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第二話 スカウト


 東京のJR飯田橋駅にある聖拳ジムは日本でも屈指の名門ジムだ。

 聖拳ジムはプロ加盟後、約六十年間、数多のプロボクサーを輩出しており、日本王者二十二人、東洋太平洋王者十人、そして世界王者を七人生み出しており、日本でも一、二を争う名門ジムと評判が高い。 その聖拳ジムがオレをスカウトしたいと言っているらしい。


 しかもわざわざ東京から大阪まで来てくれたのだ。

 流石のオレもそれを無碍むげに断る気にはなれなかった。

 まあぶっちゃけて言えば、やはり嬉しいぜ。

 超名門ジムがオレを認めてくれたんだからな。 そりゃあ悪い気はしない。



 そしてオレと宮下監督は「失礼します」と言いながら、応接室に入った。

 応接室はやや狭いが、部屋の中央に二つのやや高そうな黒革のソファが置いてあり、

 奥の方のソファに二人の男が腰掛けてきた。


 一人は眼鏡をかけた黒スーツの三十代くらいの中年の男だ。

 そしてもう一人の六十前後と思われる初老の男。

 というかこの初老の男はオレも知っている。


 確か聖拳ジムのチーフートレーナーの松島……さんだ。

 トレーナー歴三十年を超える日本ボクシング界が誇る名伯楽だ。

 彼の特に凄いところはカットマンとしても一流なのところだ。

 カットマンとは端的に言えば、試合中に選手が顔に傷を負った時に

 ラウンド休憩時間の短時間で、その傷や血を止めることを主とする仕事人だ。



 ヘッドギアなどの防具で保護されたアマチュアボクシングでは、

 頭突き(バッティング)で頭部や顔面を負傷することはあまりないが、

 ヘッドギアなしのプロボクシングでは、試合中の負傷は日常茶飯事だ。


 そういう時に素早く止血できるカットマンが居ると居ないとでは、

 試合展開も大きく変わる。 カットマンとはそれぐらい重要な存在なのだ。

 その伝説のトレーナー兼カットマンの松島さんがわざわざ東京から大阪まで

 オレをスカウトしにきたのだ。 流石のオレも彼を前にしたら、自然と緊張してしまった。


「剣持、とりあえず座ろう」


「あ、はい」


 オレは手前のソファに腰掛けて、眼前の二人の男に視線を向けた。

 すると黒スーツの三十代くらいの中年の男が愛想良く喋り出した。


「初めまして、剣持君。 私は聖拳ジムのマネージャーの松下まつしたです。 こちらは聖拳ジムのチーフートレーナーの松島清太郎まつしま せいたろうさんです。 剣持君。 単刀直入に言うね。 君、高校卒業後、我が聖拳ジムでプロデビューしない? もちろん君ほどのボクサー相手を無料ただでスカウトする気はない。 契約金も一千万用意している!」


「!?」


 け、契約金一千万かぁ。

 プロ野球選手やJリーガーなら少額の契約金だが、

 ボクシングで契約金が一千万も出ることは滅多にないことだ。

 それだけに聖拳ジムの本気度合いが分かる。


「君も知ってると思うが、我が聖拳ジムは日本でも有数のジムだ。 優れたボクサー、トレーナー、そして日本だけでなく海外にも太いコネクションを持っている。 プロボクサーを目指すなら、これ程恵まれた環境はないと思うよ」


 松下……さんの言うことはけっして大袈裟ではない。

 プロボクサーにとって所属するジムは非常に大事で

 その後のボクサー人生も大きく左右される。

 弱小ジムだと日本タイトルすら満足に試合を組めないからな。


「ええ、確かにプロを目指すなら、聖拳ジム以上の環境はそうはないでしょう」


「なら剣持君、うちでプロになる気はあるかい?」


 松下さんはやや声を弾ませて、そう問うてきた。

 う~ん、天下の聖拳ジムにこう言われて断る奴はあまり居ないだろう。

 オレ自身、プロでやるなら聖拳ジムでやりたい。

 だがオレの進路―ー人生は自分のことだけを考えて選ぶことができない。


「松下さん、天下の聖拳ジムのスタッフさんがわざわざ東京から大阪まで

 オレみたいな小僧をスカウトしに来てくれたことには、非常に嬉しいです。

 でも残念ながらオレはオレだけの選択肢で自分の人生を選べないんですよ」


「剣持君、それはどういう意味だい?」


 そう言う松下さんに宮下監督が次のように述べた。


「この剣持はボクシングの天才でもありますが、学業成績も非常に良いのです。

 それに加えて、彼は剣持コンツェルンの大事な跡継ぎなのです。

 ですから彼の一存では、プロ入りは決められないのです」


「え? 剣持コンツェルン? 剣持君って剣持コンツェルンのご子息なのですか?」


 松下さんは目を見開いて驚いていた。

 まあオレはこういう反応には慣れているから、特に何も思わないが

 これは聖拳ジム側が少し調査不足だな。 まあそう思うのは少し自意識過剰か?


「ええ、ですからまずオレは受験勉強に専念したいと思ってます。

 基本的に大学は学力優先で決めるつもりです。 とりあえず大学に合格してから

 その後のことを考えたいと思ってます。 ただしプロ入りとなると、

 まあ両親――特に父親には強く反対されるでしょう」


 オレは思ったとおりにそう言った。

 すると松下さんは「う~ん」と唸って言葉を詰まらせていたが、

 次の瞬間、チーフトレーナーの松島さんが初めて口を開いた。


「剣持君、君自身はプロのリングに上がりたいという気持ちはあるのかね?」


 単刀直入だな。

 でも不思議と悪い気はしない。 だからオレも思ったとおり答えた。


「あると言えばあります。 ですが今は大学受験に専念したいです。

 その後のことはまたその時に考えたいです」


「そうか、分かった。 松下君、とりあえず今日はこれくらいにしよう。

 剣持君は色々と難しい立場にあるようだからな」


「そうですね、分かりました。 あ、剣持君。 これ僕の名刺。

 大学受験が終わったら、そこに書いている携帯番号に連絡してね」


「はい」


 オレはそう言って、松島さんから名刺を受け取った。

 そして二人は軽く会釈して、応接室から出て行った。


「しかし天下の聖拳ジムがわざわざ大阪までスカウトに来るとはな。

 お前のことは天才と思っていたが、トッププロレベルから見ても

 一級品ということだな。 まあ進路は大事だからゆっくり考えるがいいさ」


「はい、では宮下監督。 オレもそろそろ失礼します」


「ああ、受験勉強頑張れよ!」


 オレは言って、応接室を後にした。

 ふう~、正直言って結構緊張したぜ。

 自分では結構精神的にタフと思っていたが、

 天下の聖拳ジムがオレを欲しがるとはな。

 

 だが残念ながら、現時点ではプロ入りは考えていない。

 ボクシングは好き、というかオレの存在証明みたいなものだ。

 気弱ないじめられっ子だったオレが今こうなれたのも、全てボクシングのおかげだ。

 しかしオレにも立場というものがある。


 気取るわけじゃないが、オレは剣持コンツェルンの跡取りだ。

 学生時代は比較的自由に生きるつもりだが、

 大学を卒業したら、親父の後を継ぐつもりでいる。

 多分、それが一番賢い生き方だ。


 でもそれで全て満足できるのか?

 いやそんなことを考えても埒がない。

 しかしプロか、正直今まであまり考えたことがなかったな。

 まあいい、とりあえず今日は家に帰ろう。

 親父の奴がオレに話があるそうだからな。

 そしてオレは校門まで歩き、オレの帰りを待っていた自家用車のリムジンに乗り込んで、

 少しぼうっとしながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 剣持らしい対応でしたね! でも剣持なら受験勉強とプロを両立できそうなので、是非プロになってほしいですね!
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