第十八話 負けられねえ!
「どうやら相手は随分とお前の事を研究してきたようだな」
「……みたいっスね」
剣持拳至は顕聖学園ボクシング部の宮下監督の言葉に小さく頷いた。
「次のラウンドは要注意だ。 相手は右が強い、
絶対に右は貰うなよ。 中間距離ではリーチ差でお前が少し不利だ。
奴の右を警戒しながら、得意のインファイトに持ち込め。
お前もポイントを稼いでの判定勝ちは望んでないだろ?」
「そうっスね。 多分中途半端な策は危険でしょうね」
「昨年観た時は、右以外は大味なボクサーと思っていたが、
身体も絞り込んできたし、全体的にレベルアップしているぞ、奴は。
余程、お前に勝ちたいらしいな」
「上等っスよ。 そういう奴ほど、叩き甲斐がありますよ」
「まだ二回戦だ。 こんなところで負けるわけにはいかん。
奴の実力は俺の目から見ても、ベスト8以上は固いが、
周囲は結果しか見ないものだ。 だから剣持、負けるなよ!」
「……勿論っスよ!」
「よし、ならば全力で奴を叩き潰して来い!」
宮下監督に激励されて剣持は、
マウスピースを口に入れて椅子から立ち上がる。
分かってるさ。 負けたら終わりという事くらい。・
俺が学校でも部活でもデカい顔ができるのは、
俺が勝ち続けているからだ。
負けたら、周囲の者は掌を返すだろう。
世の中そういうもんだ。
剣持の父親が与党に居た時も多くの取り巻きが居た。
昔は剣持の東京の自宅に政財界のお偉いさんが
よく遊びに来たものだ。 だが剣持の父親が失脚して以降、
それもなくなった。 そして剣持の父親は離党して、
大阪の有力野党に鞍替えした。
それから活動拠点も徐々に関西にシフトさせていった。
そして剣持の父親は口癖のようにこう言った。
「拳至、人間には勝者と敗者しか居ない。
だからお前は勝者になれ!」
と、小四くらいの頃から聞かされていた。
正直親としてどうかと思う。
だが剣持はその言葉に従った。
ある時期までは、剣持は小学校でも虐められていた。
それを見かねた剣持の父親は知り合いの
ボクシングジムに剣持を連れて行き――
「――コイツを鍛えてくれ! 肉体的にも精神的にも!」
本音を言えば、最初はボクシングなんか嫌いだった。
しかし父親の期待に応えるべく剣持少年は、懸命に頑張った。
幸い運動神経には恵まれていたので、
めきめきと実力を伸ばした。
そして執拗に虐めてくる虐めっこに軽くパンチをぶち込んだら、
それ以降、大人しくなった。
その時、剣持は父親の言葉を理解した。
少なくとも本人はそう思っていた。
元々学業成績も優秀で、顔もイケメン、
それに腕っぷしが加われば、鬼に金棒。
そして剣持少年は、瞬く間にスクールカースト最上位の座についた。
それに良い気分になったのも事実だが、数か月もすれば飽きてきた。
それは中学受験で顕聖学園中等部に進学した後も同じだった。
経済的にも恵まれた剣持にとって、一番の苦痛は退屈であった。
色々な事に手を出しては、飽きる。 それの繰り返し。
次第に見えない敵も増えていった。
実際学校裏サイトでは悪口をぼろ糞に書かれている。
だが剣持はそういう中傷は気にしなかった。
そりゃ、そうだろうさ。
冷静に見れば、
自分がすごく嫌な人間だなんて事は分かっている。
それでも横暴な振る舞いが許されるのは、
自分が勝っているからだ。 勝ち続けているからだ。
だが負けたらその瞬間から周囲に叩かれる。
それだけの事をやってきたのだ。
ならば程よいところで折れて、
周囲と折り合いをつけるべきだが、
妥協するくらいなら、嫌われても、今の自分を演じ続ける。
剣持拳至はそんな歪な人間であった。
しかしここに来て、剣持はある意味、
人生最大のピンチを迎えていた。
この生まれた時から与えられた『勝者』という地位を
対戦相手が奪いに来たのである。
正直この男――雪風健太郎が自分にとって脅威になるとは思ってなかった。
だがこの男は自分から逃げずに真正面から向かって来る。
それを脅威に感じながらも、
剣持は心の中で説明できない妙な喜びを感じた。
――こいつは俺の周囲の取り巻きとは違う。
――俺から逃げず、自分からも逃げずになりふり構わず真っ向勝負を挑んで来る。
――実に暑苦しい。 時代遅れとも思う。 だがそれがいい。
――そういや飽きっぽい俺が何故ボクシングに飽きなかったか、
――分かった気がする。
――そう、ボクサーは俺に媚びない。 俺を特別扱いしない。
――だからボクシングは面白いんだ。
――だが俺は負けねえ、絶対に負けられねえ!
――いいぜ、雪風。 とことこんお前に付き合ってやるよ!
そして対戦相手である雪風健太郎は、
両手で顔のガードを固めて、こちらに突進して来た。
剣持は足を止めて真正面から健太郎を迎え撃つ。
二人のボクサーとしての矜持と意地がぶつかり合う。
健太郎は剣持のパンチを浴びながらも、
相討ち覚悟で連打を繰り出す。
超接近戦からお互い一歩も引かず、打ち合う。
無酸素運動による心肺機能への負担。
至近距離から浴びるパンチの衝撃。
精神と肉体を摩耗する激しい戦いが続く。
足を止めてあえて打ち合いに応じる剣持。
それを応じるべき打たれても、打たれても前へ出る健太郎。
交差する拳、パンチが命中するたびに、飛び散る汗と血。
二人のボクサーが戦う姿の会場の観客も目を奪われ、
固唾を飲んで見守る。
「……凄い、凄いな、健太郎。 物凄い闘志だよ」
来栖零慈がリング上に視線を釘づけにしながら、
興奮気味にそう呟いた。
来栖が声を枯らして声援を送る中、
神宮寺里香だけは声を出さず傍観していた。
「里香、どうしたの? 健太郎が頑張っているんだよ、
一緒に応援しようよ!」
来栖が里香に視線を向けながら言った。
だが里香は小さく左右に首を振る。
そして弱々しい声で喋り出した。
「私は……私はこんな風に殴ったり、
殴られる健太郎の姿を見るのが苦しいよ。
もちろん健太郎にとっては、余計なお世話かも知れないけど、
私はやっぱり素直に喜べないわ」
「うん、分かるよ。 その気持ちもさ。
でも健太郎はこの時の為に頑張ってきたんだよ。
もちろん俺も健太郎が殴られる姿を見るのは辛いよ。
でも健太郎はこういう形でしか、リングで戦う事でしか他人に、
自分が頑張る姿を見せられないと思うんだ。
だから俺は最後まで健太郎の戦いを見届けるよ」
来栖はそう言って瞳を大きく見開いて、
真剣な表情でリングに視線を向けた。
来栖の言葉が重く里香の胸にのしかかる。
来栖の言う事は里香にも理解できる。
だが頭でわかっていても心が受け入れない。
里香は唇を噛み締め体を震わせた。
里香はゆっくりと視線をリングに向ける。
リング上では二人のボクサーが正面からぶつかっている。
それは傍から見ても凄まじいまでの戦いであった。
――もちろん私も健太郎を素直に応援してあげたい。
――でもやっぱり健太郎が殴られたり、殴ったりする姿を見ると胸が痛いよ。
――でも今はとりあえず応援するわ。 私が今、健太郎にしてあげられる事は、
――それぐらいしかないから、だから本当は辛いだけど眼に焼き付けるわ。
里香はそう胸に刻み視線をリングで戦う
健太郎の姿に向けながら、大声で叫んだ。
「頑張れ、健太郎っ!!!」
予想外の大きな声でリング上の健太郎も一瞬硬直したが、
次の瞬間には、口元に微笑を浮かべていた。
声がでけえよ、里香。 でもお前が応援してくれて、嬉しいぜ。
さあて、二ラウンドも中盤に差し掛かったが、やはり正攻法じゃ分が悪いな。
仕方ねえ。 ならば作戦通り肉を切らせて骨を断つしかねえな!
観客のどよめきのなか健太郎は素早く動き、前へ前へと進む。
健太郎と剣持の体が接近する。
健太郎が至近距離から速いワンツーを放った。
剣持は健太郎のワンツーを躱し、
ジャブを機関銃のように連射する。
だが健太郎も負けてない。
剣持のジャブを一発、一発丁寧に躱して、肉迫する。
更に剣持が左ジャブを繰り出した。
すると健太郎が剣持の左ジャブを浴びながら、
剣持の顔面に左ジャブを叩きこんだ。
剣持は一瞬動きを鈍らせたが、再度左ジャブを放つ。
そして今度も先程と同じような結果になった。
偶然ではない。
健太郎は狙って相打ちカウンターを打っているのだ。
それにもしやと思う剣持。
――おい、おい、おい、マジかよ?
――雪風、お前もしかして相打ちカウンター狙いか?
――だとしたら、俺も舐められたもんだ。
――というかたかが高校生の大会だぜ?
――普通そこまでしねえよ?
――上等だ、相打ちする前に叩き潰してやんよ!
剣持がガードを固めながら、前方にステップインする。
そして弧を描くように左フックを放った。
剣持の左拳が健太郎の右側頭部に命中。
それと同時に健太郎が打たれるのと、
ほぼ同時に右ストレートを放ってきた。
速くて鋭い右ストレート。 回避したいが、その余裕はない。
剣持は仕方なく右ガードでブロックを試みたが、
ブロックと同時に右ガードが吹っ飛んだ。
そして健太郎のグローブのナックルパート部分が剣持の顎に綺麗に命中。
鈍い衝撃と五感の機能を破壊するような衝撃が剣持に襲い掛かる。
だが健太郎にとっては千載一遇のチャンス。
ここで慈悲をかけるようではボクサーはつとまらない。
健太郎はやや視線が宙に泳いだ剣持に
追い打ちをかけるように、
再び右ストレートを顎の先端にヒットさせる。
それと同時に剣持は背中からキャンバスに倒れ込んだ。
「ダウン! ニュートラルコーナーへ!」
レフリーがそう告げるまでもなく、
健太郎はゆっくりと自分のコーナーへ戻る。
それと同時に試合会場に耳を裂くような歓声が沸き起こった。
「た、立て! 立つんだ、剣持。
ここで立たなくていつ立つんだ!」
リングサイドの宮下監督があらぬかぎりの声を振り絞って叫ぶ。
その声に導かれたのか、あるいは自分の意思なのか
剣持もゆっくりと身体を起こす。
体中が震えるような衝撃とダメージが剣持を襲う。
足だけでなく、片腕さえ動かすのも厳しい状況だ。
このようなピンチはリングに上がって、初めての経験だ。
だが剣持にもボクサーとしての意地と誇りがある。
剣持は足を震わせながらも、
見栄も自尊心も捨てて立ち上ろうとする。
――負けたら、全てが終わりだ。 だから俺は立つしかねえ。
――雪風、まだ心のどこかでお前の事を侮っていたのかもしれん。
――だがこれで確定した。 お前はまごうことなき俺の天敵だ。
――だからお前はここで叩き潰す。
――王者は……チャンピオンは一人でいいんだよ。
意識が朦朧とする中で、剣持は闘争本能に火を付けて、
両腕を上げてファイテングポーズを取る。
レフリーが顔近づけて、剣持の表情を凝視する。
剣持はその切れ長の瞳に今までに、
見せた事のない覇気と殺気を交えて、レフリーに視線を向けた。
「……大丈夫っスよ、まだまだ行けますよ?」
「……」
レフリーは一瞬躊躇するような表情をしたが、
試合再開の合図を出した。
それと同時に凄い勢いでコーナーから健太郎が突っ込んで来た。
剣持はがっちりとガードを固めて、重心を後ろに置いて構える。
対する健太郎はがっちりと両腕を曲げて、
ウィービングしながらリング中央へと進む。
健太郎と剣持の体が接近する。
お互いの息がかかるような至近距離。
従来の剣持ならこの距離は得意とするが、
ダウン直後という事で、足が思うように動かない。
故にダメージが回復するまで、
ここは防御に徹するという選択肢を選んだ。
――足が思うように動くまでまだ時間がかかる。
――ここは耐えるしかねえっ!
剣持はそう胸中で強く念じながら、
健太郎の放つ破壊力ある左右のフックをガードする。
ガードする度に腕がビリビリと痺れる。
右ストレートだけじゃない。 左右のフックも強いじゃねえか。
更に健太郎が左右のフックを連打、連打、更に連打する。
健太郎の左右のフックが狂ったように吹き荒れた。
その姿はまるで獲物を狩る野獣――彼が好きな山猫のようだった。
剣持は両腕を折り曲げて、
その怒涛のようなフックの連打をガードする。
リングの中央のレフリーが観察するようにこちらを見ている。
――これ以上パンチを喰らうと試合を止められるな。
――しゃあねえ、やりたくねえがやるしかねえか!
健太郎が弧を描くように左フックを放った。
同時に、剣持も右ストレートを健太郎の左腕にクロスさせる。
ばしんっ!!
という音と共に健太郎の左フックが剣持の右側頭部に、
そして剣持の右ストレートが健太郎の顎の先端に命中。
両者の身体がぐらっと揺れる。
しかし両足を踏ん張って耐える。
すると一方的な攻撃をしていた健太郎がいつの間にか肩で呼吸していた。
激しい攻防戦により、スタミナの消耗が想像以上に激しい。
しかしそれでも手を出す健太郎。 今度は素早い左ジャブを放った。
それと同時に剣持も左ジャブを放つ。 そして両者のパンチが命中。
再度、両者の身体がぐらつくが、すぐに体勢を立て直す。
しかし圧倒的に有利だった健太郎が両眼を見開いて驚いている。
――へっ、舐めんなよ?
――お前に出来て、俺に出来ない事はねえんだよ。
――しかし想像以上にキツいぜ。 相打ちカウンターってのはよお~。
――正直俺のポリシーに反するぜ。
――だが負けるよりかはずっとマシだ。
――俺は負けない、絶対に負けない!
――負けるくらいなら死んでも勝つ!
一進一退の攻防が続くなか、第二ラウンド終了のブザーが鳴った。
自分のコーナーに戻ってきた健太郎の顔は、
わずかに腫れ上がっている。
健太郎は呼吸を乱しながら、椅子にどっしりと座る。
「すごいぞ、雪風。 あの剣持相手に優勢だぞ?
観客もどっと湧いてたぞ」
忍監督が健太郎の肩を揉みながら言った。
「後一ラウンドだ、たったの一ラウンド頑張れば、お前の勝ちだ。
だが相手も必死だ。次のラウンド死にもの狂いで攻めてくるぞ、
どうする? お前はどう戦いたい」
「……中盤まで距離を取って、時間を稼ぎます。
そして奴が痺れを切らしたら、
相打ちカウンターで迎撃します。
ラスト一分から全力でラッシュをかける、という感じですね」
「そうか、苦しいだろうが、自分が苦しい時は相手も苦しい。
だが絶対気持ちの上では負けるな!
最後の最後まで諦めず、全力で戦うんだ!」
忍監督の言葉に健太郎は「はい!」と大きな声で返事する。
一方、剣持陣営の宮下監督は、
予想外の事態に焦りの色を見せていた。
「まさかお前が高校生相手にここまで追い詰められるとはな。
だがまだ一ラウンドある。いいか、絶対に最後まで諦めるな。
最後の最後まで諦めずに戦い抜くんだ!」
「……当たり前じゃないっスか? 確かにポイントでは
少しリードされてますが、慌てる必要はないっスよ。
奴も……雪風も予想以上に無理している。
このまま最後まで逃がしやしねえ。
監督、俺は負けるわけにはいかねえんですよ?」
やや慌て気味の宮下監督を諭すように、剣持がそう返した。
「そ、そうか。 どうやら俺の方が焦っていたみたいだな」
「気にする事はないですよ。 実際雪風は強い、良いボクサーだ。
だが俺も伊達や酔狂でボクシングをしてねえんスよ?
俺も少し天狗になっていた。 正直高校の公式戦は、
通過点と思ってたが、雪風がここまでやるとはねえ~。
だけどこれだからボクシングは面白い!
でも俺は負けるのは、死ぬほど嫌いなんスよ。 だから死んでも勝つ!」
そう力強く言い放つ剣持に宮下監督がマウスピースを手渡す。
それを口の中に押し込み、剣持はこう告げた。
「俺みたいな人間は勝つしかねえんですよ!
負けたら全てが終わり。 それを俺自身が一番知ってますよ。
んじゃあ監督は気楽に観ててください。 奴は必ず叩き潰す!」
そうして最終ラウンドである第三ラウンドのブザーが鳴った。
残り時間約二分。 およそ百二十秒後に嫌でも勝者と敗者が決まる。
そしてリング上の二人は、
勝者になるべく全力で戦うのであった。
次回の更新は2020年5月7日(木)の予定です。