第六十一話 引退(リタイヤ)
「おう、お前も元気そうだな?」
「……ええ、まあ」
「ん? どうした、雪風?」
「い、いえ……何でもないです」
……ヤバい、何て言っていいか分からない。
俺は自分じゃ神経が太い方と思っていたが、
彼を――武澤さんを前にすると、生返事しかできなかった。
すると武澤さんは微笑を浮かべて、
左手で俺の右肩をポンと叩いた。
「ん? お前、もしかしてオレに気を使ってるのか?」
「い、いえ……」
「……まあオレがあんな形で引退したから、
お前がそうなるのも無理ねえだろうが、
心配するな、オレは今けっこう楽しく暮らしてるよ」
「……そうなんですか?」
「おうよ、だからこうして古巣のジムに顔を出したんだよ」
「……会長とか、時田さんに何か用があっあのですか?」
「ああ、実はオレ、知人のアマチュアのジムで
トレーナーすることになってな。
だからそれを神山会長と時田さんに報告しにきたんだよ」
「!?」
武澤さんがアマチュアのジムでトレーナー!?
俺は思わず驚いた。 あんな形で引退したのに、
またボクシングにかかわる気になったのか。
俺はそれを考えると、少し複雑な心境になったが、
心のどこかでそれを喜ぶ自分が居ることに気付いた。
「……トレーナー就任、おめでとうございます!」
「ありがとよ、まあトレーナーって言っても
ボランティアみたいなもんだけどな」
「……でも俺なんか嬉しいです」
「ん? 何がだよ?」と、首を傾げる武澤さん。
「武澤さんがまたボクシングにかかわることになった事がです」
「まあオレも引退後、色々あったけどよ。
なんかまたボクシングにかかわりたくなってな。
だからオレの新しいジムのジム生とお前が
時々スパーしてくれや」
「え、ええ……それは是非!」
「んじゃ時々このジムにも来るから、
見かけたら声をかけてくれよ」
「は、はい!」
「じゃあな、雪風。 お前も頑張れよ!」
「お疲れ様です!」
そう言って踵を返す武澤さん。
そして俺はしばらく武澤さんの後姿を見ていた。
そうだな、俺も頑張るか。
そう思って練習に戻ろうとしたところ、
香取が探りを入れるようにこう語りかけて来た。
「……今の人、誰?」
「ああ、このジムの元プロ選手だよ」
「そうか、で強かったのか?」
「ああ、無敗でライト級の全日本新人王になり、
全戦全勝で日本タイトルに挑んだボクサーだよ」
「……そりゃ凄いな」
「ああ」
「……で? その試合は勝ったのか?」
ん? 香取にしては珍しく食いついてくるな。
まあでも単純に武澤さんを見て、強そうな雰囲気を
感じ取ったのだろう。 だから俺は素直に話した。
「いや判定負けさ。 つっても相手のジムが超名門ジムじゃなかったら。
間違いなく武澤さんの判定勝ちだったろう。
俺の眼から見ても、あの試合はどう考えても武澤さんの勝ちだった」
「……そうか、それで引退したのか?」
「いや直接の原因はそれじゃねえよ。
むしろ負けた後も彼はリベンジに燃えてたよ」
「……それでどうなったんだ?」
「……網膜剝離が発覚して、強制引退さ」
「!?」
流石にこれには香取も驚いた表情で目を見開いた。
まあその反応が普通だわな。 俺も当時はマジで驚いたしな。
すると香取も空気を読んでか、それ以上は何も聞かなかった。
「まあ俺達も悔いの残らない高校ボクシング人生を送ろうぜ」
「あ、ああ……そうだな」
俺達はそう言葉を返して、再び練習を始めた。
しかし引退か。
俺自身はプロでボクシングをやるつもりはないが、
ならば俺はいつまでボクシングをやるつもりなんだ?
……。
まあ全国大会を前にして、考える事じゃないかもしれないが
引退について考えておく必要もあるかもな。
高校を卒業して、大学へ入学して仮にボクシング部に入部した
としても、選手として活動するなら、基本的には四年間だ。
少なくとも社会人になって、働きながら、
アマチュアボクシングに関わるつもりはない。
そういう意味じゃ高校で終わらせるのも一つの手だ。
だが例えその選択肢を選んだとしても、悔いの残らないようにしたい。
そういう意味じゃ今度の選抜大会は一つの試金石になる。
でも俺は奴等に負けるつもりはねえ。
だから今はやはり練習に専念すべきだ。
うん、やっぱりそれが一番の良薬さ。
そう気持ちを切り替えた俺はやや力を入れてシャドウを続けた。
次回の更新は2020年9月24日(木)の予定です。