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第六十九話 ラバーマッチ(後編)


「どうやら雪風は昨年の夏の時のように、

 随分とお前のことを研究してきたようだな」


「……みたいっスね」


 剣持は宮下監督の言葉に曖昧に頷いた。

 すると宮下監督は両手で剣持の身体をほぐしながら、こう告げた。


「仮にも一度はお前に勝った相手だ。 だから油断は禁物だ。

 お前が夏の雪辱をしたいという気持ちは痛いほど分かるが、

 ここはお前も無理な打ち合いは止めて、ポイントを稼ぐんだ!」


「……絶対に嫌ですよ」


「……何?」


「俺があの惨めな敗北からカムバックした理由を教えてあげましょうか?

 監督、それはね。 あの野郎――雪風をぶっ倒す為ですよ。

 だからね、監督。 この試合だけは俺の好きにさせてください」


 剣持は真剣な表情で頭を下げてそう言った。

 宮下監督は剣持のその殊勝な態度に驚きつつも、

 何かを言うべきか、どう指示を出すか一瞬考えこんだ。


「お願いします、こんな我儘を言うのはこの試合だけです」


「……分かった。 この試合だけはお前の好きなように戦え!」


「……ありがとうございます」


 宮下監督は悩んだ末、ここは剣持の自由にさせることにした。

 だが低い声で一言だけこう告げた。


「お前の奴を倒したいという気持ちは尊重するが、

 あまり空振りや無駄打ちはするなよ?」


「ええ」



 一方の青コーナーの健太郎陣営は非常にリラックスしていた。

 忍監督は手際よく健太郎に嗽をさせて、マウスピースを優しく口に入れた。


「良いペースだぞ。 とにかくこのままのペースで

 奴のリズムを崩すんだ。 そうすればお前にも十分勝機はある!」


「はい!」


 健太郎は忍監督に激励されて、椅子から立ち上がった。

 第2ラウンドのゴングが鳴ると、

 剣持が猛ダッシュで距離を詰めてきた。


 剣持はウィービングしながら、距離を詰めて左ジャブを繰り出した。

 それを健太郎はパーリングで防ぎ、

 逆に距離を詰めて右ストレートを放つ。


 剣持は短い動作のヘッドスリップで健太郎の右を躱して、

 左右のワンツーパンチを健太郎の顔面に叩き込む。

 健太郎の腰がわずかに落ちかけた。


 健太郎はそれを両足の踏ん張りで耐え、体勢を持ちなおして、

 左フックを振るい、つづけて右フックを見舞う。

 その両方ともがかすりもせず、

 逆に接近してきた剣持が左右のフックを振り回して突進してきた。



 健太郎は足を使って左右のフックを回避して、距離を取りながら、

 機関銃のような左ジャブを連続して、剣持の顔面に叩き込んだ。

 しかし剣持はそれでも前進を止めない。


 剣持は射程圏内に入るなり、身体で八の字を描き、

 再び左右のフックの連打を繰り出した。

 健太郎はそれを両腕でガードしながら、じわりじわりと後退する。



 多少強引だが剣持は手を止めず、フックの連打をひたすら放つ。

 息と息がかかる至近距離で健太郎と剣持の視線が交差する。

 健太郎の表情はまだ余裕を保っている。

 だが剣持はここで下がらず、一センチでも前へ出る選択肢を選んだ。



 ――今ここで前へ出なくて、いつ前へ出る。

 ――雪風、お前に受けた屈辱は今日晴らさせてもらうぜ!



 剣持は連打を浴びせながら、胸中でそう念じる。

 次第に健太郎のガードする腕も下がり始めた。

 健太郎の眼にも僅かに動揺の色が浮かびあがる。



 剣持は至近距離で左右のワンツー、フックの連打を嵐のように浴びせる。

 その猛攻を受けながら、健太郎はロープを背にしながら、

 ガードを固めて連打の嵐を懸命に防ぐ。

 一発一発が重くて響くパンチ。



 まともに喰らえば、簡単に意識が飛びそうだ。

 だが当たらなければ問題ない。 

 そう胸中で念じながら、健太郎はロープの反動を使い、

 剣持の放つ連打を防ぎながら、僅かな隙を突いて、左ジャブを主体とした

 ストレートパンチで的確に急所を狙い撃つ。



 次第と剣持の表情に焦りと疲労の色が浮かぶ。

 連打は喰らえば致命傷を負うが、打つ方にも負担がかかる。

 現に剣持の無尽蔵なスタミナにも陰りが見えている。

 剣持はそれを確認すると防戦から攻勢に転じた。



 健太郎は剣持のパンチをブロックしながら、

 鋭く速いジャブを顔面に叩き込む。

 だが剣持は下がらない。

 健太郎の左ジャブを浴びて顔を腫らしながらも、懸命に前へ出る。



「そうだ、剣持。 絶対に下がるな。 

 どついて、どいつて、どつきまくれ!」


 観客席から既に自分の試合を終えた影浦蓮がそう怒声をあげる。

 ちなみに影浦は決勝戦を判定勝ちで勝利を収めて、

 高校三冠を達成したばかりだ。


「雪風っ! 相手の突進にビビるな! そのままジャブで攻めろ!」


「そうだ、雪風。 ポイントでは押してるから、焦らずそのまま戦え!」


 観客席から香取や新島の声援が飛び交う。

 剣持はその声援を気にする素振りも見せずに、

 前へ前へ、一センチでも多く前へと歩んだ。

 パンチを出す腕が少し重い、

 体を支える両足も痺れる。 だがここで退くわけにはいかない。


 ここで諦めたらこの数カ月の練習が無駄になる。

 だから苦しくても、剣持は無理やり闘志を振る立たせた。



――そうだ、俺は過去の弱い自分を乗り越えて、

――自分自身に打ち勝つ為に戦ってるんだ。

――その為に厳しい練習に耐えてきた。

――それも今この日の為に、この瞬間の為に……



 剣持の疲労した身体に溢れんばかりの力がみなぎる。

 だが健太郎にもボクサーとしての矜持と意地がある。

 健太郎は足を止めて真正面から剣持を迎え撃つ。

 二人のボクサーとしての誇りと意地が激しく衝突した。


 健太郎は剣持のパンチを浴びながらも、

 相討ち覚悟で連打の雨を繰り出す。

 被弾数は健太郎の方が多かったが、

 一発のパンチの重さで剣持も思わず身体をぐらつかす。

 超接近戦からお互い一歩も引かず、とことん打ち合った。


「……凄い、凄いよ、健太郎」


 来栖がリング上の健太郎を見据えながら、興奮しながらそう呟いた。


「うん、雪風くん。 本当に凄いよ!

 雪風くん、頑張って、負けないで!!」


 早苗も力いっぱいあらん限りの声で声援を送る。

 周りの皆が声を枯らして声援を送る中、

 里香だけは声を出さず傍観していた。


「……里香ちゃん、どうしたの?」


「……なんか観ていて辛いよ」


「……どう辛いの?」


 里香の言葉に早苗が優しく問い掛けた。

 すると里香は複雑そうな表情でぼそりとこう漏らした。


「わたし、やっぱり健太郎が人を殴るのも、人に殴られるのも

 観ていて辛い。 それになんか健太郎が何処か遠く行っちゃいそうな

 気がするの。 ……上手く説明できないけど」


「……そうか、里香。 そんなに辛いなら無理に試合を観なくていいよ」


 来栖が優しくそう告げた。

 すると里香はしばらく考え込んでいたが、

 首を左右に振ってから、決意を固めた表情でこう言った。


「……いや試合は最後まで観るよ。 じゃないと多分後で後悔する」


「……そうか、なら里香の好きにするといいよ」


「……うん」



 ――健太郎、遠くへ行かないでね……



 里香はそう胸に刻み、視線をリングで戦う健太郎の姿に向ける。

 里香の心配とは裏腹に、リング上で戦う健太郎の姿は、

 全身から活気と熱気が満ちていた。

 観客のどよめきのなかで健太郎は素早く動き、前へ前へと進む。

 そしてリング中央で剣持と激しく打ち合った。



 しかし剣持のデンプシーロール気味の左右のフックの回転力が

 増しかけると、一端距離を取って左ジャブで剣持の動きを止めた。

 それだけではない。



 手数の上では剣持が勝っていたが、

 健太郎は剣持の打ち終わりの間隙を突いて、

 的確にクリーンヒットを命中させていた。



 一進一退の攻防が続くなか、第2ラウンド終了のゴングが鳴った。

 自コーナーに戻ってきた健太郎の顔は、わずかに腫れ上がっている。

 健太郎は少し呼吸を乱しながら、椅子にどっしりと座る。


「すごいぞ、雪風。 どうみてもお前の優勢だ、観客もどっと湧いてたぞ」


 忍監督が健太郎の肩を揉みながら言った。


「後1ラウンドだ、たったの1ラウンド耐えるだけでお前の勝ちだ。

 だが相手も必至だ。 次のラウンド死にもの狂いで攻めてくるぞ、

 どうする? お前はどう戦いたい」


「……まあ定石で考えたら、ポイント有利なこの状況を生かして、

 焦る剣持に無理に付き合わず、判定勝ち狙いでいくのがベターでしょう。

 でもそれじゃ所詮そこそこ(・・・・)止まりだ!

 俺はこの試合に限っては、妥協したくないです」


「……そうか、お前はそうまでして自己主張する姿は初めてみたよ。

 でも所詮、周囲は結果でしかお前を見てくれんぞ?

 雪風、ボクサーは勝たなきゃ意味はないんだよ……」


「……分かってますよ。 それに策があるといえば策がある。

 既に餌巻きはしています。 だから監督! 最初で最後の我儘です!

 次のラウンドだけは俺の好きに戦わせてください!」


 何処か鬼気迫る表情でそう懇願する健太郎。

 すると忍監督もその熱意に打たれたのか、神妙な顔でこう返した。


「……分かった。 そこまで言うならお前の好きにするがいいさ。

 でも雪風、勝機はあるのだな?」


 忍監督の言葉に健太郎は「はい!」と大きな声で返事する。

 そして自信ありげな表情で口の端を持ち上げて、こう言った。


「剣持は天才です。 だから必ず俺の餌巻きに気が付きます。

 でもこの撒き餌は二重トラップなんですよ。

 まあ観ててください。 次のラウンド、ちょっとした手品をお見せしますよ」




次回の更新は2020年10月2日(金)の予定です。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 熱いですね! 剣持は二重トラップより先に策があったりとか!? 楽しみですね!
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