第六話 聖拳ジム
「拳至くん、この黒革ソファはここでいい?」
「暮林さん、そこでいいっスよ」
オレは親父の第三秘書である暮林恭司さんにそう返事をして、
部屋の片付けを続けた。 大阪から送った荷物は最低限にしたつもりだが、
いざこうして引っ越し作業をすると、けっこう面倒なもんだな。
オレは東京のH大学に通う為、この春から上京したばかりだ。
とりあえず住まいとして、目黒の賃貸マンションを借りた。
部屋の間取りは1DKで家賃は15万円だ。
まあ家賃15万は学生にしては、高いと思うが
これは自分で払うつもりだ。
最初はウチの親父が――
「家賃50万……いや30万までなら出してやるぞ!」
と云ったが、それは丁重に断った。
というか家賃30万を親に払わせる息子もアレだし、
払う親もアレだと思うぞ。
この辺、うちの家は金銭感覚が色々とおかしいぜ。
とはいえあまり汚い所には住みたくない。
それでいて、大学やジムからもちょうど良い距離にある所。
この目黒からだと、大学へは一時間ちょっと、
聖拳ジムのある飯田橋や水道橋へは三十分くらいで行ける。
それに加えて、それなりに名の通った街&ほどよい家賃。
ということでオレはこの目黒にある賃貸マンションを選んだ。
まあオレには契約金一千万が入る予定だが、
ここの家賃だけで、一年間で約180万かぁ~。
それで大学を四年間通えば、家賃だけで約720万くらいかかる。
……東京の地価は凄いな、大阪とはレベルが違うぜ。
「しかし拳至くん、大学生の分際で良い所、住むねえ~。
オレの大学時代なんて寮生活よ?」
「はぁ、まあウチの家の金銭感覚がおかしいのは認めます」
「まあ君は名実ともにお坊ちゃんだからね。 これくらいの
マンションに住まないと、格好がつかないかもしれないけど、
家賃15万を自腹で払うとなると、けっこうキツいと思うぜ?」
と、暮林さんはやや苦笑する。
暮林さんは大阪の代議士であるウチの親父の第三秘書だが、
秘書の仕事に加えて、オレの相談役みたいな仕事も兼ねている。
年は27歳で、身長は178、顔もなかなかのイケメンだ。
オレとも話が合う、というか向こうが合わしてくれている。
なのでオレと暮林さんは大阪に住んでた時から、よく話す間柄だった。
そして今回、仕事の合間の時間を使って、オレの引っ越しを手伝ってくれた。
更にはこの後、聖拳ジムへの入門交渉にも同伴してもらう予定だ。
まあオレに対する好意もあるだろうが、
多分、親父からオレの監視役を任されたのだろう。
まあ暮林さんのことは好きだし、別に彼が監視役でも構わない。
「まあオレには契約金一千万が入る予定ですから、
それに剣持家の人間がボロアパートに住んだら、
外聞も悪いでしょ? だからこれは必要経費ですよ」
「まっ、そうだね。 でも学費以外は仕送りを拒否したんだろ?
だったらバイトしないと生活できないよ?」
「それはボクシングで稼ぐつもりです。
それに夏休みなどの長期休暇には、バイトするつもりです」
「へえ、一応その辺は考えてるんだ。 拳至くん、キミ少し変わったね」
「……例えばどんなところが変わりました?」
すると暮林さんは懐から煙草を取り出して、
ジッポで火をつけて、紫煙を吸った。
……というかここで煙草吸わないで欲しいな。
「前のキミ、特に高校の途中までのキミは実にいけ好かないガキだったよ。
確かに顔も良くて、頭もいい。 更にはボクシングが強くて、実家が金持ち。
そりゃ自分が特別な人間と思うのも、無理はないがとにかく周囲を
見下した態度や発言が多かったよ。 まるで親父さんの悪いところを凝縮
したような人間だったよ」
「……今ならそれも分かります。 あ、後、ここ禁煙なんですが?」
「五月蠅いな、俺を引っ越しのパシリに使ったんだから、煙草くらいいいだろ?」
「は、はあ……ならいいっス」
「でも気持ちは分かるよ。 高校の頃の俺もキミと似ていたからね」
「……そうなんですか?」
「ああ、キミと同じくらい嫌な奴だったよ。
でも高二の途中くらいから、キミも変わったよね?」
「……多分、ボクシングで初めて負けたのが原因と思います」
「そうか、キミも成長したんだね~。
でも本気でプロボクサーをやるつもりなの?」
「ええ、今の時期しかできないと思うんで……」
「そっか、まあいいや。 キミの好きにするといいさ。
それじゃそろそろ聖拳ジムへ行こう」
「はい」
35分後。
オレと暮林さんは電車に乗り、JR飯田橋で下車した。
そこから駅から歩くこと、15分。 聖拳ジムに到着。
「へえ、流石に日本一の名門ジムと言われるだけのことはあるね」
「ええ、なんでも自社ビルの4階立てらしいッスよ。
まあどうせプロやるなら、最高の環境でやるべきですよ」
オレは暮林さんと言葉を交わし、眼前の聖拳ジムを見上げた。
4階立ての自社ビルか、ボクシングジムとしては随分と豪華だな。
まあそれに加え、優秀なトレーナー陣、
更に聖拳ジムの会長は、英語とスペイン語も得意で、
日本と海外を股にかけて活動してい凄腕プロモーターでもある。
日本でプロボクシングをやる上では、このジム以上の環境はない。
まあいいや。
とりあえず中に入ってみよう。
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「やあ、剣持くん。 よく来てくれたね。
とりあえずそこのソファに掛けてよ」
「はい」
オレと暮林さんは聖拳ジムのマネージャーの松下さんに
言われるまま、目の前の黒革のソファに腰掛けた。
そして松下さんは俺達の対面になるように、ソファに座った。
松下さんの左隣には、チーフトレーナーの松島さん。
そして右隣には日本ボクシング界の首領と呼ばれる本山会長が座っていた。
「剣持くん、まずは大学合格おめでとう」と、松下さん。
「ありがとうございます」
「しかしH大学に受験合格するとは大したものだ」
と、本山会長が感心したように言った。
まあオレとしては、その辺のことはどうでもいい。
肝心なのはこれからの話だ。
そう、オレは契約金の一千万円で満足などしてない。
一般的には一千万円という金額は大金だろうが、
剣持家の人間からすれば、小金に過ぎない。
と言っても別に契約金をつり上げようと言うわけじゃない。
オレは他の部分で入門条件をつけようと思っている。
プロボクサーと言えば聞こえは良いが、
プロボクサーの殆どがファイトマネーだけでは生活できない。
殆どのプロボクサーが他の仕事を掛け持ちしている。
まあそれ自体は仕方ないことだ。
所詮、ボクシングはマイナースポーツ。
プロ野球やJリーグに比べたら、注目度も低い。
だが日本のボクシング界は、その雀の涙のファイトマネーが現金払いでなく、
試合チケットで支払われているのだ。
そしてプロボクサーはその試合チケットを自分で売って、現金化するのだ。
この話を聞いた時、最初は耳を疑った。
でも現実は更にそれ以上に酷かった。
プロボクサーのランクは4回戦のC級、6回戦のB級、
8回戦以上のA級の三ランクに分けられる。
だから下っ端の4回戦、6回戦ボーイが現金ではなく、
チケット支給されるのは、ある程度は仕方ないと思う。
まあプロと言っても、野球やサッカーに比べたら、
レベルや競技人口も全然低いからな。
だがプロボクシング界の現状は想像以上に酷い。
それは日本、東洋チャンピオン、時には世界チャンピオンになっても、
現金ではなく、チケットでファイトマネーが支払われることがあるのだ。
これはいくらなんでも酷いと思うぜ。
こんなんじゃボクシングやる奴も限られてくる。
まあこのように日本のプロボクシング界は色々と問題を抱えている。
だがオレはこれでも高校五冠王者。
多少は条件をつけられる立場だ。
だからオレは入門する際にも色々と条件をつけるつもりだ。
と言っても無茶な要求をする気はさらさらない。
ただ一人のアスリートとして、プロとしてやっていく上で
必要最低限の環境を整えたいだけだ。
まあそういうわけで、これからしばらく駆け引きをするつもりだ。
まずはファイトマネーは現金払い、
とりあえずこの辺から攻めてみるか。