第三話 剣持家の一族
帰宅後。
オレは帰宅後、私服に着替えてから受験勉強に励んだ。
今は十月だがもう少しすれば大学入試が始まる。
オレの第一志望校は国立の経済学部だ。
まあ大学の経済学部で学んだところで、
実際のビジネスには、大して役に立たないことは分かっている。
とはいえ他に行きたい学部も特にない。
どのみち大学を卒業したら、オレは親父の後を継ぐことになる。
まあ大学院でMBAを取るという選択肢もあるが、今のところその気はない。
まあ要するにオレは剣持家の一族に相応しい男になる為に、
自分自身をブランド化する必要があるわけだ。
他人から見ればくだらない見栄に見えるかもしれんが、上に立つ者には必要なことだ。
コン、コン、コン。
などと考えていると、オレの部屋のドアを軽くノックされた。
「拳至お坊ちゃま、夕食の時間でございます」
と、ドアの外から執事の辻村の声が聞こえてきた。
なんだ、もうそんな時間か。 我ながらよく勉強したぜ。
「分かった、すぐ行くよ」
「はい、既に旦那様がお待ちしておりますので、急いでください」
「ああ」
親父がこんな時間に帰ってくるとは珍しいな。
まあ大方、進路の話だろ。 しゃあねえ、話に付き合ってやるか。
五分後。
オレは一階の食堂にある白い長テーブルの椅子に腰掛けた。
既に料理は運ばれている。 相変わらず無駄に豪勢だ。
でもしばらくボクシングはできないから、食い過ぎると太りそうだ。
そしてオレの正面に親父と母親が座っていた。
親父は四十代半ばだが、高級な黒いスーツが似合う紳士然とした容貌だ。
政界にも財界にも影響力がある立場で居るが、その内面は合理主義であり、冷徹である。
まああまり認めたくないが、オレ達親子は似ている部分がある。
一方の母親は四十前後だが、見た目は実年齢より若く見える。
黒髪のセミロングに、白いブラウスに白いスカートという格好が絵になる淑女風の中年女性だ。
だが基本的に母親はオレに対して、放任主義だ。いや正確に言えば、無関心なのかもしれない。
オレの親父は令和になったこの時代でも徹底した男尊女卑の思想の持ち主だ。
いや正確に言えば、男尊女卑とは少し違うか。
只、単に「オレに従え」という度の過ぎた亭主関白の方が近いかもしれない。
だから母親がオレに対して何か言うことは殆どない。
そういう訳でオレと母親の関係は良くも悪くもない。
オレは母親のことを不憫と思うが、これも剣持家に嫁いだ宿命だ。
「拳至、進路はどうするつもりだ? ん?」
と、左手でなみなみと高級赤ワインが注がれたグラスを右手で弄ぶ親父。
「とりあえず大学に進学するつもりさ。 地元の国立は当然として、
東京の国立大も受験したいと思ってる」
「ん? お前は東京の大学へ行きたいのか?」
「まあそうかもしれない、……駄目か?」
「いや構わんさ。 でもなんで東京の大学へ行きたいのだ?」
「なんというか関西、大阪も良いところだが、少し違う場所へ行きたくなったんだよ。 逆にこの機を逃したら、関東圏に出る機会がなくなりそうだからな」
「ふうむ、それ以外に理由はないのか?」
と、親父が探りを入れるような眼でこちらを見た。
この男は勘がかなり鋭い。 オレが急に東京へ行きたいと言った真意を知りたいのだろう。
まあぶっちゃければ、東京の大学へ行って彼女――氷堂愛理に会いたいという気持ちが強い。
とはいえ剣持家と氷堂家は不倶戴天の天敵。
故にその事は親父相手に打ち明けるのは、藪蛇だ。
だからオレは適当な言葉で場を濁した。
「いやオレは元々東京生まれの東京育ちだろ? 大阪も良いけど、
いずれは東京を拠点にしたいという気持ちが前からあったんだよ。
なんだかんだで東京は何をするにしても、恵まれた環境だろ?」
「うむ、そうか。 成る程、お前もその辺のことを考えていたのか。
ならば東京の大学へ行くことを許そう。 拳至、お前の好きにしろ!」
「ああ、そうするよ」
「……ところでボクシングはどうするつもりだ?」
「え?」
オレは親父の予想外の言葉に、少し戸惑った。
「大学でボクシングする気はないのか?」
「今は分からない。 とりあえず今は受験勉強に専念したい」
「まあ確かにそうだが、お前は並のボクサーではないだろ?
だから大学でボクシングをやるか、やらないかは重要な事柄と思うぞ?」
「う~ん、でも大学生になったら、もっと色んなことを学ぶべきじゃ?
確かにボクシングは好きだが、オレも剣持家の一族の一人だし……」
「だがお前には才能がある。 確かに大学生は色々学ぶ時期であるが、
お前のその才能を捨てるのは、俺は勿体ないと思うぞ。
拳至、俺に変な気を使うな。 お前の本心を聞かせて欲しい」
「……」
意外だな。
親父の奴がそこまでオレのことを考えていたとはな。
今までは親父はいつも仕事で忙しくて、家でもあまり喋る機会はなかったが、
なんだかんだでオレの事を気にかけてるのか?
ならばこちらもそれなりの誠意を見せよう。
だからオレは今日、聖拳ジムからスカウトされたことを親父に告げた。
すると親父は「うむ」としばらく考え込んでいた。
まあ流石の親父もプロ入りは許さない――
「そうか、聖拳ジムにスカウトされたか。 大したものじゃないか。
それで拳至、お前はプロでボクシングするつもりはないのか?」
「えっ!?」
オレは思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
というか親父はオレのプロ入りに反対じゃないのか!?
「い、いやだってオレも大学卒業したら、親父の後、
あるいは剣持コンツェルンの系列会社に入社するつもりだよ?
確かに日本有数の名門ジムにスカウトされたのは嬉しいよ。
で、でもさ、オレの立場でプロ入りするわけにはいかないじゃん」
「……誰がそんなことを決めたんだ? ん?」
「え? え? いやでも……」
「拳至、お前は本当にプロのリングに上がりたくないのか?」
「……興味はあるよ。 でもプロボクシングはプロ野球やJリーグと
違って、非常に不安定な職業じゃないか、だから安易にプロは目指せねえよ……」
「うむ、その辺はお前の云うとおりだ。 だがお前には契約金一千万があるじゃないか?
だからその一千万円を大学での生活費に充れば、四年、いや大学院へ行けば計六年の
猶予期間があるじゃないか? その六年でプロの頂点を目指せばいいじゃないか」
親父はそういって、右手に持ったグラスに口をつけて、赤ワインを飲み干した。
……親父は本気で言ってるのか? あるいはオレを試しているのか?
だがそうだな、契約金一千万があれば、四年間くらいならなんとかなりそうだ。
その間にプロのリングで稼げるプロボクサーを目指す。
そう思うとオレの中で何か熱い感情が沸き起こった。
「……そうだな、案外それも悪くないかもな」
「ああ、ただしやるからには徹底的にやれ! それとリングで壊されるな。
なんだかんだでお前は剣持家の大事な跡取り。 だから身体は壊すな!」
「……オレもそのつもりだが、プロのリングはそう甘くねえよ」
「ああ、俺も高校から大学までボクシングしていたからな。
プロの厳しさは知ってるつもりだ。 だがお前は高校五冠王だ。
お前が本気を出せば、身体を壊さず世界のベルトを獲れるかもしれんだろ?」
「せ、世界のベルト!?」
「うむ、どうせやるなら世界王者を目指せ!!」
「い、いやライト級で世界を獲るのような容易じゃないぜ」
「そんなことは分かっている。 だからこそ獲った時に価値が出る。
だがその為には、死に物狂いで練習する必要があるだろう。
更には多くのものを犠牲することになるかもしれん。
拳至、お前にはその覚悟はあるのか? ん?」
「……正直今はないかもしれねえ」
オレは率直にそう答えた。
確かにオレはボクシングが好きだし、才能もまああると思う。
だがそれはあくまで日本人ボクサーとしてだ。
世界のライト級以上の階級は、化け物揃いだ。
近年に日本も主要四団体を認可して、世界挑戦の機会が増えたが、
フェザー級以上の世界王者はなかなか誕生しない。
ましては日本人でライト級世界王者になった者は現時点で三人しか居ない。
それくらい世界のライト級は層が厚いのだ。
だからいくらオレでも安易に世界を獲る、なんて言えない。
「まあとにかく東京へ行くのも、プロボクサーになるのも全て自分で決めるんだ。
俺はお前が選んだ選択肢なら、文句も言わんし、お前の自由にさせるつもりだ」
「……ありがとうよ。 とりあえず今は受験に専念したい。
だからその後の事は大学に合格してから、考えるよ」
「うむ、ならばそうしろ!」
「……ああ」
そしてオレは適当に料理に手をつけて、自分の部屋に戻った。
ああやって親父と真剣に話したのは、初めてかもしれん。
逆に母さんはこんな時でも何も言ってこない。
一見すれば勝ち組に見えるが、剣持家の内情はこんなものだ。
とりあえずオレは自分の将来の妻には、あんな風になって欲しくないな。
しかしプロ入り……か。
正直今まで真剣に考えたことはなかったが、
この選択肢の結果次第でオレの人生は大きく変わるかもな。
だが今はとにかく受験勉強に専念するべきだ。
そしてオレは再び机に向かい、勉強を再開した。
でも妙に気持ちが高ぶり、今夜に限ってはなかなか勉強に集中できなかった。
次回の更新は2021年3月27日(土)の予定です。
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