にそっくりだと思いませんか? 髪色も貴女と父上の色を引き継いだレッドブロンドだったでしょう?」

「あ……、嘘……そんな……あああっ!」


 ルイーゼの面影を思い出し真実を察して泣き崩れる母親だった女に、ステファンは冷たく言い放つ。


「私は貴女とは一滴の血も繋がっていません。それどころか貴女にとっては父上の心を離さなかった憎いローザの子供です。よって私は父上の……セイバン伯爵家の血も引いていないので治癒魔法が使えません。私が使用できる水の魔法は代々王家だけに伝わる魔法です」


 嫌悪するように最後の言葉を紡ぎ、ホールを見たステファンの瞳と血溜りの中呆然と宙を見つめる公爵の瞳の色が同じように銀色に輝く。


「今際の際の父上から自分とルイーゼの話と、公爵夫妻殺害計画を打ち明けられた時は衝撃で頭がおかしくなりそうでしたよ。

 でも納得もしたんです。父上は私を可愛がってはくれましたが時折憎悪を込めた眼差しを向けてくるときがありました。きっと私の容姿が憎い王子に似ていたので無意識に嫌悪していたのでしょうね。捨てたはずのルイーゼを私の婚約者にしたのは半分自分の血を引いた彼女に対する罪悪感なのか、治癒魔法をセイバン伯爵家に残すためなのかは解りませんでしたけれど」


 ふぅっと息を吐き、ステファンは天上を仰いだ。


「父上はこの公爵家に治癒師として定期的に通い、気づかれないようにシャンデリアに少しずつ細工を施していたそうです。だが自分の死期を悟って計画を私に引き継がせた。勿論、断ることもできました。実際ルイーゼのことを聞いた時にはふざけるなと怒鳴りましたしね。

 でも私は父上の計画を引き継ぎました。だって可笑しいでしょう? 冤罪が罷り通り罰を受けるべき奴らがのうのうと生きているなんて」

「そんな……嘘よ……そんな……」

「大切なローザの子である私に復讐を引き継がせた父上は、子供を取り換えたあの日から、いや、貴女がローザを陥れたあの日から、狂っていたのかもしれませんね」


 割れた天井から風雨が絶え間なく吹き込み、ステファンの言葉は宙に散ってゆく。


「さて、私は治癒魔法が使えません。よって母上、貴女を助けることはできません。両足の感覚がないのでしょう? 随分酷く裂傷を受けた上に大きな破片が腿に突き刺さったのを、テーブルの下敷きになる前に視認しましたからね。

 本当は貴女のことだけは助けようかと考えてもいたのです。父上にずっと騙され憎い女の子を育てた貴女は既に十分に罰を受けたといえなくもありませんから。それに仲がいいとは言えませんでしたがずっと母と子として過ごしてきたので情もありましたしね。貴女には私とルイーゼと共にセイバン伯爵家で家族として生きる未来もあった。

 でもね、その未来を壊したのは今も昔も自分勝手だった貴女です」

「あ……あぁ……」


 虚ろな瞳でがっくりと項垂れた女に、ステファンは銀色の瞳に侮蔑と憐憫が入り混じったような色を浮かべて天を仰いだ。


「ずっと自分の子だと思って育ててきた息子が誰よりも憎んでいる女の子供で、その子に見殺しにされる。公爵と夫人は衆人環視の前で無残な姿を晒され生死の狭間を彷徨い、万一助かっても治癒魔法の遣い手がいなければ、後遺症は相当なものとなり二度と社交界へは復帰できない。公爵夫妻を襲ったシャンデリアは、こんな酷い嵐の時に夜会を開催しなければ何等かの細工がしてあったことが解ったかもしれないのに、壊れた天井の破片と吹き込んだ風雨で原型をとどめていないため、不幸な事故として処理される。

 父上、貴方の描いた復讐は見事なものですよ」


 小さく独り言を呟いたステファンが泣きだしそうな笑顔を見せる。


「でも私は本当は復讐なんてどうでもよかったんです。父上に従う振りをしてやらないつもりでした。ルイーゼと一緒にいられれば過去のことなんてどうでもいいとさえ思っていました。

 でもルイーゼは死んでしまった。しかも彼女は家族から虐待を受けていた。本来なら私が受ける傷を私の代わりに受けていたんです。自分の愛する人が、自分の身代わりで虐げられていた事実を知った私の気持ちが解りますか? それもこれも全てはたった一人の愚かな王子のせいで!」


 傍らにあった瓦礫を拳で殴りつけたステファンは、漸く使用人達に助け出された公爵に向けて水魔法を放つ。

 鋭い針のような細い水流が公爵の銀色の瞳に突き刺さり、絶叫が響く。

 しかし公爵を担ぐ使用人達は公爵の悲鳴は全身の裂傷のせいだろうと思い、風雨が吹き込む会場では水魔法を放ったことさえも気づく者はいなかった。

 そのことに乾いた笑みを浮かべたステファンだったが、すぐにその顔から表情が抜け落ちる。


「もしも何か一つでも違っていたのなら結果は変わっていたのだろうか? ルイーゼ、君がいない結末を迎えずに済んだのだろうか?」


 生温い水分が頬を伝い答えが出ないまま足元に視線を移せば、母親だった女が動かなくなっていた。


「さようなら、母上。もう聞こえないでしょうけれど、貴女とルイーゼはとても似ていましたよ。自分勝手なところが特にね」


 悲しく微笑んだステファンが踵を返し混乱を極める夜会を後にする。


「ルイーゼ、今、行くから」




 ステファンは暴風雨の中をずぶ濡れで歩いた。

 街を抜けて教会のある郊外まで辿りつくと服が泥で汚れるのも気にしないで真新しい墓石の前に跪き慟哭する。


 人は生き返らない。時を巻き戻すことも出来ない。

 それがこの世界の理で、どう足掻いても覆らない真実。

 でも自分勝手に死んでしまったルイーゼに、どうしても思い知らせてやりたかった。

 狂おしいほどに自分の愛は重いのだということを。死んでも逃がしてなんかやらないということを。

 だから……。


 気がつけばステファンは豪雨でぬかるんだ墓石の下の土を掘り返していた。

 降りしきる雨の中、只管土を掘り起こし漸く見えた棺をこじ開けると数時間前に見た姿と変わらない彼女が横たわっていた。

 雨と土に汚れた手でルイーゼの額にかかったレッドブロンドの髪をかきわけながら、ステファンは彼女の耳元で囁く。


「ルイーゼ、私は君を愛している。だからルイーゼが嫌だと言っても私は死んでも君から離れる気はないからね」


 風雨が益々強くなる中、舞い上がったレッドブロンドの髪に口づけながら、嗚咽を漏らす。

 叶うならば……。


「もう一度、君の綺麗なアクアマリンの瞳が見たかった」


 そう呟いて水魔法を自身の頸動脈に向けて放とうとしたステファンの右手は、冷たく柔らかい手に遮られた。


「ステファン様……」


 掠れた声で自身の名を呼ぶルイーゼをステファンは信じられないものを見たように凝視する。

 アクアマリンの瞳が薄らと開き、血色のない頬が少しだけ緩む。


「……きっと来てくれるって信じていました」

「な……ぜ? ……これは……夢?」


 呆然とするステファンにルイーゼは困ったように眉尻を下げる。


「夢じゃない、と思います。私も先程気が付いて、まだ少し混乱しているのですけど」

「だが、確かに君は亡くなっていて……医師の証明書も……私も確認して……ベッドにもスズランが散らばっていて……」


 銀色の瞳が探るようにルイーゼを捉え、確かめるように彼女の頬を、肩を、腕をなぞる。

 ルイーゼの身体はどこもかしこも冷たかったが、ステファンが触れた部分から微かに血色を取り戻しているようだった。


「私は弱いから……婚約破棄をされて虐待を受けて、スズランの毒で死んでしまおうと思っていたのは事実です。でも最後にどうしてもステファン様の顔が見たくなって、たぶん無意識に治癒魔法を暴走させてしまい、一時的な仮死状態になったのだと思います。私が死んだと勘違いされたのだと気が付いた時には既に真っ暗な箱の中にいて、空気も薄くなって、このまま本当に死んじゃうんだなって諦めてしまいそうになって。でもその時、声が聞こえたんです」

「声?」

「ぎゅっと握って、離さないでって。まるで許しを請うような切ない声だったのですが不思議とその声に安堵を覚えて、藁にも縋る思いで声の在処を探したら祖母にもらったペンダントが淡く光り出して、夢中で握ったら夢を見ました」

「夢?」


 訝し気にステファンが訊ねると、ルイーゼが酷く悲しそうに目を伏せた。


「私とステファン様が取り換えられてから、今に至るまでの夢です。この夢は……現実なのでしょう?」


 ルイーゼの言葉に、息を呑んだステファンの背筋が凍りつく。

 首からさげたペンダントをステファンに見せながらルイーゼは静かに微笑んだ。


「このペンダント、くれたのは祖母ですが生まれたばかりの私のおくるみに忍ばせてくれたのはお父様だったんです」


 ステファンがルイーゼのペンダントの魔力を探るとそれは紛れもなく父親の魔力だった。

 昔、自分が怪我をした時に青い顔をしながら慌ててかけてくれた治癒魔法。それは優しく温かい、涙が出るほど柔らかな癒しの魔力であったことを思い出す。


 愛すべき者がいなくなった人間は闇に落ち、そして狂う。

 だが父は最後の最後で、非情になりきれなかったのかもしれない。

 ルイーゼと自分を婚約させたのも或いは……。


「そうか……父上はちゃんと自分の娘を想っていたんだな」


 渦巻く風に朱金色の髪が靡いて、雨で濡れた顔に焦燥の色を浮かべながらステファンは唇を噛んだ。


「私達が取り換えられたこと、知ってしまったんだね……さぞかし私を恨んでいるだろう」


 ルイーゼが生き返ったことは嬉しい。だが彼女が受けた虐待はベッドが血だらけになる程の傷だったのだ。あんな虐待を日常的に受け、どんなに辛かったか。自分を恨まない訳がない。

 そんなステファンの言葉にルイーゼは勢いよく顔をあげた。


「え? 私が受けた虐待のことでしたら、答えはいいえです。だって私は治癒魔法が使えますから」

「だが癒せるといっても痛みまで緩和できるわけではないだろう」


 苦い表情のステファンに、ルイーゼが首を振る。


「それでも……真実を知った今では恨んでなんかいません。むしろ私はステファン様の代わりになれたことが嬉しいです」

「ルイーゼ……」


 抱き寄せたルイーゼのレッドブロンドの髪に顔を埋めながらステファンは仄暗い瞳で彼女に囁く。


「ルイーゼ、私はたとえ君が私を恨んでも君を手放す気はないよ。父上がローザを忘れられなかったように、私も君以外いらないんだ。私の手は血で汚れてしまったけれど一緒に逃げてくれるかい?」

「貴方とならどこへでも」


 そう言って笑ったルイーゼは風雨と泥にまみれているのに、今までに見たことがないほど晴れやかで美しい顔をしていた。


 ◇◇◇


 公爵家の夜会での事故はスキャンダラスに取り上げられた。

 シャンデリアの落下は不幸な事故として処理されたが、この事故でセイバン伯爵の母親が出血多量で命を落とし他にも負傷者が多数出たことで、悪天候にも係わらず夜会を決行したことに非難が集中し公爵家の権威は大いに損なわれることとなった。

 公爵夫妻は一命を取り止めたが、治癒魔法を使用できるセイバン伯爵が夜会以降行方不明となり傷が癒せず、自慢の美貌が裂傷で損なわれ発狂した夫人によって程なく公爵は刺殺されてしまう。

 一方、夫を殺した夫人は1人の女性の名前を恨めしそうに叫びながら鏡に顔を打ち付けて亡くなった。


 公爵家の夜会騒動があった翌日、ある貧しい子爵家で身体中を焼かれた子爵と、鞭で逆さ吊りにされた夫人、植物の毒を煽った令息が、それぞれ骸となって発見された。

 この子爵家は方々に借金があったため怨恨で殺されたか、毒を煽った令息が両親を殺害して自殺したのだろうと噂された。この家では惨劇があった前日に娘が亡くなっており、その娘は家族から虐待されていたと元使用人が証言したこともあり、家庭内不和による令息の犯行とされ捜査は打ち切られた。


 そんな遠い国の話が小さく書かれた新聞記事をテーブルに置き、夫は揺り椅子に腰かけて刺繍をする妻を後ろから抱きしめる。

 微笑み合う夫婦の日当たりの悪い小さな家の庭先にはスズランの花が揺れていた。


ステファンが子爵家に鉄槌を下したのはルイーゼの埋葬~夜会の前です。

一度伯爵邸に戻り準備を整えてから行きました。


ご高覧いただきまして、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 面白かった! 出来れば、もう少し、ラストのハッピー部分が読みたかった。
[良い点] 血は繋がっていなくても確かに親子な復讐劇でしたね。 悲惨な先に閉じられたハッピーエンドはとても良いと思います。 [気になる点] ローザは名誉回復出来ないのでしょうかね
[一言] 苛烈なお話でした。親の仕打ちが子に報い…ってところでしょうか。報いではないかな。 それにしても王子、下劣やなぁ…
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