第三十七話 枕戈待旦(ちんかたいたん)
---三人称視点---
拳至と三団体統一王者アッカーマンとの試合が正式に決まった。
試合の日時は9月21日。
試合会場はさいたまウルトラアリーナ。
両者のファイトマネーが1億円を超えるビックマッチだ。
メディアも二人の戦いに向けて、珍しくボクシングという競技に注目を集めた。
セミファイナルに南条勇の防衛戦、そしてメインイベントにライトの四団体統一戦。 これ以上にない最高の環境が整った。
だがボクサーはチャンピオンであろうが、目の前の戦いに勝つために練習するしかない。
拳至は大学の講義や卒論執筆以外は、全てボクシングに時間を費やした。
勿論、恋人である氷堂愛理とは最低限会ったり、デートしていたが――
「私はボクシングの事はよく分からないけど、
とても大事な試合なんでしょ? だったら今はボクシングに集中して」
と言われたので、拳至も愛理に言うとおり、更に練習に励んだ。
「おい、剣持。 ちょっと資料室へ来てくれ!」
「はい!」
本山会長にそう言われて、拳至は聖拳ジムの四階の資料室へ向かう。
資料室にはTVとDVD再生機があり、ここで対戦相手の試合映像を観る事が出来る。
すると資料室のソファに本山会長と松島が腰掛けていた。
「剣持、とりあえずこの三人でアッカーマンの試合映像を観るぞ」
「はい」
そして拳至達は身を寄せて、テレビに視線を釘付けにする。
アッカーマンの試合映像を観て、拳至はその表情を険しくさせた。
アマチュアボクシングで最高の結果を出して、
プロのリングでも全戦全勝の三団体統一王者。
アッカーマンが強いという事は充分承知していた。
いや承知していたつもりだ。
だが試合映像を観る限り、アッカーマンにはまるで欠点がなかった。
攻防共に優れたテクニシャンであり、またファイターでもあった。
ボクシングスタイル的には完璧に近いボクサーファイター型。
身長もライト級にしては大柄の179センチ。
顔も小さくて、手足がないという理想的な体型。
また顔もとてもハンサムで金髪碧眼だ。
成程、此奴はある意味ボクシングの神から最大の寵愛を受けたんだな。
と、拳至は内心で思いながら、アッカーマンの試合映像を観続けた。
「アッカーマンは攻防共に優れたパーフェクト・ボクサーだ。
特に気をつける必要があるのが、奴のフィニッシュ・ブロウの一つのボラードだ」
と、松島が低い声でそう言った。
「……ボラードか」
ボラードとは「ボラード」とはスペイン語で「叩き込む」という意味で、
スウィング気味に放つ右のロングフックの事を指す。
アッカーマンは相手の左に合わせて、このボラードをクロスさせるのが特に巧かった。
「これをまともに喰らえば、お前と言えど一溜まりもないだろう。
だからこのボラードは絶対に貰うな」
松島の言葉に拳至も「はい」と大きく頷いた。
言われるまでもない。
というかこんなパンチを貰えば、身体にどんなダメージが残るか分からない。
「それで松島くん、具体的にボラードをどうすれば防げるんだ?」
と、本山会長。
「そうですね、完全に防ぐのは難しいでしょう。
ボラードもある種の右フック、それを一発も出させないという事は無理です。
でも対策がないわけではありません」
「……どんな対策ですか?」と、拳至。
「ああ、単純な事だ。 要するにパンチのハンドスピードを上げるんだ。
ハンドスピードを上げれば、クロス気味にボラードを貰う事は防げるだろう。
だからこれからお前は両手、両足にパワーリストとパワーアンクルをつけるんだ」
「……はい」
成程。
地味だがある意味効果的な対策だ。
こちらが出したパンチを相手が躱して、カウンターを打つというのが基本的な戦術だ。
だからパンチを出した後に引き手のスピードを上げる。
というのは結果的に相手のカウンターを封じることに繋がる。
「ふうん、随分と地味な対策だね」と、本山会長。
「ええ、でもこれが一番効果的です。
それに両手足を鍛えることは他の部分でも生きます!」
「分かった、練習の指導方針に関しては松島くんに任せるよ。
剣持も松島くんの指導をしっかり受けるんだ」
「「はい」」
そして拳至と松島は資料室から出て、再び練習に戻るのであった。
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一方、カールハインツ・アッカーマンも拳至との試合に向けて万全の準備を整えていた。 チーフトレーナーにはドイツ人のグスタフ・アーベントロート、カットマンにはイタリア系アメリカ人のアルフレーダ・ジョルダーノ。 そして減量の調整を為に専属の栄養士も雇った。
アッカーマンも持って生まれた天賦の才の持ち主であったが、
非常に真面目で常に万全の準備を整える几帳面な性格であった。
拳至の試合に向けて、既に何人かのスーパーリングパートナーも雇い、
減量しつつ、フィジカル能力を上げる調整を行っていた。
「よし、カール。 今日の練習はこれぐらいにしておこう。
この後は一緒にケンモチの試合映像を観よう」
「グスタフ、分かったよ」
そして二人はジムの事務室に入り、拳至の試合映像をじっくりと観賞した。
「……成程、攻防のバランスの優れた良いボクサーだな。
穴らしい穴がない。 特に左右のフックが強力だ」
「ああ、カール。その通りだよ。 なにせケンモチはあのザイツェフに勝ったからな。 だから日本人と思って色眼鏡で見るべきではない」
グスタフもアッカーマンに言葉に同調する。
「特質すべき点はフィニッシュ・ブロウで良く使う左右のフックだ。
身体で八の字を描く左右のフックの連打、これはある種のデンプシーロールだ」
「デンプシーか、それ自体は怖くないよ。
結局は左右のフックの連打に過ぎない。
こんなパンチを立て続けに貰うほど、俺は間抜けじゃないさ」
アッカーマンは自信に満ちた声でそう言う。
するとグスタフも「まあ君ならそうだろう」と返した。
「それ以外にもザイツェフ戦で見せた右のクロスパンチ。
よく見るとジョルトブロウー気味に放たれている」
「成程、右のジョルトか。 それは注意すべきだな。
しかしこうして見るとケンモチはファイターでありながらも、
ディフェンスやテクニックに優れたボクサーだね」
「ああ、奴も君と同じだろう」
「グスタフ、何が同じなのだい?」
「奴も君同様に天才ということさ!」
「成程、そうかもしれないね」
「だから持って生まれたボクシングの資質は君と同じレベルかもしれない」
「ああ、だから非常に戦い甲斐がある相手さ」
「うむ、でも俺は君の方が奴より強いと思ってる。
だが油断だけは絶対するな、それだけは忘れないでくれ!」
「ああ、俺は誰にも負けるつもりはない。
だから今度の試合も万全の調整をして、リングでケンモチを倒すだけさ」
「そうだな、とりあえず君は自分の練習に専念してくれ。
奴の試合映像やデータ分析は俺が行う。
この試合に勝てば君は四団体統一王者だ。
そうすればもっと大きな舞台に立ち、金も稼げる」
「ああ、では今日はもう帰るよ」
「ああ、カール。 おつかれさん」
「うん、お疲れ様」
アッカーマンはそう言って、この場から去った。
そして部屋に残されたグスタフは一人で考え込んでいた。
――カールの調整は万全だ。
――普通の相手なら彼の勝利は固い。
――だが今回の相手は少し気になる。
――なにせアマ時代にカールに唯一勝ったザイツェフを倒した男だ。
――だから絶対に油断してはならない。
――だがそれをカールに、ボクサーに教える必要はない。
――俺がこの眼で分析して、的確な練習法で彼を指導する。
――それが俺の、トレーナーの仕事だからな。
――いずれにせよ、試合が終わるまで全力を尽すまでだ!