第三十四話 メサイア・コンプレックス
---三人称視点---
ベルリンの壁。
この壁はドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもあった。
1989年の壁崩壊までに、壁を乗り越えて脱出に成功した者もいれば、
反対に捕らえられたり、犠牲になった者も多数居た。
そのベルリンの壁の崩壊から三十年以上が過ぎた現在。
今ではその壁もペイントアートのキャンバスとなっていた。
そして二人の青年が神妙な顔で壁の前に立っていた。
壁の手前で花束を地面に置く青年とそれを見守る眼鏡をかけた青年。
共に金髪碧眼の美男子、身長も180前後かつ手足も長い。
だが壁の手前で祈る青年――カールハインツ・アッカーマンは神妙な声でもう一人の青年に語りかけた。
「ドイツ統一からもう三十年か。
まあ俺達はドイツ統一後に産まれたから、西も東もないがな。
しかしドイツ国民としてこの壁にまつわる幾多の悲劇を忘れてはならぬ」
「ああ、そうだね。 しかしいつまでも過去にとらわれたら駄目だよ。
過去は歴史として顧みる必要はあるけど、大事なのは今だよ!」
「分かってるさ、ヘルマン。
だが俺は今のドイツの現状には満足していない。
ドイツ統一後の不安定な政情と経済状況、それによる治安の悪化。
今のドイツには活気がない。 君もそう思わないか?」
するとヘルマンと呼ばれた眼鏡をかけた金髪の青年は「ああ」と頷いた。
だがその青年――ヘルマン・アルムスターは一度肯定してから、こう付け加えた。
「カール、でもそれはドイツだけじゃないよ。 ヨーロッパ、いや世界全体が活気ない。
もっと大袈裟に云えば、人類そのものに活気がないと云えるね」
「……確かにそうかもしれんな」
カールハインツ・アッカーマンはヘルマンの言葉に大きく頷いた。
「でもね、それはそれで仕方ない事かもしれない」
「……何故だ?」
ヘルマンにそう問うアッカーマン。
「多分ね、この狭い地球の中に人類が留まる事に無理が生じ始めているんだろうね。 でもかといって明確な対処法はない。 僕は医者だけど医者も地球を治療する事は出来ないからね。 だから人類そのものに活気がないのも自然の摂理かもしれない」
「……ヘルマン、君は変わったな」
「ああ、僕ももう26歳だからね。
そろそろ夢から覚めて現実を見るようになった年頃というわけさ。
でもカール、君はまだ夢から覚めるつもりはなさそうだね」
「嗚呼、悪いか?」
するとヘルマンは首を左右に振った。
「悪くはないさ。 君は今やドイツ人が誇りとする世界チャンピオンだ。 デビュー以来、連戦連勝。 現時点で二階級制覇に加えて、三団体統一王者。 君はまさに国民的ヒーローさ」
「嗚呼、俺は自分の為だけでなく、ドイツ国民、それと多くのファンの為に戦っている。 俺は俺のファイトを見せる事によって、他人を勇気づけたいんだ。 だから俺はこれからも誰にも負けるつもりはない。 俺は引退するまでの完璧なチャンピオンで居たい」
世界ライト級三団体統一王者カールハインツ・アッカーマンは凜々しい表情でそう告げた。
「ああ、君のその心意気は本当に凄いと思うよ。
でもね、今はもう色々と時代が変わってきたんだよ。
だから君も他人の為より、自分の為に戦うべきだよ?」
「……どういう意味だ?」
と、僅かに眉間に皺を寄せるアッカーマン。
「そのままの意味だよ。 他人の事より自分の幸せを優先すべきさ」
ヘルマンの言葉にアッカーマンは表情を曇らせた。
するとヘルマンは諭すような口調でアッカーマンに問い掛ける。
「君が自分自身の行動によって他人を勇気づけようとする行為は立派だが、誰しもがそれを好意的に解釈してくれるわけではない。 でもそれは責める事ではない。 今の世の中は多様的な価値観で満ちあふれている。 だから君の考えも尊重するが、あまり他人を救おうとは思わない方がいい」
「他人を救うか、俺はそんなつもりはない。
ただ俺のファイトで誰かを勇気づけたいんだ。
それに俺自身は今の現状に満足してるし、幸せと思う」
「ああ、そうだろうね。
でもね、君はある種のメサイア・コンプレックスにかかっている。
だから友人としてそれを指摘しておきたい」
「……メサイア・コンプレックスか。
俺はそんなつもりはないし、自分をそうだとは思わんよ」
アッカーマンは不本意な云われように表情を少し強張らせる。
だがヘルマンは更に言葉を続けた。
「ああ、けして重度な症状ではないよ。
でもね、カール。 自分が他人の為に何か出来るという感情は、
ある種の自己満足であり、ある種の自惚れなんだ。
だから君は誰かの為でなく、自分の為に戦うんだ。
仮に他人が幸福になっても、君自身が不幸なら意味がないだろ?」
「ムッ……ヘルマン、今日の君は随分と辛辣だな」
「かもしれない、だが友人として君に一度忠告しておきたかったんだ。
それに所詮、自分の人生は自分でしか生きられない。
だから誰かの為に何かをするという行為は美点でもあるが、
度が過ぎると自分も他人も傷つけることになるのさ。
僕はけして君を責めているわけじゃないんだ。
でも僕達はもう子供じゃないんだ、だから君も自分や恋人、家族、友人の為に生きるべきだ」
「……ヘルマン、君の云うことはある意味正しい。
だが俺は自分の為だけには生きたくない。
それが自惚れと云われても構わない。
まあ君に云わせれば、この考え方自体が自惚れかもしれんがね」
「君も頑なだね。 まあそれが君の欠点でもあり、美点だと思うよ。
それでカール、君は今自分自身の為したい事があるのかい?」
「……そうだな」
アッカーマンはヘルマンにそう云われて、暫し黙考する。
すると考えがまとまってから、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「そうだな、強いて云えばやはりリングで強い奴と戦いたいな。
それとライト級で四団体統一王者になっておきたいな」
「成程、君は根っからのプロボクサーであり、世界チャンピオンなんだね」
「ああ、だから今の俺があるのさ」
「それでカール、そういうライバルは居るのかい?」
「ああ、一人に気になる奴が居る」
「……誰だい?」
「ヘルマン、俺がアマチュア時代に唯一負けた相手を覚えてるか?」
「ええっと……確か世界選手権の決勝戦でロシア人に負けたんだよね?」
友人の問いにアッカーマンは「ああ」と頷く。
「そう、奴――ザイツェフは実に強かった。
だがそのザイツェフに勝った奴が居る!」
「ほう、それは誰だい? アメリカ人? キューバ人?」
「いや違う。 奴は……ケンジ・ケンモチは日本人だ」
「……へえ、日本人かあ。 少し意外だね」
「ああ、俺もザイツェフが日本人に負けるとは思わなかった。
だが奴――ケンモチの実力は本物だ、ちなみに残る一つのベルトは
そのケンモチが持っている。 だからとりあえずはそのベルトが欲しいな」
「そうか、でもその日本人も気の毒だね」
「……何故だ?」
「いや同じ時代に君という天才が居た事がさ。
その日本人もある種の天才だろうけど、君には適わないだろう」
ヘルマンは思ったままの感想を述べた。
だがアッカーマンは淡々と次のように告げた。
「いや奴は強いよ。 並のボクサーでは太刀打ちできないだろう。
ケンモチはザイツェフに勝って以来、破竹の勢いで三連続KO防衛中だ」
「ほう、君がそこまで褒めるんだから、本当に良いボクサーなんだろうね。
ならその試合が決まったら、また試合のチケットを送ってくれよ」
「ああ、もちろんさ」
「それに勝てば君も晴れて、四団体統一王者だね。
そうすればアメリカのリングで今まで以上に稼げそうだね」
「俺は金にはさして執着していない。
俺が求めるのは、本当に強いボクサーだ」
「そうかい、ではケンモチに勝てるように頑張ってね。
僕はそろそろ帰るよ」
ヘルマンはそう云って、踵を返そうとしたが、
その前にアッカーマンが確信に満ちた感じで一言漏らした。
「ああ、だが勝つのは俺だ。
奴も天才だが、俺もまた天才だからな」
ヘルマンはその言葉を聞いて、思わず微笑を浮かべた。
結局なんだかんだ云って、彼も自分が一番と思ってるんだな。
でも変なメサイア・コンプレックスを煩うより、よっぽど良い、と思うヘルマンであった。
だがアッカーマンも天才だが、拳至も天才であった。
そしてその天才同士の戦いの幕が今ゆっくり上がろうとしていた。