第三十六話 好機逸すべからず
---三人称視点---
新学期を迎えた四月中旬。
拳至は午後の講義を終えて、サークルの部室で小休止していた。
あのザイツェフとの激戦から約一年が過ぎた。
名実共に世界チャンピオンとなった拳至の周囲は急に騒がしくなった。
雑誌のインタビューやテレビの出演などの仕事が降って湧いてきた。
だが拳至はそれを全て受けて、無難に仕事をクリアした。
世界チャンピオンと云えど、日本国内ではボクシングの地位はあまり高くない。
だから拳至は自分自身の知名度とブランド力を上げるために様々な方面の取材を受けた。
とはいえそれで本業を疎かにはしなかった。
ザイツェフ戦の後に三度の防衛戦をこなし、その全てをKO勝ちで防衛。
また大学の講義もしっかり受けて、後は一部の単位取得と卒論を書くだけとなった。
そして今日は久しぶりにサークルの部室に顔を出した。
「おう、チャンピオン! 久しぶり」
と、藤城が片手を上げてそう声をかけてきた。
ちなみに昨年、本年と三人ほど、サークル入会者が増えたが、
全員男であった為、神原あかりが卒業して以降、女子部員は一人も居ない状態である。
「チャンピオンはよせよ」
「まあまあ事実じゃねえか」
「まっ、そうだけどさ。 ここに居る時ぐらいは只の剣持拳至で居たいのさ」
「お? なんかカッコいい言い回しだな」
藤城はそう云って、コロコロと笑う。
拳至もそれを気にする事無く、藤城の近くのパイプ椅子に腰掛けた。
「で次の試合はいつになりそうなんだ?」
「今の所は未定だ。 オレ自身単なる防衛戦じゃいまいち燃えないのも事実だ。
だから本山会長に頼んで、三団体王者に試合を申し込んでいるところだ」
「ん? 三団体王者? それってどういう意味?」
「ああ、オレはあくまでWBLという団体の世界チャンピオンであって、
ボクシングには一階級につき、四つのメジャー団体が居るのさ。
そしてオレは今残りの三団体の統一王者に試合を申し込んでいるのさ」
「ふうん、よく分からねえけど、なんか凄い話なんだね」
「……まあそうなるかな」
「でも剣持は大学卒業したら、どうするつもりなんだ?
大学卒業したら、ボクシング一本に絞るのか?」
拳至は藤城の素朴な疑問に「いや」と首を振る。
「多分、大学院に進学すると思う」
「ふうん、じゃあ大学院を卒業したら?」
「そうだな、親父の関係の会社に入社すると思う」
「親父の関係の会社? 剣持ってもしかして社長の息子?」
どうやら藤城は未だに拳至が剣持コンツェルンの跡取り息子という事を知らないようだ。 まあ拳至としては、その方が説明の手間が省けるので、この場は「一応な」とだけ答えた。 すると藤城は両腕を組みながら、「う~ん」と唸った。
「……藤城、どうかしたか?」
「いやあ、剣持って普通に勝ち組だね。
世界チャンピオンだけでも凄いのに、社長の息子なんてマジチートじゃん」
藤城に悪意はない事は分かっていたが、
こうして言葉にされると拳至としてもあまり愉快な気分にはならなかった。
だから拳至は違う話題を振った。
「あの南条さんも社長の息子だぜ?」
「ああ、それは聞いた事があるよ。
剣持も南条さんもマジ凄いよな、そういう知り合いが居て俺も鼻が高いよ」
「そういうお前は大学卒業したらどうするつもりだ?」
「ん? まあ普通にリーマンするよ」
「そうか」
「うん、まあ公務員試験を受ける事も考えているけどね」
その時、拳至のスマホに聖拳ジムから電話がかかってきた。
拳至は藤城に「悪い、電話だ」と言って電話に出た。
『剣持か、今時間はいいか?』
電話の主は本山会長であった。
「ええ、構いませんが何か御用ですか?」
『単刀直入に言う。 三団体統一王者カールハインツ・アッカーマンから、お前に試合の申し込みがあった。 だから今すぐジムに来てくれ!」
「なっ!?」
唐突な話に拳至も一瞬固まる。
だがすぐに我に返り「分かりました」と言って電話を切った。
「悪い、藤城。 ちょっと急用が出来た。
だからオレは今日はもう帰るわ」
「ん? ああ、んじゃお疲れさん」
「ああ、またな!」
そして拳至は早足で大学を後にした。
急な話だが、これはとてつもないチャンスである。
故に拳至も珍しく心臓の鼓動を高めた。
――まさかアッカーマンから試合を申し込んでくるとはな。
――だがこれはチャンスだ、このチャンスを逃す手はない。
――奴に勝てば四団体の統一王者。
――それはオレだけでなく、多くのボクシング関係やファンの長年の夢だ。
――……まあいい、とにかく今は聖拳ジムへ行こう。
拳至はそう思いながら、しばらく歩いてタクシー乗り場へ行き
そこでタクシーを拾って、聖拳ジムへと向かった。
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「それでお前としてはどうしたい?」
「はい、その試合を受けたいと思います!」
本山会長の問いに拳至は凜とした声で返事する。
すると本山会長もしばらく考え込んでから、トレーナーの松島に話を振った。
「松島くんとしてはどうしたい?」
「……私は会長の意向に従いますよ」
松島はいつものように淡々と答えた。
「そうか、ならば俺もこの試合を受けたいと思う。 相手は――アッカーマンは試合会場は日本で構わないと言っている。 日本国内で四団体の統一戦、これは日本ボクシング界にとっても大きなチャンスだ」
「……相手は日本で試合するつもりなんですか?」
拳至は少し意外そうにそう言った。
すると本山会長がやや興奮気味に色々と語り出した。
「アッカーマンはスーパーフェザー級、ライト級の二階級制覇のチャンピオンだが、ドイツ生まれのドイツ人だ。 今はアメリカを主戦場としているが、アメリカ本土ではあまり人気はないらしい。 だからここに来て四団体統一戦を行い、ベルトを四つ手に入れて、自分の知名度を上げたいのかもしれんな」
「成程、そういう事情があったんですね」
と、拳至。
「ああ、だがアッカーマンは超一流のボクサーだ。 アマチュア時代、世界選手権銀メダル、五輪金メダル。 プロでは全戦全勝、とてつもない強敵だ。 剣持、お前も天才だがアッカーマンもまた天才。 だからこの試合はお前のボクサー人生を左右する試合になるだろう」
「ええ、でもだからこそ戦い甲斐がありますよ。
正直、今のタイトルを防衛するだけじゃ物足りない。
アッカーマンに勝てば、オレは四団体統一王者。
こんなチャンスはそうそう来るものじゃない。
だからオレはアッカーマンと戦いますよ!!」
拳至は力強くそう告げた。
すると本山会長も覚悟を決めた表情で「うむ」と頷いた。
「分かった、ではこの試合を受ける事にするよ。
マッチメイクに関しては、この俺に全て任せろ!
最高の舞台を用意してやる。 松島くん!」
「はい」
「君は君の持てる全ての力を投じて剣持を鍛えてくれ!」
「……分かりました」
「そして剣持、お前はこれからほぼ全ての時間をボクシングに費やせ。
金持ち育ちのお前が並の相手じゃ盛り上がらないのは理解している。
だからアッカーマンという最強の敵をお前が倒すんだ。
そうすればお前はもっと名声や金を得られるだろう」
「分かりました、この試合にオレの全てをかけます!!」
拳至は右拳を強く握りしめて、高らかにそう叫んだ。
こうして拳至にボクサー人生最大のチャンスがやって来た。
だが拳至は理解していた。
このようなチャンスがそうそう来るものではないという事に。
だから拳至は自分の全てをかけて、この試合に挑む決意を固めた。
天才対天才。
その戦いの幕が今ゆっくりと上がり始めた。




