第五十九話 プロとのスパーリング
気が付けば一月も終わり、二月になっていた。
三年生はもう少しで卒業式だ。
しかし三月に選抜大会を控える身としては、
そんな感傷に浸っている場合ではない。
そして今日からしばらくの間、
俺の古巣の神山ジムで練習するつもりだ。
既に監督の許可は取ってある。
だから俺は新島と香取の二人を引き連れて神山ジムへと向かった。
そして最寄りの駅から徒歩15分。
神山ジムは雑居ビルの三階と四階のフロアを借り、
プロのボクシングジムとして活動していた。
神山ジムはプロ加盟後、約二十年間、多くのプロボクサーを輩出したが、
新人王五人、日本王者三人、東洋太平洋王者二人を生み出しており、
育成能力にも定評がある。
まあ見た目はけっこう新しいし、清潔感もある。
ジムにはトレーニング機器やシャワー設備も完備されており、
フィットネスジムとしても使える。
「へえ、けっこう立派なジムなんだな」
と、新島が神山ジムのあるビルを見上げながらそう言った。
まあ最近のジムは大体こんなもんだよ。
漫画に出るようなボロいジムの方が珍しい。
「まあそこそこ名門のジムだからな。 んじゃ行こうぜ」
「ああ」「おう」
俺達はビルの階段を登りながら、ジムの前の扉へ足を進めた。
扉を引き開けて中に入ると、ジム内に流行の音楽が流れていて、
男子、女子問わない練習生及びボクサーが汗を流し、活気立っていた。
俺はとりあえず大きな声で挨拶する。
「こんにちわー!!」
「おう、久しぶりだな。 雪風じゃねえか!」
肩にスポーツタオルをかけながら、
神山ジム専属トレーナーのスキンヘッドが
トレードマークの時田さんがそう言った。
「お久しぶりです、時田さん」
とりあえず俺は礼儀正しく一礼する。
すると釣られるように新島も香取もお辞儀した。
「おう、雪風。 関東選抜大会優勝したらしいな。 やるじゃねーか!」
「いえこれも時田さんの指導の賜物です」
「はは、こいつー如才のねえ奴だ」
時田さんはやや気分を良くしたように笑った。
「会長から聞いてるぜ。 選抜大会に向けて練習したいんだよな?
それなら俺がビシバシ鍛えてやるぜ。
そんな所で突っ立ってねえで、早く着替えて来いや!」
「はい、わかりました」
「「失礼します!」」
俺達はそう返事して更衣室へと向かう。
俺は久々に顔を合わすジム生と談笑を繰り返しながら、ジャージに着替えた。
バンテージを素早く巻いて、ゆっくりと時間をかけて柔軟体操に入る。
「とりあえず久しぶりにお前のボクシングが見たいから、
身体が温まったらスパーな。
まずは雪風からな、そこ二人はその後な……」
「「「はい!!」」」
俺はシャドーボクシングを5ラウンド終えて一汗かいて、
スパーリングの準備に入る。
俺のスパー相手はフェザー級六回戦の吉沢さん。
プロ戦績7戦6勝(4KO)1敗。
昨年の東日本新人王では準決勝まで勝ち残っている。
相手としては申し分ない。
アマ経験はないが、ハートが強いインファイターだ。
俺はヘッドギアと14オンスのグローブを着けて、リングに上がった。
「よし、とりあえず二ラウンドな。 んじゃ始めろ!」
時田さんがそう告げ、ゴングが鳴ると俺達は同時に前へ出た。
至近距離からのショートパンチの打ち合いで、お互いしのぎを削る。
つうか吉沢さん、凄い形相だな。
まあプロのたたき上げの吉沢さんからすれば、
俺のようなアマチュア高校生ボクサーは気にいらないだろう。
だが俺も伊達や酔狂でボクシングをやってはいない。
吉沢さんがステップインと同時に鋭く速い左ジャブを繰り出す。
それを俺は慌てる事無くパーリングで防ぐ。
そこから更に吉沢さんがウェイトを乗せた右ストレートを放つ。
――よし今だ!!
俺は相手の右を綺麗に外し左ボディフックを喰らわせる。
吉沢さんの表情が一瞬歪む。
そこから教科書通りの綺麗なワンツーを顔面に打ち込む。
だが吉沢さんは下がらない。
プロボクサーとしての意地と矜持で高校生相手に負けるわけにはいかない。
一転して至近距離からの打ち合いになる。
打ち合いの最中俺と吉沢さんの視線が合う。
その眼は何があっても負けないという強固な意志を帯びていた。
――これがプロの意地だ。
――だが俺も真剣に身体張ってボクシングしているんだ!
俺は至近距離の打ち合いから逃げず、
真っ向から吉沢さんと激しい打撃戦を展開する。
お互いにパンチの応酬を繰り広げ、
上下にパンチを打ち分け我慢比べに徹する。
「ラスト30秒!」
時田さんの掛け声と共に俺は前へ前へと打ち合う。
ガードを上げる手も重い。
呼吸が乱れる中、口の中でマウスピースをしっかり噛み締める。
お互いのパンチがヒットしても両者とも一向に引かない。
苦しい無酸素運動が続く。
ビーというラウンド終了の音と共に俺達は打ち合いを止めて、
自分のコーナーへ戻る。
「はあはあはあ」と呼吸を乱す俺の傍に時田さんが寄り添いながらこう言った。
「いい打ち合いだ。前のお前にはなかった気合いの入ったボクシングだ。
六回戦といえどやはりプロは違うだろ? これがアマとプロの差だ。
前のお前には今みたいな死にもの狂いというか、
必死さが足りなかったが、
しばらく見ねえうちに随分根性ついたじゃねえか」
「はあはあ……は、はい。俺もマジでボクシングやってますから……」
「いいね。次のラウンドも逃げずに打ち合え。 いいか、絶対下がるなよ?」
時田さんの言葉に俺は「はい」と短く返事して、
マウスピースを口の中に入れた。
2ラウンド目も激しい打ち合いとなった。
俺もそこそこやるつもりだが、相手もプロ。
吉沢さんの全身から、高校生には負けられないという意地を感じる。
俺は鋭い左ジャブを繰り出しながら、相手を牽制する。
だが吉沢さんもヘッドスリップやパーリングなどの防御策を駆使して、
俺のジャブを防ぐ。
吉沢さんが頭を振りながら、ステップインして踏み込んでくる。
俺は渾身の力でチョッピングライトを放つ。
吉沢さんはそれを紙一重のタイミングで外して、左ボディフックを放った。
それがもろにリバーブロウとなった。
「うっ!?」
鈍い痛みと衝撃で俺の脇腹が悲鳴を上げる。
俺の動きが一瞬止まり、
狙い澄ましたような右ストレートが俺の鼻っ柱を捉えた。
ブシュッ……激しい衝撃と共に俺の鼻から鮮血が飛び散った。
俺はたまらず後ろに下がったが、
その機会を待ってたかのように、吉沢さんが前に出る。
俺はロープを背にして、
至近距離からの吉沢さんのショートパンチの連打を喰らった。
さ、流石プロの六回戦。 普通に強いぜ!
「下がるな、下がるな。 打たれたら打ち返せ!
苦しい時ほど踏ん張るんだよ!」
時田さんが大きな声でそう叫ぶ。
「雪風の奴、相変わらず打たれると下がるな。 あれが奴の欠点だ」
気がつくと時田さんの隣に神山会長が立っていた。
「あ、会長、お疲れ様です」
「ああ、しかし高校生がプロの六回戦相手にスパーとは少し厳しくないか?」
「いえいえ、雪風の本来の力なら問題ないですよ。 ただアイツは、
いざっていう局面になると、引くというか安全な選択肢を選ぶんですよ。
あれだけの右があり、ボクサーとしても優れているんスけど、
見かけによらず慎重というか考えすぎる傾向があるんですよ」
「まあそれは前々から感じてるがな。 奴は強いが、
強いボクサーと積極的にスパーを申し出たりしないよな?
いつも初見の相手は必ず様子を見てからじゃないと戦おうとしない。
その慎重さは評価にもなるが、
ここぞという時で大きな差がつくんだよな……」
「はい、要するに意外と繊細というかチキンハートなんですよ。
あれだけの右を持っているのに……それを生かし切れないし、
見ていて歯がゆくなりますよ……」
「だが奴もあえて自分を超えよう。変えようとしている。
良くも悪くもこれは変化の兆しとも言える。 手間がかかるだろうが、
指導の方を頼むよ、時田君」
「任せてください、まあ何とか奴を一人前にしてみますよ。
なんだかんだでボクサーとしての資質とセンスはある奴ですから、
トレーナー冥利につきますよ」
吉沢さんと激しく打ち合う中、
時田さんと会長の会話が俺の耳にも聞こえた。
流石時田さんと会長。 俺の事をよく理解してくれてる。
そう、俺は意外にチキンなんだ。 いざって時に最悪の事態を想定して、
つい安全策を選んじまうタイプだ。
それ自体は悪い事ではないが、上へ、勝つ為には前へ、
一センチでも前へ出る度胸と勇気が必要な時がある。
そう頭の中で思いながら、俺は鼻血を出しながら、懸命にパンチを出す。
そして相手が躱すと同時に前へ出る。 相手との距離が縮む。
そこから右ストレートをガード越しに放つ。
完全にブロックされたが、吉沢さんの身体が衝撃でゆらゆらと揺れる。
そこから身体を内に捻り左ストレートを吉沢さんの顔面に叩き込む。
ピシッと鞭で叩くような音が鳴り響く。
そこからまた強引に右ストレートを放つ。
吉沢さんは反射的にガードを固める。
だが俺のウェイトの乗った右がそのガードをこじ開ける。
その衝撃で吉沢さんはバランスを崩す。
そこから左フックのダブルを繰り出し、
返しの右フックで吉沢さんの頭部を強打する。
その衝撃で吉沢さんが身体を一瞬ぐらぐらと揺らす。
「いいぞ、雪風! そこから手数だ、手数を出すんだ!」
時田さんの言葉に従うように、
俺は至近距離でショートパンチの連打を繰り出す。
ロープを背にした吉沢さんを一方的に攻めた所で、
ラウンド終了のブザーが鳴った。
「あ、ありがとうございました!」
苦しいスパーリングが終わり、俺は大きな声で礼を言いその場で一礼する。
俺は鼻から流した鮮血をリングのキャンバスに垂れながら、
力なくリングを降りた。
「……いいスパーだったぞ。 ほれ、テッシュを鼻に詰めな」
時田さんはそう言いながら、
俺のグローブを外して、テッシュを手渡した。
俺は呼吸を荒くしながらも、鼻にテッシュを詰め込んだ。
「苦しい時に下がらず前へ出た所は褒めてやるぜ。
とにかくお前の右はガード越しでも利くから、
ガンガン出して行け! 頭の中で自己完結せず行動に移すんだ、いいな?」
「は、はい、これからもご指導宜しくお願いします」
「おうよ!俺がみっちり鍛えてやるさ。 選抜大会頑張れよ!」
時田さんの言葉に俺は「はい」とだけ答えて、洗面所へ向かい顔を洗う。
テッシュを詰めた鼻がジンジンと痛む。
こりゃ鼻をかんだらやべえ事になるな。
鼻血を出すのなんて久しぶりだな。
それだけ俺のボクシングが上達としたという証でもあるが、
言い換えれば強敵と戦わず楽していたという事でもある。
時田さんと会長も言っていたが、俺は案外心配性なチキンだ。
ボクシングという競技は過酷だ。
油断すると歯や鼻なんかすぐ折られる。
俺はそれが嫌で徹底的にディフェンスに磨きをかけ、
打たれず打つボクシングを学んだ。
怪我がボクサーの勲章というが、歯が折れたり、
鼻が曲がったりするのが勲章とは個人的には思いたくない。
だがいざという局面ではやはり前へ出る。
打ち合う度胸と勇気が必要だ。 今までの俺にはそれが欠けていた。
だが財前や剣持とやり合って、
勝つにはそんな安全圏からの選択肢じゃ到底敵わない。
だから俺は限界を超えて自分を追い込む。
悔いを残さない為にも、自分自身の為にも……
俺はスポーツタオルで洗った顔を綺麗に拭いた。
「雪風。 久しぶりにスパー見せてもらったが、いい感じだったぞ。
これから選抜大会までその気迫で突き進め!」
「会長、お疲れ様です。まあとにかく自分を限界まで追い込みます!」
「ああ、選抜大会期待しているからな!」
「はい、必ず結果を出してみます!」
俺はそう大きな声で返事して、
疲れた身体を休める事無くサンドバッグ打ちを始めた。
スパーの疲労とダメージでまだ身体が重い。
だがこういう局面で手を出さなくては、試合では勝てない。
俺はがむしゃらにサンドバッグを叩き左右に揺らせた。
周囲ではジム生が俺と同じように汗をかき、
呼吸を乱しながらサンドバッグを叩いていた。
皆、苦しそうな表情でパンチを出しているが、
手を休める者は皆無であった。
誰が見ているわけでもなく、
ジム内はピーンとした重苦しい空気が漂う。
だがその中で呼吸を乱しながら、練習する、
戦うボクサー達の表情は何処か満足そうであった。
次回の更新は2020年9月22日(火)の予定です。