第十四話 健太郎、本気を出す
「ハアハアハアハァッ……」
インターハイ本戦まで一週間を切った。
今は七月二十四日の水曜日。
七月二十八日に開会式が行われ、
翌日の二十九日から大会が始まる。
故に本来ならばこの時期は調整や体調維持に専念すべきだが、
俺はあえてここで自分を追い込む。
去年のインターハイ本戦ライト級準々決勝で
あの男――剣持拳至に負けて以来、
俺の戦績は明らかに下降線を辿っていた。
秋の国体は一回戦負け、春の選抜に至っては、未出場。
正直俺は奴――剣持拳至に負けるまでは、
自分の実力にそれなりの自信を持っていた。
中学生の頃からボクシングを始めて、
中三の頃にはプロの四回戦ボクサー相手にも互角以上に戦えていた。
会長やトレーナーからも「お前、才能あるよ。 頑張れよ」と言われて、
いささか良い気になっていたのも事実。
そして帝政入学後も入部一か月でレギュラーの座を勝ち得た。
ここまでは順調だった。 だが世の中には上には上が居る。
という事を嫌という程、思い知らされた。
それが剣持と戦った後の俺の率直な感想だ。
なんとか一回だけダウンを奪った。
それ以外はこれといって見せ場はなかった。
結局三ラウンドに滅多打ちにされて、3R1分25秒RSC負け。
リングにはいつくばる俺を見るあの時の剣持の視線と笑いは今でも忘れない。
生まれて初めての屈辱だった。 それと同時に自信が完全に失われた。
正直一度は退部を考えたくらいだ。 だがここで逃げたら、本当の負け犬だ。
だからその後も部活は続けたが、やはり練習にもいまいち身が入らなかった。
しかし今年になって、ようやくその傷も癒えた気がする。
そして春先から復調して、6月上旬の関東大会で優勝。
インターハイ予選も3戦全勝全RSC勝ち。
とりあえず今のところは順調だ。 問題は本番でどれくらい勝てるかだ。
全国大会となれば剣持以外にも強敵がごろごろしている。
だが俺の目標はあくまで打倒剣持だ。
奴に雪辱する事によって、俺はようやく前へ一歩進める気がする。
故に奴と戦うまで負けるつもりはない。
「……先輩、雪村先輩」
「ん?」
不意に後ろから声がしたので、後ろに振り向いた。
するとそこには陸上部の一年生の竜胆美雪が立っていた。
竜胆は上に黒のランニングシャツ、
下も同様に黒のランニングパンツという格好。
「なんだ、竜胆か。 どうしたんだ?」
「い、いえただ凄い汗なので、タオルで拭いた方がいいですよ?」
「それもそうだな」
とりあえず俺は首にかけた青いスポーツタオルで顔を拭いた。
「また全力で校庭を何十周もしたんですか?」
「ああ、軽く三十周くらいしたよ」
「さ、三十周ですか!? 陸上部より走ってるじゃないですか?」
目を見開いて驚く竜胆。
しかし俺からすればこれくらいどうってことない。
小学生の頃には少年野球、
中学では中二に退部するまでバスケ部だったが、
個人的にはボクシングが一番スタミナが必要な気がする。
特にしんどいのはスパーリングだ。
あの辛さは経験した者しか分からない。
故にスタミナはいくらあっても困らない。
故にボクサーは走らないといけない。
「インターハイまで一週間切ったからな。 最後の追い込みだよ」
「そうなんですね。 ボクシングのインターハイの会場は何処ですか?」
「ああ、神奈川の横浜だよ。 横浜中央体育館が会場さ」
「へえ、ボクシングの大会は横浜中央体育館でやるんですね」
「まっ、高校ボクシングなんてマイナー競技だからな」
「でも全国大会じゃないですか?
凄いですよ、私なんかただの応援ですよ」
と、少ししょんぼりとする竜胆。
「まあまだ一年生だろ? 焦る事はねえだろ」
「そうですね。 陸上部の応援があるので、
雪風先輩の応援には行けませんが、頑張ってくださいね!」
「おうよ! 任しておけ」
それじゃそろそろ練習に戻るか、と思った矢先に――
「あ、あのう~、雪風先輩」
「ん? どうかしたか?」
俺は急に呼び止められて、後ろに振り返った。
すると先程とは違って、
竜胆は顔を赤くしながらもじもじしていた。
「こ、この間のプールの件についてなんですが……」
……。 ここであの時の話題か。
まあ竜胆にはばっちり見られたからな。
でも本当に間が悪かったよなあ。
あのありえない偶然。
俺はあの偶然を演出した神を許さんよ。
なんかあれで色々と気まずくなったからなあ~。
「な、なんか凄い偶然でしたけど、
私の友達もなんか諦めがついたみたいです」
「ん? 諦め?」
「ま、前に話したじゃないですか?
来栖先輩に憧れている友達が居るって。
実はあの場に居合わせた友達がその子なんですよ。
でも雪風先輩や神宮寺先輩はなんか来栖先輩と
凄く信頼しあっている感じで、
「私の入り込む余地はない」と言ってたんです」
「……そうか」
ある意味それはこちらとしても助かる。
俺もあのプールの一件以来、美奈子と話しすらしてない。
仮に竜胆の友達が来栖にコクったところで、
来栖が首を縦に振るわけがない。
来栖曰く「今は誰とも付き合う気はない」だそうからな。
そうなれば俺と竜胆も気まずくなる。
この辺のバランスは難しいよな。
「それに思ってたより、来栖先輩ってちょっと冷たい感じですし……」
まああの変態女・美剣に対しては、
確かに冷たくあしらったのは事実。
というか来栖は基本的に女に厳しい。
でも仲良くなればあれ程良い奴も居ないぜ。
「まあ遠くから見ているだけじゃ分からないからな。
まあ仲良くなれば、すんげえ優しいし、
すんげえ気配りしてくれる奴だよ、来栖は」
悪く思われたままなのもアレなんで、
やんわりと来栖をフォローする。
「そ、そういうところですよ。
なんか三人の関係がとても自然体というか、
他の人が入り込む余地はない感じなんですよね」
そこまで言われるとやや気恥ずかしいが、やはり悪い気はしない。
「そ、それでもう一つ気になっているんですが……」
「ん? 何?」
「あの幼馴染の先輩とはあの後どうなりました?」
「……」
俺は予想外の言葉に一瞬固まった。
すると竜胆は右手をぶんぶんと振りながら、小さく頭を下げた。
「あ、ごめんなさい。 余計な事言いました」
「いや気にしてねえよ。 まあぶっちゃければ、
あれから一言も話してねえよ。
なんつーかああいう状況になったのは、
本当に偶然だが、やはりどちらにも良い顔するってのは
良くない逃げと思うんでな。 だから美奈子とは距離をおくつもりだ」
「そ、そうですか」
「ああ」
すると竜胆は右手を顎にやり、何やら考え込んでいる。
そして考えがまとまったのか、
慎重に言葉を選びながらこう言った。
「でも私もそれでいいと思いますよ」
「……そうなのか?」
「はい、やはり自分の仲良い男友達が他の女子と
仲の良い姿を見るのって、なんか面白くないです。
私ならやっぱり自分だけに優しくして欲しいです」
「そ、そういうものなのか?」
竜胆がこう言うとは少し意外だ。
なんとなく誰とも仲良くしてそうなイメージ。
だがやはり竜胆も年頃の女の子。
当然こういう部分もある、ってか。
「女の子なんてそういうものですよ」
「そうか、なら覚えておくよ。 じゃあな、竜胆。 俺は練習に戻るわ」
「はい、全国大会頑張ってください」
そう言葉を交わして、俺はボクシング部の練習場に戻った。
この後に忍監督と剣持の試合のDVD観るんだよな。
ちょっと気合入れて観るか!
「ふむ、こうして観てみると確かに高校生とは思えないな」
と、練習場にある小さな液晶テレビの前で両腕を組む武田さん。
「左右のフックのパンチ力と回転力がやべえな。
懐に入られたらきついな」
副主将の郷田さんがテレビの前で
腰に手を当てながら、そう言った。
「しかし身長やリーチでは雪風の方が上回っている。
雪風、今のお前なら剣持とどう戦うつもりだ?」
忍監督が真剣な眼差しでこちらを見た。 さて実際どうするべきか。
確か剣持の身長は173センチ、ライト級としては少し小柄の方だ。
俺が176だから3センチ程、高いな。 リーチも俺の方が長い。
だが必ずしも身長差やリーチの差が有利になるわけではない。
ならば基本戦術は中間距離で左の差し合いをするのが賢明だろう。
「そうっスね~。 やはり基本は中間距離で
戦うのが無難じゃないですかねえ~。
奴がインファイト仕掛けようとしてきたら、
カウンターで迎撃、ってのが理想ですけど」
「剣持相手にカウンター戦法か? そう上手くいくか?」
と、武田さんが僅かに首を傾げた。
「まあそうは上手くいかないでしょうね。
俺はそんなにカウンターは得意じゃねえので」
「しかしインファイトなると、
ストレートパンチャーの雪風よりフッカー系パンチャーの剣持に分があるぞ。
つってもインファイトを全然しないというわけにもいかねえしな」
郷田さんもやや言葉を濁しながら、そう口にした。
まあそうなんだよなあ。
俺もインファイトはそれなりに得意だし、
それなりのレベルの左右のフックを打てる。
こう見えて俺のアマチュア戦績は23戦19勝(17RSC勝ち)4敗だ。
自分で言うのもあれだが、それなりのハードパンチャーだ。
ファイトスタイルは右のボクサーファイター型。
対する剣持は右のインファイター型で、
インファイトでは向こうに分がある。
とにかく流れるような左右のフックの連打がマジでえぐいんだよな。
昨年も終盤に左右のフックの連打を喰らって、RSC負けしたからな。
「一言で言えば高校生の中では頭が一つ飛び抜けているんだよな。
全体的に穴も少なくて、弱点が少ない。
攻防のバランスも取れた良いボクサーだよ」
忍監督はテレビに映し出された
剣持の試合のDVD映像を観ながら、そう言った。
そう、なんだよなあ。
でも最近夜には自室のノートパソコンで
剣持の試合の映像を観まくって、なんとなく攻略法が見えてきた。
ただしかなりの代償を伴うがな。
「まあそれは去年ボコられた俺が一番分かってますよ。
ただ俺なりに思い付いた事があるんで、聞いてもらえますか?」
「ほう、興味深いな」
「おう、面白そうじゃん」
武田さんと郷田さんが興味ありげに視線をこちらに向けた。
「雪風、とりあえず言ってみろ」と、忍監督。
「はい、序盤は基本中間距離で戦い、
相手がインファイトしかけてきたら、足を使って逃げます。
まあポイントの兼ね合いもあるんで、その辺は上手く調整します」
「うむ、でその後は?」
目で促す忍監督。
「んで中間距離で左の差し合い、そして多少強引でも
俺の右ストレートをガンガン打ちます。
皆さん、ご存じのように俺に右を当てるセンスは
あまりありませんが、威力はあります。
極端に言えばガード越しでもいいんですよ。
でも強引でも俺の右を打ち続けたら、
剣持に恐怖感を植え付けれるかもしれません」
「なる程、確かにお前の右の威力はずば抜けている。
右ストレートの威力に関しては、部でも一、二を争う。
そうだな。 当てるのは厳しくてもガード越しなら
連打できるな。 確かに雪風の右は本当にえぐいからな。
剣持も怯むかもしれん」
忍監督が悪くない、みたいな感じで考え込んでいる。
俺自身これでも色々真剣に考えたんだ。
でもぶっちゃけボクサーとしての実力と器では、
圧倒的に剣持が上回っている。
非常に悔しいが、これが現実である。
どうせ真正面から正攻法で戦っても、こちらには勝ち目がない。
ならばリスクを負って、相手を自分のペースに引き込むしかない。
「恐怖心か、確かに剣持のようなハードパンチャーは
意外に打たれもろかったりするからな。
しかしそれだけでは勝つのは厳しいだろう」
武田さんの言う事は正論だ。 だから俺は更なる策を述べた。
「ええ、だから奴が打ち合いを仕掛けてきたら、
カウンターで迎撃します。 とはいえ俺の技術では無傷で
カウンターで迎撃する事は不可能。
だから相打ちカウンターで奴を止めます」
「なっ!? 雪風、お前正気か?」
郷田さんが両目を見開いてこちらを見る。
まあ当然の反応だわな。
正直相打ちカウンターはこちらもかなりのリスクを負う。
剣持のパンチをまともに喰らえば、
こちらもただでは済まない。
だがそれは剣持も同じだ。
問題は俺がその厳しい我慢比べにどれだけ耐えれるかだ。
「リスクは承知の上です。
でも俺はどうしても奴に勝ちたいんです!」
「……正直指導者としては、あまり賛成はできないな。
しかしそれぐらいの覚悟がないと奴に
勝つ事はできないだろう。 いいだろう、雪風。
お前の好きにしてみろ」
「あ、ありがとうございます」
「とはいえ剣持に当たる前に負けたら、元も子もない。
全国には剣持以外にも強敵はいくらでも居るからな。
相打ちカウンター戦法は剣持戦限定だ。
それ以外は正攻法で戦え。 その為には今まで以上に
猛練習が必要だ。 雪風、覚悟はいいか?」
「はい!」
「よしならば今すぐスパーするぞ。
武田と4ラウンド、郷田と3ラウンドだ!」
「はい、武田さん、郷田さん。 お願いします」
「まあ俺も今度は優勝目指してるからな。 手加減はしないぜ?」
「俺もだ。 俺も武田も高校最後の夏だからな」
やれやれ、武田さんや郷田さん相手に計7ラウンドのスパーリングか。
こりゃ厳しいな。 だがこの二人と互角以上に打ち合いできねば、
剣持には勝つ事は厳しい。
そうだな、目標も大切だが、
目の前の練習をクリアしなければ、結果は伴わない。
ならば大会本番まで、自分を限界まで追い込むぜ。
よし、いっちょ本気を出すか!
次回の更新は2020年5月3日(日)の予定です。