第七十話 もうそこそこじゃ満足できねえ!
一方剣持陣営の宮下監督は予想外の事態に焦りの色を見せていた。
「まさかお前が同じ相手に二度もここまで追い詰められるとはな。
正直信じられん。 だがまだ1ラウンドある。
いいか、絶対に最後まで諦めるな。 最後の最後まで戦い抜くんだ!」
「……わかってるッスよ、確かにポイントではリードされてるが、
慌てる必要はないっスよ。 残り3分くらいなら全力で戦えますよ!」
やや慌て気味の宮下監督を諭すように、剣持がクールにそう言った。
「そ、そうか。 どうやら俺の方が焦っていたみたいだな」
「気にする事はないですよ。 実際雪風は強い、良いボクサーだ。
だが俺も伊達や酔狂でボクシングをしてませんよ。
同じ相手に二度負けるようじゃ勝負師失格ですからね。
でもこれだからボクシングは面白い、だけど面白いままでは終わりませんよ。
……最後に勝つのは俺ですよ」
そう力強く言い放つ剣持に宮下監督が洗ったマウスピースを手渡す。
それを口の中に押し込み、剣持はこう告げた。
「それじゃ戦ってきます。 誰の為でなく、俺自身の為に……」
そして最終ラウンド第3ラウンドのゴングが鳴った。
健太郎はがっちりとガードを固めて、重心を後ろに置いて構える。
対する剣持はがっちりと両腕を曲げて、
ウィービングしながらリング中央へと進む。
――そういや自分の事も大事だが、この試合は彼女も観てくれているんだな。
――彼女、氷堂愛理とは複雑な間柄だ。
――剣持家と氷堂家は不倶戴天の敵だが、俺は彼女に好意を寄せていた。
――しかし当時の俺は気弱ないじめられっ子。
――彼女は俺のそういう姿を見て、時折冷笑したが、時々は庇ってくれた。
――でも俺としては後者の方が堪えた。
――その時の俺を見る彼女の目は憐憫に満ちていた。
――それは冷笑されるよりも辛く、そして屈辱的であった。
――それから剣持一族が与党での派閥争いで負けて、大阪へ移住した。
――そこでも虐められたが、心機一転してボクシングを始めたんだっけな。
――今にして思えば、アレが俺の人生のターニングポイントだな。
――そして高校生になった今、強くなった俺の姿を彼女に観てもらう。
――だから彼女の前でダサい姿を晒す気はねえぜ!
健太郎と剣持の体が接近する。
剣持が至近距離から速いワンツーを放った。
健太郎は剣持のワンツーを躱し、逆に五月雨のような左ジャブを連射する。
だが剣持も負けてない。
健太郎のジャブを一発、一発丁寧に躱して、肉迫する。
お互いの息がかかるような至近距離。
従来の健太郎ならこの危険な距離での打ち合いは避けて、
足を使うところだが、この場はあえて足を止めて接近戦で正面から打ち合う。
――このまま判定勝ち狙いでいくのが、そこそこに賢い選択肢だ。
――だがもう俺はそこそこでは我慢できねえ。
――少なくともこの試合に関しては、全力を尽くす。
健太郎はそう胸中で強く念じながら、
剣持の放つ破壊力ある左右のフックをガードする。
ガードする度に腕がビリビリと痺れる。
だが健太郎もすかさずショートパンチの連打で応戦する。
――そういえばボクシングを始めた時はもっと夢を見ていたよな。
――自分には無限大の可能性がある、みたいに思ってたっけ?
――でもそれが根底から崩れたのは、彼――武澤さんのあの試合からだ。
数年前に武澤が挑んだ日本ライト級タイトルマッチ戦。
序盤から一進一退の攻防が続いたが、最終ラウンドに武澤がダウンを
奪ったが、レフリーはスリップダウンを宣告。
そして勝負は判定に持ち込まれて、武澤は僅差で敗れた。
あの試合に関しては、武澤の勝ちであった。
健太郎でなく他のジムの会長、トレーナー、
またその時、会場に居たボクシングファンの多くもそう思った。
だがそれ自体はよくあることだ。
問題はその後だった。
武澤は「また一からやり直します!」と報道陣の前で、
高らかにカムバック宣言した。
しかしその数週間後、彼の右目が網膜剥離になり、
強制引退となった。 その時、健太郎は心底恐怖した。
網膜剥離になれば、基本的にボクサーは強制引退させられる。
その事は頭の中では理解しているつもりであったが、
まさか身近な人間なそのような状況に追い込まれるとは、
想像もしてなかった。
――あの時の武澤さんの表情は多分一生忘れないだろう。
――まさに生きる気力を無くした人間の眼だった。
――そして俺はそんな彼に何も言葉をかけられなかった。
そしてこう思った。
このボクシングという競技はとてつもなく残酷だと。
そしてこうも思った。
でも正直自分でなくてよかった、と。
それから健太郎はボクシングにおいても、
そこそこ頑張る程度にしたし、そこそこ以上やる気もなかった。
それが賢い選択肢だし、自分も傷つかないで済む。
でも本当にそれでいいのか?
と、いう気持ちも湧き上がって来た。
それを明確に感じるようになったのは、
健太郎が数年ぶりに神山ジムで武澤と再会してからだ。
多分武澤さんは、ここ数年本当に苦しんだだろう。
でもそんな彼がトレーナーとして、ボクシングに関わろうとしている。
そこに健太郎は何とも言えない感情を抱いた。
そう、そこそこは確かに自分も他人もそんなに傷つけることはない。
要らぬ嫉妬も買わないし、他人から露骨に馬鹿にされることもない。
時代はもう令和だ。
『明日の翔』のような世界はもう時代遅れどころか、化石扱いなのだ。
でもそれで本当に満足できるのか?
いや悔いは残らないのか?
と、自問自答する健太郎。
次の瞬間、剣持の左右のフックが狂ったように吹き荒れた。
健太郎は両腕を折り曲げて、その怒涛のようなフックをガードする。
えげつない連打だ。 こりゃクリーンヒットを貰うわけにはいかねえな。
でもなんというか悪くない感じだ。
いやハッキリ言えば最高のシチュエーションだ。
高校四冠王の天才ボクサーが意地と矜持をかけて、
全力で自分を倒そうとしている。
勿論、わざわざこちらが負けてやるつもりはない。
でも少なくともこの瞬間だけは、全身の血が滾り、
心の中が説明しがたい充足感で埋めつくされた。
――そう、こんなシチュエーションはもう長い人生でも今後ないかもしれん。
――ならば今、この瞬間だけでも心の底から本気になりたい!
――もうそこそこは嫌なんだ。 少なくともボクシングだけは妥協したくない。
――だから俺は全力で戦う、それが俺のボクサーとしての矜持だ!
そして次の瞬間、健太郎の左腕がふいに下がったのはその一瞬であった。
すると剣持はクロス気味に右ストレートを合わせてきた。
その放たれた右ストレートは綺麗に健太郎の顎を打ち抜いた。
健太郎の腰がすとんとキャンバスに落ちかけた。
それと同時に観客が凄いどよめきをあげる。
だが健太郎も負けてはいない。
意識がやや朦朧とするなか、歯を食いしばり素早く体勢を立て直した。
この機を逃すまいとパンチを打ち込んでくる剣持と真正面から打ち合う。
――よし、今ので剣持はこちらが左ガードを下げたら、
――右を合わせるイメージを持ったな。
――少々痛かったが、手品を成功させるには奴に右を打たせる必要がる。
と、思いながら再びガードを固める健太郎。
観客席から沸き起こる歓声と怒号。
健太郎と剣持の視線が交差する。
剣持は必死な形相だ。 そしてそれは健太郎も同じだった。
このわずか3分間における攻防。
短いようで長く感じる特別な時間。
今この時、この瞬間の為に俺はボクシングを続けていたのかもしれない。
だから最後まで全力を尽くして戦う。
健太郎が覚悟を決めてラストスパートをかけるべく、
猛烈なラッシュを繰り出した。
健太郎は左、右、左、右と渾身の力を込めて連打を繰り出す。
ガードする剣持の両腕に強烈な衝撃が走る。
だが健太郎はガードの上から、お構いなしに猛ラッシュを浴びせる。
ぐらぐらっと揺れながら、
剣持がニュートラルコーナーに追い詰められていく。
剣持の背中がロープにくっついた。
しかしガードは下げずしっかり顔面を守っている。
健太郎の左右の拳が剣持の両腕をめまぐるしく打ちつづけた。
連打、連打、連打。 痛烈な左右のワンツーの連打が放たれる。
だが次第に健太郎のスタミナも限界点に達しようとしていた。
剣持の眼が鋭く光る。
健太郎の放った右フックを躱して、
左のボディリバーブロウを完璧なタイミングで打ち込んだ。
強烈なボディを喰らった健太郎の体が大きく折れ曲がる。
剣持はこの間隙を逃さなかった。
綺麗なモーションのワンツーパンチを顔面に叩き込む。
健太郎の腰が再び落ちかける。
そこから追い打ちをかけるように、左右のフックを強引に叩きつけた。
だが健太郎も懸命に気力を振り絞る。
左フックから右ストレートのコンビネーションを放つ。
それを待ちかねていたように、剣持は小さく笑った。
健太郎の右ストレートを短い動作で躱すと、
そこからクロスさせるように左フックをカウンター気味に合わせた。
健太郎は身体をぐらつかせたが、必死に耐えた。
ダメージはあるが意識はしっかりしている。
ここから気力と気力、精神力と精神力による消耗戦だ。
健太郎はそう覚悟を決め前へ出る。
健太郎の鋭くて回転力のある左ジャブがトップスピードで吹き荒れた。
しゅっしゅっという音がリズミカルに響き、容赦なく剣持に襲いかかった。
顔面、顎、鼻と的確にスナップの利いたジャブが命中する。
威力もさることながら、的確に相手の急所を突く理想的なジャブであった。
「雪風、頑張れ! 絶対下がるなよ!
ポイント的にはまだ互角だ。焦らず攻めろ!」
「そうだ、雪風! 最後まで諦めるな!」
健太郎の意識がやや混濁する中、
観客席から香取や新島の声援が飛び交う。
そうだ。 俺は……俺は一人じゃない。
俺だけでなく部活の仲間が、友達が見守ってくれている。
こんな状況で惨めに負けるわけにはいかない。
俺は……俺は勝つ為にここに居るんだ。
健太郎はそう心に刻み、ひたすら左ジャブを繰り出した。
だが剣持も歯を食いしばりながら、
健太郎の繰り出すジャブを相討ちで打ち返した。
左と左の鋭い差し合いが続く。
相討ち覚悟の剣持の気迫が健太郎をたじろがせる。
頭が痛みでぐらぐらする。 呼吸するのも辛い。
身体の至る所が痛い。 だがそれがどうした。
ボクサーなら皆それに耐えている。
俺だけが特別じゃないんだ。
皆、このリングの上で勝利と栄光を掴む為に戦っているんだ。
……だから俺は前へ出る。 もうそこそこで満足したくねえんだよ!
健太郎は見栄も恰好も捨てて、ただがむしゃらに前へ出て剣持と打ち合う。
双方のスタミナは既に限界に達している。
呼吸するのも困難だ。
それでも健太郎の心と体は下がる事を拒むように、
果敢に前へ進む。 この異様な粘りと執念に剣持も思わず戦慄を覚えた。
――凄えよ、雪風。 お前マジで凄いよ。
――雪風、やはりお前は俺の天敵だ!
――ならば心行くまで打ち合ってやるぜ!
剣持は身体で八の字を描きながら、更に強烈な左右のフックを振るった。
当たれば即座に相手を倒せる強打。
だが健太郎は慎重にパンチを見切りながら、
時にはガード、ブロック。 時にはスウェイバックなどで回避する。
逆に稲妻のような左フックで剣持の頭部を強打。
返しの右ストレートで剣持の鼻を強打。
剣持の鼻から鮮血が噴き出す。
しかし剣持はなんとか踏みとどまり、
右フックで健太郎のテンプルを抉る。
あまりにも激しい打撃戦に場内も、
リング上も異様な雰囲気に包まれていた。
しかし両者は引かずにリング中央で、再び激しく打ち合った。
観客席の里香は健太郎が遠い世界へ行くような感覚に襲われていた。
このまま自分を見捨てて、遥か彼方にある戦いの世界――阿修羅地獄へ
健太郎が突き進んでいるように思えてきた。
――健太郎、駄目! 行かないで!!
しかし里香の声は届かず、両者は戦い続けている。
健太郎のワンツーが剣持の顔面を捉えた。
剣持が珍しく後退する。 健太郎の左フックが剣持の肝臓を強打。
だが次の瞬間、健太郎はパンチを貰ってないのに身体を左右に揺らした。
――も、もしかしてスタミナ切れか?
――誘いかもしれんが、ここは攻めて攻めて攻め抜くぜ!
剣持は下がり気味になった健太郎の左ガードに、
余力を振り絞った右ストレートでクロス気味に合わせようとした。
だが次の瞬間、健太郎がリング上でにやりと笑った。
――かかったな、剣持!
――もうスタミナにも余裕はねえ、だから最後の策で行くぜ!
健太郎はそう思いながら、軸足を左足から右足に変えた。
つまり右構え型から左構え型にスイッチしたのである。
すると剣持の右を紙一重のタイミングで回避。
そして逆に左構え型スタイルから、
左ストレートでカウンター気味に剣持の顎を打ち抜いた。
――これが俺の手品の一つ!
――いくら剣持とはいえ初見でこの攻撃は躱せまい!
――そしてこれも全ては次の山猫パンチを打つ布石だ!
剣持の口からマウスピースが吐き出された。
それと同時に健太郎はまた軸足を右足から左足にチェンジした。
再び右構え型スタイルになる健太郎。
そして全神経を右拳に集中させた。
――剣持、お前相手にそうそう大砲が当たらねえことは分かっていた。
――だから一瞬でもいいから、お前の意識と集中力を断つ必要があった。
――そして舞台は整った。 だから全力で行くぜ!
――喰らえ、剣持! これが俺の山猫パンチだ!
健太郎は前へ出る力を利用して、右拳を剣持の顎に打ち込んだ。
そしてインパクトの瞬間に内側に捻った。
健太郎の右拳に凄い衝撃が走り、それが激痛と変わった。
観客たちが激しくどよめいた。
そのどよめきを訊きながら剣持は、マットの上に背中から崩れ落ちた。
観客席の里香達は、呆然としながらその光景を眺めていた。
リング上の剣持はまだ長々とマットの上に横たわっている。
そしてレフリーは試合を止めて、健太郎の勝利をコールした。
第3ラウンド2分48秒。
健太郎と剣持の三度目の戦いはこうして終わりを告げた。
リング上で祝福される健太郎と対照的に剣持は、
担架で医務室まで運ばれる。
健太郎はその姿を見ながら、微笑を浮かべた。
――ようやく全ての力を出し切ったよ。
――だからもう満足したよ、だから悔いはないよ。
里香はその姿を見ながら、声を立てずに泣いていた。
自分が何故泣いているかは、よく分からなかった。
悲しいのか、嬉しいのか、それすらも分からない。
ただ彼が――健太郎の姿を見ているだけで愛しく感じられた。
里香は涙で視界がぼやけるなか、リング上で立ち尽くす健太郎の
姿をしばらくの間、魅入られたように眺めていた。
ライト級決勝 雪風健太郎(関東代表・帝政学院高校) 2R2分48秒RSC勝ち
全国高等学校ボクシング選抜大会・ライト級 雪風健太郎(関東代表)初優勝
次回の更新は2020年10月3日(土)の予定です。
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