第七話 腐女子の誘惑
唐突だが、諸君は絶望した事はあるかな?
俺はこう見えて、
前向きな性格なので今日まで絶望と無縁の人生だった。
だが今この瞬間、俺は絶望している。
長年付き合ってきた幼馴染がヤンデレ化。
そこまでは我慢できた。
俺も大概の性格だ。
他人様の性格をどうこう言える立派な人間じゃねえ。
でもよ、いくらなんでもヤンデレ化した幼馴染が、
事もあろうに俺と親友をモデルにしたBL本を描いている
という状況には、流石に絶望したよ。
いや本気で絶望している。
更に絶望は続く。
その自分と友人をモデルにした同人誌を幼馴染の前で
読まなくちゃいけないんだ。
……分かる? この絶望感。
やはりこの世に神など居ない。
「……」
「……」
「なあ、少し聞いていいか?」
「……な、何?」
「これ所謂BL本ってやつだよな?」
「うん、そうだよ。
というか健太郎がBL本を知ってるなんて意外!」
と、コロコロと笑う美奈子。 うん、見た目は可愛い。
しかしこいつは病んでいるうえに、腐っているのだ。
故に今後の言葉選びは慎重に慎重を重ねる必要がある。
「まさかと思うが、
俺や来栖の個人情報に繋がる事は記載してないよな?」
「ああ、その辺なら大丈夫だよ!
私達はそういうところは常に配慮してるよ?
だからその本から健太郎や来栖君の個人情報がばれる可能性は皆無だよ?」
「そうか、そりゃどうも」
「いえいえ~」
一応その辺には配慮しているんだな。
少しだけ安心した。 少しだけな。
「なあ、美奈子」
「なあ~に?」
「やっぱり読まなきゃ駄目か?」
「うん、私は健太郎に読んで欲しいなぁ~」
語尾を伸ばして、可愛くいっても、
もうこの女は色々と手遅れだ。
なんというか母親が自分の息子のエロ本を
見つけた時の心境が少し分かった気がする。
ほどほどのエロさなら、まだ微笑ましいが、
すんげ~マニアックな性癖だったら、
それを知った母親は少なからずショックを受けるだろう。
今の俺がそんな心境だ。
「……了解、んじゃ適当に読むよ」
「うん!」
とりあえず俺はその薄い本をぱらぱらとめくった。
その度に生まれてこの方、感じた事のない嫌悪感を覚えた。
こう見えて俺は滅多に嫌悪感を感じない人間だ。
別にモラルが低いわけではない。
単純に嫌悪感という言葉を使って、
誰かを攻撃するのが好きじゃないのだ。
しかし俺は今とてつもない嫌悪感に身を焦がしている。
正直生まれて初めて美奈子の事が嫌いになりそうだ。
だがこうも思う。
ならば俺は何故早い段階でこの場から去らなかったのか?
思えばこの時点で逃げ出していれば、
事態はこれ以上こんがらなかっただろう。
しかしこの時の俺は急な展開に、
気が動転して正常な判断ができなかったのである。
「……どう? 感想は?」
どうって、
自分と友人がモデルのBL本の感想を幼馴染に言えってのか?
それってどんなプレイだよ?
ここはとりあえず無難な感想でいこう。
「え、絵は上手いと思うよ」
「それ以外は?」
「う~ん、結構話の構成とかしっかりしてるな。
ただ所々に妙な既視感があるが……」
「そりゃそうよ。 健太郎からラインやメールで
教えってもらった情報を元に制作してるもん。
でも大丈夫、事実と虚実を混ぜてるから、
個人情報の漏洩の心配はないわ」
「これ、美奈子一人で描いてるわけじゃないよな?」
すると美奈子がこくりと頷いた。
「うん、うちの同人サークルの皆で描いている。
あ、でもコミケとかには出してないから、
世には出回ってないよ? あくまで自分達で楽しむ感じ」
所々で個人情報に関する気遣いが見受けられる。
でも褒めないけどな。
しかし眩暈がしてきたよ。
もうアレだ。 俺の幼馴染は手遅れだ。
「そ、それでね、健太郎」
「ん? 何だよ?」
「うちのサークルの代表が健太郎と少し電話で話したいらしいのよ」
ふぁ? なんですか、それは?
「ごめん。 いまいち状況が理解できない?
え~と美奈子の所属する同人サークルの代表が何故か
俺と電話したがっている? という話でいいのか?」
「う、うん」
「何を話せと? というか目的が分からん」
「で、でもうちの代表はとっても美人よ?
二十歳の女子大生だし!」
そんな事知るか! もう我慢の限界だ。
これ以上付き合ってられるか!?
と、内心では思いながらも、
その時の俺は何故かその場から動かなかった。
恐らくそれは「二十歳の美人女子大生」という単語が原因だ。
まあ諸君も分かると思うが、
中高生の男子なら一度は年上のお姉さんに憧れる。
これは誰もが通る通過儀礼と思っている。
いや多分仮に「二十歳の美人女子大生」が事実だとしても、
多分その女はアレだろう。
そもそも勝手に俺と友人をモデルにしたBL本を描いてるんだ。
多分色々な意味で駄目な人間だ。
だがしかし!
それでも「二十歳の美人女子大生」というステータスは
童貞の男子高校生のハートを見事に射抜いた。
よってこれから語る俺の言葉は本意ではない。
言うならば、
俺の中に潜む潜在意識が自然に働いた、と思って欲しい。
「ふ、ふうん。 ま、まあ電話で話すぐらいならいいよ?」
「ほんと? じゃあ今ラインで伝えるね」
そう言って、指先でぽちぽちと文章を打ち込む美奈子。
三十秒もしないうちに「ぴこん」という音がなった。
「それじゃ今から私のスマホに電話するよ、って。
準備はいい?」
「あ、ああ」
すると美奈子のスマホから着信音が鳴り響いた。
「あ、テレビ電話だけど、いいかな?」と、美奈子。
「ん? ま、まあいいんじゃね?」
「じゃあ私はこの円卓にスマホ置くから、
健太郎はそこから会話して」
「お、おう」
そしてテレビ電話は繋がった。
だが俺は画面を見た瞬間に「ごはっ」と思いっきりせき込んだ。
「やあ、こんにちは! はじめまして、健太郎君。
私が同人サークル「ファンシーマカロン」の代表の美剣麻弥子だ」
そう自己紹介する画面上に見える女性は確かに美人だった。
艶のある黒髪のセミロングヘアが似合う和風美人といった感じの女性。
正直あんなキモい同人本を描いているようには、とても見えない。
だが問題はそんなことでない。 だから俺は純粋にこう問うた。
「あ、あのう~、なんで下着姿なんスか?」
そうこの女は上下共に黒の下着姿で通話している。
なんというか出るとこ出て、
へっこむところへっこんでいる理想的な体型だ。
すると画面上の美剣麻弥子は蠱惑的な笑みを浮かべた。
「そりゃあれだよ。 君を篭絡する為だよ、健太郎君」
な、何言ってんだ、この女?
「あ、アンタ……露出狂なのか?」
「失礼な言い草だな。 私は今自室に居る。
夏場で暑いのでな。 だからこういうラフな格好をしているに過ぎん。
私もTPOくらいはわきまえているさ」
「お、俺に何の用だ?」
「おっと、健太郎君。 そんなにまじまじと視姦しないでくれ?
テレビ電話越しだが、なんか妊娠しそうだ。
まあ私は別にそれでも構わないがね」
「ぶっ……アンタ、頭大丈夫か?」
こ、この女マジでおかしいぞ?
「それはさておき、健太郎君。 我々と取り引きしないか?」
「と、取り引き?」
「そうだ。 君にとっても悪い話ではないよ? ん?」
どうせろくでもねえ話だ。 聞かなくても分かる。
でも何故かこの女と話す事がやめられない。
悲しい童貞の性。
「な、何を取り引きしようというんだ?」
すると画面上の美剣が妖艶な微笑を浮かべた。
「そう難しい話ではないよ。 これまで通り美奈子に
君と来栖君の写メなどを送ればいいだけの話さ。
我々は来栖君の写メだけで、御飯三杯いける」
「……それを同人誌のネタにするんだよな?」
「ああ、来栖君。 彼はまさに美の神に愛されたような美少年だ。
私もあのクラスの美形は見たことはない。 それに健太郎君。
君もなかなかイケているよ。
君がへたれ受けで来栖君が鬼畜攻め。
そのネタだけで、我々は後十年戦える」
「……アンタ、変態だな?」
いい女だがどうしようもない変態だ。
流石の俺もこれはマジで引くわ。
「ありがとう」
「褒めてねえよ!」
「しかしその変態の下着姿を見て、
興奮している君もまた変態だ」
「こ、興奮してねえし!」
「でも童貞なんだろ?」
「ど、童貞ちゃう……ちゃわわくわない」
「日本語でおけ」
くすりと笑いながら、そう言う美剣。
「か、仮にそうだとしても、あ、アンタには関係ない話だろ?」
「そうでもないよ?」
「大体アンタ等が俺等をネタにすると分かった以上、
もう美奈子に写メ送らねえし」
「それは困る」
「妄想するのは、アンタの勝手だが、
俺達を巻き込まないでくれよ?」
「……なら私が今から脱ぐから、それで取り引きに応じてくれ」
はあ? この女、何言ってるんだ? マジで頭大丈夫か?
って本当にブラのホックに手をかけているし!
「ちょいちょい、ちょい待て! 何故脱ごうとするんだ!?」
「私も対価なしで報酬を貰おうとはせんよ。
だからとりあえず私が代表として、この場で脱ぐ。
それが君に対する私の誠意だ」
「そ、そんな誠意いらねえよ!」
「心外だなあ~。 君は私の裸体を見たくないのか?」
「見た……見たくねえ。 す、少なくともこんな形では!」
「何? つまり直接会って、全裸になれというのか?
君もなかなか強欲だな」
駄目だ、こいつ早くなんとかしないと。
というか多分もう手遅れだ。
「大体アンタみたいな変態は俺の好みじゃねえよ~」
「だがこう見えて私は処女だよ?」
「え? ほんと?」
「うん、本当さ」
ヤバい、うっかり聞き返してしまった。
画面上の美剣がにやりと口の端を持ち上げた。
「こう見えて私は箱入り育ちでね。
小学生から大学までずっと女子高、女子大育ちだ。
おかげでリアルの男性に免疫がなくてな。
それを色々拗らせて今のようになった」
「う、嘘くせえ!」
「いや健太郎。 麻弥子さんの話は本当だよ?
大学も聖愛女子大だよ?」
と、横からそう言う美奈子。
聖愛女子大? 有名なお嬢様大学じゃねえか。
「なんだ、疑っているのか? ほら、これが私の学生証だ」
美剣はそう言って画面に自分の学生証を見せた。
……どうやら本物くさいな。
「ふうん、でもなあ。
いくら俺でもこんな変態女は流石にお断りだぜ」
「なら私を徹底的に都合の良い女として扱ってくれて構わんよ?
君の今の生活を脅かすつもりはない。
神宮寺里香ちゃんだっけ?
あの子とこれまで通りイチャコラすればいい。
しかし君も年頃の男の子だろう?
君の持て余した性欲は私が受け止めよう」
「つ、都合の良い女?」
く、糞っ。
この女、とことん童貞男子高校生の弱点を突いてきやがる。
年上のお姉さん。
それに加えて今の生活には干渉せず、都合よく俺の相手をする。
正直言えば理想的な環境だ。 まるで悪魔の囁きだぜ。
「うむ、私だけでない。
我がサークルのお姉様方も君の容姿なら「オーケー」との事だ。
つまり君さえ望めば、酒池肉林というわけだ。
この条件でも不満かね?」
ふ、不満はねえ。 だがしかし俺はそれでもあえてこう言った。
「だ、だが……ことわりゅっ!」
うわっ。 緊張して噛んでしまった。
「思いっきり噛んでるじゃないか。
こんなカッコ悪い「だが断る」は初めて聞いたよ」
「……だ、だが断るっ!!」
「いや二度言わなくていいから」
「美剣さんよ~。 正直言えばアンタの誘いは凄く魅力的だ」
「そうだろ? ならば君もここは理性より本能に任せて――」
「だが俺はそれでも断る。
やはり来栖や里香を裏切りたくねえからな。
自分の性欲の捌け口の為に、親友は売れん。
ならば今まで通り自分で処理すればいいだけさ」
「微妙にカッコいいようで、カッコ悪い台詞だな」
「なんとでも言え。
とにかく俺はこの取り引きに応じるつもりはねえ。 悪いな」
「……」
美剣は何やら考えているようだ。
「……いい!」
「はあ?」
「その題材でまた新作が描けそうだ。
女に迫られても、友人兼恋人の為に断る。
まさに漢の中の漢。 健太郎君、君は実に素晴らしいよ!」
だ、駄目だ、この女。 本当にどうしようもねえ女だ。
もうここまできたら、褒めるしかない。
ある意味俺の負けだ。
「まあ勝手に同人誌のネタでも何でもしてくれ。
でもこれ以上は俺からは、写メなどは送らないからな。
アンタ等はアンタ等で妄想の世界で生きてくれ」
「……分かった。 交渉終了だな。
とりあえずこの場は素直に引き下がるよ。
しかし健太郎君、君さえ望めばいつでも我々は君を受け入れるよ」
「そりゃありがてえな。 でもそうならねえように、
真面目に彼女でも作るわ」
「そうか、残念だ。 では健太郎君。 また会おう」
そう言ってテレビ電話は切れた。
……ふう正直色々と疲れたぜ。
なんか大事なものを失わないかわりに、童貞も失い損ねたな。
でも個人的にはこの結果に満足している。
……多分。
そして俺は無言で円卓の上の自分の教科書とノートを自分の鞄に入れた。
「け、健太郎」
「悪いな、美奈子。 今日はもう帰るよ」
「け、健太郎。 わ、私のこと嫌いになった?」
両目を潤ませてそう問う美奈子。
「う~ん。 まあキモいと思ったのは事実だ」
「そうよね、やっぱりキモいよね。 ごめんね、こんな幼馴染で」
美奈子はそう言って、両目から涙をぽろぽろと落とした。
だが俺は美奈子を諭すようにこう言った。
「でも俺も他人様にどうこう言える立派な人間じゃねえ。
お前はお前で好きな事して生きろよ。
まあ今すぐってわけにはいかねえが、
また今度一緒に登校したり、遊ぼうや」
「け、健太郎。 私を許してくれるの?」
「許すも許さないもねえよ。 じゃあな、美奈子」
俺はそう言って美奈子の部屋から出た。
「あら? 健太郎君もう帰るの?」
「はい。 お邪魔しました」
「またいつでも遊びに来てね」
「おばさん、失礼します」
俺は美奈子ママとそう挨拶を交わして、美奈子の家を後にした。
しかし我ながら馬鹿な選択肢を選んだと思うぜ。
でもなあ、人間として大事な何かを護ったような気がする。
その後、自宅に戻り、
夕食と入浴以外は試験勉強に励もうとしたが、
正直全然集中できなかった。
俺の脳裏にはあの変態女・美剣麻弥子の下着姿が焼き付いていた。
何度も雑念を払おうとしたが、無理だった。
結局、その日はろくに集中できず、そのまま就寝した。
翌日の期末試験最終日。
それまで順調だったが、
この最終日の試験の出来はかなり微妙だった。
なんとか暗記部分だけは、
記入したがそれ以外の部分はさっぱりだった。
しかしどういう形であれ、試験から解放されたのは事実。
俺は試験終了祝いとして、
放課後に来栖のバイト先のファミレスで来栖と里香に昼飯を奢ってやった。
すると来栖と里香が――
「健太郎、何かあったの?」
「よくわからないけど、奢ってくれてありがとう~」
と、いい笑顔で言ってくれた。
やはりこの二人と居ると色々癒されるなあ。
今後も仲良くしてくれよ。 いやマジでさ。
だがこれで大切な何かを護れたし、
失わなくて済んだ気がする。
――健太郎の人間偏差値が44から46にアップした。
……ような気がする。 それでも46か。
まだまだ低いな。
人間の尊厳を捨てない代わりに、童貞を捨てられなかった。
でも俺はそれでも満足しているよ。 うん、まだ17歳だ。
まだ慌てるような時間じゃない。 ……多分。
次回の更新は2020年4月26日(日)の予定です。