最終話 そこそこからの卒業
「け、健太郎、大丈夫?」
「いやあんま大丈夫じゃねえかも……」
里香が包帯で固定された健太郎の右手を心配そうに見ながら、そう言った。
豪快なRSC勝ちで初優勝を飾った健太郎だが、その代償は大きかった。
医務室でリングドクターから、
右手の人差し指と中指が骨折していると言われた。
とりあえず応急処置はしてもらったが、
この後すぐに近くの病院へ行く予定だ。
「雪風、そろそろ病院へ行く……ん?」
忍監督がそう言い掛けたところで、ドアががちゃりと開いた。
すると色黒の青年――武澤が健太郎に近づいた。
「た、武澤さん!?」
「すみません、少し雪風と話していいでしょうか?」
「ああ、構わんよ。 だがなるべくなら早くしてくれ」
「はい」
と、武澤は忍監督に許可を貰った。
そして武澤は微笑を浮かべながら、こう言った。
「……右手を怪我したのか?」
「はい、指が二本折れてます」
「そうか、まあ最後のあのパンチの後遺症かもな?
観客席から観てても、インパクトの瞬間すげえ音したもんな」
「……ええ、当てた瞬間、右拳に激痛が走りましたよ」
「まあでも勝てて良かったじゃん。 これで初優勝だろ?」
「え、ええ……ありがとうございます」
「雪風、良い試合を観せてもらったよ。 うん、本当に良い試合だったよ。
なんか俺ももう一度本気でボクシングに関わってみたくなったよ」
「た、武澤さん……」
武澤の言葉に健太郎は少し涙ぐんだ。
すると武澤は右手を健太郎の左肩に置いて――
「そんな顔すんなよ? まあとにかく今日の試合を観れて良かったよ。
じゃあな、雪風。 またいつか何処かで会おうや」
「……は、はい」
武澤はそれだけ言い残して、颯爽とこの場から去った。
健太郎は武澤のその後ろ姿を見て、胸がつまる思いがした。
よく分からない感情だが、ボクシングやっていて良かったと思えた。
「……健太郎、どうしたの?」
「……い、いや何でもねえよ」
そう言って健太郎は里香に見えないように涙を拭った。
「それじゃそろそろ病院へ向かうぞ。
そちらの君も同行してくれるか?
こういう時、女手があると色々助かるからね」
「はい、是非!」
それから健太郎達は試合会場の近くのタクシー乗り場で、
タクシーに乗り、そのまま近く市営病院へ直行した。
そしてしばらく待ってから、健太郎は医師の診断を受けて、
きちんとした形で治療を受けたが、医師は厳しい表情でこう言った。
「指が完治するには最低でも三カ月はかかりますね。
でもその後にまたボクシングするのは、医者としてはお勧めできません。
ですから今年は大会に出場することは諦めてください」
医師から宣告されたボクサーとしての引退勧告。
その言葉を聞くなり、忍監督は軽くよろめいた。
だが当の本人――健太郎は意外と涼しい顔をしていた。
「そうですか、でも普通の生活をしていれば、
ちゃんと指は治るし、後遺症もないんですよね?」
「ああ、そうだよ。 出来れば完治した後でも
ボクシングはもうしない方が良いね。
まあ厳しい言い方かもしれないけど、君はまだまだ若いからね。
一時の感情に溺れず、後悔しない選択肢を選ぶべきだよ」
「そうですか、分かりました」
「それじゃお大事に」
「はい、失礼します」
そう言って健太郎と忍監督は診察室を後にした。
すると待合室で待っていた里香がこちらに近づいてきた。
「ど、どうだったの?」
「全治三か月だとさ。 今年の公式戦はもう諦めろって言われたよ」
「そ、そんな……」
残酷な現実に里香は思わず涙ぐんだ。
だが健太郎は落ち着いた雰囲気でこう言った。
「里香、そんな顔するなよ。 俺は後悔なんかしてねえからさ。
なんというか本当の本当に全力を出せたと思ってる。
だからもうボクシングに未練はねえよ……」
「……健太郎」
「忍監督、お話があります!」
健太郎はいつになく真剣な表情でそう言った。
忍監督は健太郎がこれから何を云うか、
おおよその見当はついたが、黙って健太郎の言葉を聞いた。
「俺、今日限りでボクシング部を退部します!
ですから退部の許可をください!」
「……雪風、本気か?」
「はい!」
「……そうか、まあお前は普通科だし、右手が治るには最低三カ月は
かかる。 そうなればインターハイ予選も国体予選にも間に合わない
からな。 分かった、お前の退部を許可しよう。 但し気が変わったら
いつでも俺に復部を申し出ろ! 俺はいつまでも待ってるぞ」
「いえ俺は復部する気はありません。
今後は真面目に受験勉強に専念します。
忍監督、今まで本当にお世話になりました」
健太郎はそう言って深々と頭を下げた。
すると忍監督は数秒程、黙っていたが
最後に労うようにこう告げた。
「ああ、俺も今日の試合では良い夢を見させてもらったよ。
まあ本音を言えば、お前を失うのは惜しい、惜しすぎる。
でもボクシングだけが人生じゃない。
だから俺はお前の今後の人生の幸福を願うよ」
「か、監督……」
「とりあえず俺は先に行って、表で待ってるよ」
そう言って忍監督は踵を返した。
その姿を見ながら、里香はこう言った。
「け、健太郎。 本当にボクシング辞めるの?」
「ああ、もう悔いはねえよ。 里香、病院の外へ行こうぜ」
「う、うん」
十分後。
病院の正面玄関から出た健太郎達は近くのベンチに腰掛けた。
二人はしばらくの間、黙っていたが健太郎がぽつりぽつりと喋り出した。
「……俺は今日の試合で全てを出しつくしたと思う。
云うならば、今日の試合が俺のボクサーとしての最高到達点
だったと思う。 だからその姿を皆に見せられてよかったよ」
「で、でも健太郎、あんなに頑張ってたじゃない」
「ああ、自分で言うのもアレだが、本当に頑張ったと思うよ。
でもなんというかな、燃え尽きたような感じがするんだよ。
だから俺はもうボクシングを辞めるよ。 未練はねえさ」
「……健太郎」
健太郎がそう言うと、二人はしばしの間、黙り込んだ。
しかしその静寂を破ったのは、意外な人物であった。
「おい、雪風!」
「へ? 誰……って、け、剣持っ!?」
急に現れた剣持に健太郎も流石に驚いた。
「え? え? なんでお前がここに居るんだよ?」
「……オレも病院へ担ぎ込まれたんだよ。
なにせテメエに盛大にぶっ倒されたからな」
「あ、ああ……それはお気の毒に?」
「……テメエ、ぶっ倒した本人がそれを言うか!?」
「ま、まあ……そうだよな、アハハハ」
シリアスな状況で微妙な関係の人間が乱入してきた為、
流石の健太郎も戸惑っていた。
俺もアレだが、こいつも大概空気読めないな、と内心思う健太郎。
「で剣持、俺に何か用か?」
「……テメエ、ボクシングを辞めるって本気か?」
怒りに満ちた目でそう問う剣持。
だが健太郎はそれに臆することなく、静かにこう返した。
「ああ……右手の指を二本骨折して、全治三か月なんだよ。
多分、インターハイ予選も国体予選も間に合わねえ。
だからこれを機に退部して、受験勉強に専念するよ」
「お前……オレから勝ち逃げするつもりか?」
「ん? まあ、そうかもな」
「……ふざけんな、もう一度全国の舞台でオレと戦え!
今度こそオレがお前を倒す!」
あまりにも一方的な剣持の言葉に健太郎は軽く苦笑した。
「剣持、お前見かけずによらず熱いキャラだな?」
「うるせえ! とにかくリベンジさせろ!」
「……無茶苦茶だな、お前」
「おい、剣持! お前、何してるんだ!?」
と、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
そしてその人物がこちらに駆け寄ると、
ベンチの近くの照明で顔が明らかになった。
「よう、影浦くん。 優勝おめでとさん」
「へ? 雪風……くん? ああ、ありがとう?
って剣持、またテメエは雪風くんに絡んでたのか?」と、影浦。
「うるさい、影浦。 これはオレと雪風の問題だ!」
「いやなんか傍から見ても、言いがかりつけてるようにしか見えんぞ」
「……この野郎、ボクシング辞めるとか言ってんだよ!?」
「……えっ?」
と、影浦は一瞬驚いたが、すぐ真顔になった。
そして自分の左手を剣持の右肩に置いた。
「仮にそうだとしても、お前にそれを止める権利はねえよ」
「……でもよ、それじゃあまりにも勿体ねえよ」
と、絞り出すような声でそう言う剣持。
それは影浦も同意だったが、その言葉には同調しなかった。
「まあボクシング続けるのも、辞めるのも全ては本人次第だ。
だから俺達が口出す問題じゃねえ。 ほら、剣持。
お前もまだダメージが残ってるんだから、旅館に戻るぞ」
「……ああ」
「じゃあな、雪風くん。 ほら、剣持、タクシー乗り場へ行こうぜ」
そう言って二人はこの場から去ろうとしたが、
剣持は途中で後ろに振り返って、こう一言漏らした。
「……雪風、オレはリングでお前を待ってるぞ」
「剣持、ありがとな。 でももうリングで会うことはないよ」
健太郎は清々しい表情でそう返した。
すると剣持はやや複雑な表情でこう言った。
「……そうか、そりゃ残念だ。 じゃあな、雪風……」
「ああ。 じゃあな、剣持」
そして今度こそ剣持はこの場から去った。
その姿を健太郎と里香は黙って見据えていた。
「やれやれ、騒がしい奴だな」
「あの人、きっと健太郎のことが好きなのよ。
わたしには何となく分かる」
不意に里香がそう言った。
すると健太郎はやや間を置いてから、両肩を竦めた。
「……よせよ、男同士で気持ち悪い」
「……でもちょっと羨ましいかな」
「……里香」
健太郎はベンチから立ち上がり、真面目な顔で里香の名を呼んだ。
すると里香は優しい声音で「何?」と聞き返した。
健太郎は二回ほど、深呼吸して真っすぐ里香を見据えた。
「里香、俺はお前が好きだ! だから俺と正式に付き合ってくれないか?」
やや間を置いてから、里香は「うん、いいよ」と頷いた。
「俺、こんな性格だけど頑張って性格変えるよ。
もっと空気を読むし、もっと里香を大切にするよ」
「ううん、健太郎。 無理に変える必要はないよ。
わたしはそういう健太郎が好きになったんだから……」
「里香……」
「健太郎……」
そう言葉を交わして、二人は抱き合った。
「……ようやくちゃんと自分から好きと言ってくれたわね」
「……ずっと自信がなかったんだ」
「……自信?」と、問う里香。
「ああ、俺は里香はずっと来栖が好きなんじゃないかと思ってた。
来栖と俺じゃ勝負にならねえ。 そう思って自分が傷つかないように
そこそこの関係で良いと思っていた。 でももうそこそこじゃ満足できねえ!
里香を来栖にも、誰にも渡したくねえ!
これが俺の嘘偽りない本音だよ……」
すると里香は自分のおでこを健太郎のおでこに当てた。
やや驚きながらも、健太郎も顔を逸らさず、
至近距離で里香の顔を見据える。
「……わたしも健太郎が好き」
「……そうか」
「……うん、健太郎は?」
「……もちろん好きだ」
「……そう、じゃあこれからもよろしくね」
「ああ!」
健太郎と里香がお互い見つめ合う。
里香が大きな瞳で健太郎を見ている。
健太郎もまた切れ長の瞳で里香を見つめる。
そして気が付けば、二人は口づけを交わしていた。
それからしばらく二人は抱き合っていた。
こうして健太郎と里香は正式に付き合うようになった。
そこそこで満足していた男が勇気を振り絞って、
そのそこそこから卒業した瞬間でもあった。
こうしてそこそこのスペックだが、性格がアレで彼女が
できなかった男にようやく彼女ができた。
それから新学期が始まり、健太郎と里香は順調に交際を重ねて、
真面目に受験勉強に取り組み、共に志望校に合格。
そして年が明けて三月になり、健太郎達は卒業式を迎えようとしていた。
残すところエピローグのみです。
エピローグは明日の昼頃に投稿する予定です。
次回の更新は2020年10月4日(日)の予定です。
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