第六十四話 山猫対白鳥(スワン)・(前編)
「どうだ? バンテージきつくないか?」
「大丈夫ですよ、福山田監督」
財前は選手控え椅子の腰掛けて、監督の福山田にそう返した。
検診、計量共に無事にパス。
コンディションも良い、これなら全力で戦える。
そう思いながら財前はバンテージで固めた両拳をこつりと合わせた。
するとその時、控室のドアががちゃりと開いた。
部屋に入ってきたのは、この場に似つかわしくない妙齢の美人だった。
身長は171センチ、非常に整った顔たち。
雪のような白い肌に、桜色の唇。
髪は栗色のストレートのロングヘア。
そして黒いブラウスに黒のプリーツスカートという格好。
やや場違い感はあるが、周囲の選手や指導者が彼女に目を奪われたのも事実。
「……こんにちは、財前のお姉さん。 何か御用ですか?」
「こんにちは、福山田監督。 少し武士と話したいんですが、
よろしいでしょうか?」
「……ええ、構いませんよ。
ただ試合前なのでなるべく手短にお願いします」
「ええ、もちろんそれは承知してますわ」
すると細山田は財前から離れて、その空いたスペースに
財前の姉である財前貴美が進み、両腕を組んで弟を軽く見下ろした。
やや異様な空気な中、財前は姉にこう問うた。
「ね、姉さん、ど、どうしたの?」
「そうね、少しアンタに忠告しておきたいことがあるのよ?」
「ちゅ、忠告?」
「ええ、武士、今日の対戦相手のことは知っている?」
「あ、ああ。 確か東京の高校の選手でしょ?」
「……それ以外のことは知らないの?」
「う、うん、そうだけどそれがどうしたの?」
すると貴美は左手で自分の顎を軽く触り、こう言った。
「わたしもお前がこの大会でマークするのは、大阪の剣持拳至だけで
いいと思っていたわ。 でも今日の相手――雪風健太郎も注意した方がいいわ」
「……雪風? あまり聞き覚えのない名前だけど?」
と、軽く首を傾げる財前。
「いや全国的には無名だが、確かに雪風は良い選手だ。
お前にはあえて伝えてなかったが、昨年の夏のインターハイで
剣持相手にRSC勝ちしたハードパンチャーだ!」
細山田がさらりと自然な形で会話に加わった。
すると財前も少し真剣な表情になり、数秒ほど黙考する。
「細山田監督の言う通りよ。 全国的な実績はさして
ないけど、高校ボクサーにしてはかなりRSC勝ちが多いわ」
なる程、それは確かにハードパンチャーなのかもしれない。
ラウンド数が短い高校ボクシングにおいては、
どうしてもポイント優先な判定勝負になりがちだ。
というかアマチュアボクシングにおいては、それが基本的な戦い方だ。
だからアマチュアボクシングでは、判定で勝負が決まる事が多い。
そのアマチュア高校ボクシングで、RSC勝ち率がかなり高いのであれば、
確かに雪風は良い選手なのであろう。
しかし財前とてRSC勝ち率は高い方だ。 それに自信も実績もある。
だからたとえ姉相手といえど、
全てを聞き入れる気分にはなれなかった。
「姉さん、忠告は素直に受け入れるよ。
でもね、戦うのはボク自身なんだ。 だからリング上ではボクの
好きなように戦うよ。 ボクは姉さんの弟だけど、ボクサーでもあるんだ」
貴美は珍しく反論する弟に対して、少し驚いた。
しかし弟の言う事は正論であった。
それは弟の成長の証でもあり、姉の束縛に対する抵抗心でもある。
それ自体は責める気はない。 むしろ褒めてあげたい気分だ。
だが貴美が本当に伝えたいのは、そういうことではない。
なんというか雪風というボクサーに妙な違和感を覚えるのだ。
全国大会では最高ベスト8止まり。 RSC勝ち率は高いが、
全国大会では優勝経験はない。 だがあの剣持拳至に勝っている。
そこが妙に引っかかる。 だから貴美は諭すようにこう言った。
「武士、アンタ成長したのね。 わたしも嬉しいわ。
だから姉として最後に忠告しておくわ。
わたしが気になるのは、雪風が剣持に勝っているという事実なのよ。
ねえ、まぐれだとしても剣持相手にそうまぐれはおこせないでしょ?」
「……そうだね」
「でも雪風は全国大会ではベスト8止まり。
実績の上ではアンタの方が上よ、これは事実。
だけど仮にも剣持に勝った男。 だからこの大会で
一気に脚光を浴びる可能性があるわ。
だから剣持だけでなく、雪風にも警戒した方がいいわ」
財前がなんとなく姉の言わんとすることを理解した。
まあそうだな、あまり油断しない方がいいかもな。
そう思いながら、財前は優しい声音で姉に返答した。
「姉さん、ありがとう。 分かったよ、ボクは全力を尽くすよ。
とりあえず今は目の前の試合に集中するよ。
だから姉さんは観客席でボクの戦いを見守っててね」
「……そうね、分かったわ。 武士、頑張ってね」
そう言って貴美は踵を返した。
しばらくの間、控室に微妙な空気が流れたが、
その空気を変えるべく細山田監督がこう叫んだ。
「よし、財前! そろそろリングへ向かうぞ」
「はい!」
そして戦いの準備を終えた財前と細山田監督がリングへと向かった。
一方、健太郎もグローブやヘッドギアをつけて、
忍監督とリングへ向かう途中であった。
ちなみに先に試合が行われた香取と新島は、
共に判定負けという結果に終わり、
優勝の可能性が残されたのは、健太郎のみとなった。
なのでいやがおうにも気合が入る健太郎。
今日の試合は里香や早苗、そして来栖零慈も応援に駆け付けている。
友人の前で負けるわけにはいかねえ!
「よし、雪風。 そろそろ時間だ、リングへ向かうぞ!」
「はい!」
五分後。
健太郎と財前共に無事リングインを果たした。
それと同時に観客席から女生徒の黄色い声援が飛び交う。
殆どが財前に対してのものだったが、
健太郎の声援も僅かだがあった。
――里香、苗場さん、そして来栖。 ん? あいつは!?
――よく見ると生徒会長の氷堂愛理が観客席に居た。
――え? なんで氷堂が観に来てるんだ?
一瞬、思考が停止する健太郎。
だがレフリーが試合前の注意を始めると、我に返った。
――まあいいや。 とにかく今は目の前の試合に集中しよう。
――だから財前よぉ~。 悪いけどその男前の面をちょいボコらせてもらうよ。
――まあお前の応援団には恨まれそうだけど、それはそれで仕方ねえ。
――俺も遊びでボクシングやってるわけじゃねえからな。
そして試合開始のゴングが鳴り、両者ゆっくりとコーナーから出た。
山猫と白鳥の戦いが今まさに始まろうとしていた。
次回の更新は2020年9月27日(日)の予定です。