第三十話 ジーニアスVSシルバーホーク(前編)
---三人称視点---
「よし、良い形でカウンターを取れたな。
とりあえず後、三ラウンド程は今の調子で攻めろ!」
青コーナーで松島が拳至にうがいをさせながら、そう指示を出す。
だが拳至は軽く首を左右に振って、こう答えた。
「いえ奴ほどのボクサーに同じ手は何度も通用しないと思います。
ですので次のラウンドも左ジャブカウンターを打ちますが、
松島さんも冷静にザイツェフと奴のセコンドの様子を見ててください」
「……そうだな、確かにこの場においてはお前の言うことの方が正しいかもな。
分かった、俺も焦らず敵の様子を見ながら、指示を出す事にするよ」
「ええ、そうしてください」
一方、赤コーナー側のザイツェフ陣営は少し慌てていた。
ザイツェフのメイントレーナーであるアメリカ人のジョセフ・L・クロフォードは――
「打ち終わりを狙われているぞ!
もっと早く手を戻すか、ハンドスピードを上げるんだ」
と、興奮気味に指示を飛ばす。
だが当のザイツェフは涼しい顔で答えた。
「それは分かっているさ。 だが単純にスピードの問題じゃないのさ。 奴のステップワークをよく見てくれ? 異様に素早いステップを刻んでいる。 あそこまで早く踏み込まれたら、一、二ラウンドでは修正できんよ」
「……そうなのか?」
「ああ、次のラウンド、奴のステップワークに注目してくれ!」
「分かったよ。 だがなザイツェフ、ここは敵地なんだぞ? このままポイントを取られたら、どうなるか分からんぞ? それに奴は日本人だ、日本人に負けるようでは、ラスベガスにお前を売り込む事は無理になるぞ!」
ジョセフの言い分も分からなくはなかった。
だがザイツェフはやや声音を強めて反論する。
「そんな先の事など知らんよ!
今は奴――ケンモチに勝つ事に全力を尽すべきだ。
だからジョセフ、アンタもセコンドとしてこの試合を見据えてくれ」
「……了解だ。 兎に角勝つんだ、負けたら全てが終わり!
ザイツェフ、その事を忘れるなよ?」
ジョセフの言葉にザイツェフは「ああ」と頷いた。
そして第二ラウンド開始のゴングが鳴り、ザイツェフは椅子から立ち上がった。
二ラウンド以降もザイツェフは左のフリッカージャブで拳至を攻め立てた。
だが拳至はパーリングやブロッキング、スウェイバックなどの防御テクニックを駆使して、
フリッカージャブをほぼ全て回避する。
逆にジャブを打ち終わりに、一ラウンド同様に左ジャブカウンターを合わせた。
しかしザイツェフも急遽戦い方を変えてきた。
左手をだらりと下げたヒットマインスタイルから、
上体を立てて構え、両手でがっちりガードを固めたアップライトスタイルとなった。
それに対して拳至は、上体を前傾させて構えるクラウチングスタイルを取った。
どのみち中間距離や遠距離では相手に分がある。
ならばここは相手の懐に飛び込んで、接近戦を仕掛けるべきだ。
と、定石通りの攻めを選択する拳至。
だが相手は世界チャンピオン。
それも並のチャンピオンではなかった。
ザイツェフは長い左腕を伸ばして、教科書通りの左ジャブを放ってきた。
拳至はそれをパーリングで弾くが、
ザイツェフは閃光のような速度で左ジャブを更に連打する。
拳至も天才的な反射神経で、その五月雨のような左ジャブを躱すが、
こちらが左ジャブを打つ頃には、相手は足を使って射程圏外に逃れた。
――チッ、たった一ラウンドで修正してくるとはな。
――流石は世界チャンピオンって感じだな。
――だがならばこちらも攻めるまでだ。
――よーし、しんどいが徹底した接近戦を挑むぜ!
拳至は胸にそう刻み、軽快な足捌きで間合いを詰めた。
それに対してザイツェフは高速の右フックを放ってきたが、ダッキングでそれを回避。
そして左ボディフックでザイツェフの右脇腹を強打。
僅かに身体を曲げるザイツェフ。
更に左フックでザイツェフの右顎の側面を強打。
ザイツェフは身体をぐらつかせた。
そこから右アッパーで顎の先端を強打。
だがザイツェフも左フックで拳至の右側頭部を強打。
しかし拳至は下がらない。
そこから左右のフックを振り回して攻め立てる。
ザイツェフは後ろにバックステップ、即座に左にサイドステップする。
だが拳至は相手を逃すまいと再び攻め込んだ。
攻める拳至と逃げるザイツェフ。
だがパワーアンクルで強化された拳至のステップワークは見事であった。
一瞬にして相手との間合いをゼロにして、
そこから放たれるショート連打、更に連打、連打、嵐のように連打する。
気が付けば第五ラウンドに突入してきた。
ここまでの採点では拳至が五ラウンド全て10-9で取っていた。
とは云えスコア差以上に楽な展開ではなかった。
ザイツェフも攻められながらも、
ショートパンチを駆使して、相打ちで拳至にパンチを打ち返す。
パンチの重さでは拳至に分があったが、
パンチのキレはザイツェフの方が上回っていた。
気が付けば拳至の眉毛の上に、パンチによる切り傷が刻まれていた。
これ以上傷口を広げると流血するのも時間の問題だ。
そうなれば拳至の視野は狭まり、いよいよ持って接近戦を挑むしかなくなる。
だがパンチによるカットなので、傷口が限界まで開くと最悪TKO負けとなる。
そしてザイツェフの狙いはまさにそこにあった。
正攻法でこの男に勝つのは厳しい。
ならばこちらとしても勝つ為にあらゆる布石を打つ。
とはいえザイツェフも苦しい状況だ。
拳至のパンチは身体の芯に響くヘビーパンチ。
それを至近距離で何度も受けている。
しかも拳至は的確に急所をえぐってくるパンチを打ってくる。
とはいえここで引き下がる訳にはいかない。
これは世界タイトルマッチなのだ。
世界の頂点をかけた戦いなのだ、故に逃げる事は許されない。
それにこの試合に負けたら、ベルトを失う。
世界のベルトを失えば、今後の生活も不安定になる。
そうすれば愛する恋人に贅沢な生活をさせる事も出来なくなる。
だからザイツェフは気力を振り絞って、拳至と打ち合った。
だが拳至とて命がけでボクシングをしている。
彼は産まれながら恵まれた環境にあったが、
強さを追求する事に関しては、貪欲であった。
そしてリングの上では各々の思いなど関係ない。
ただ強いか、弱いか、相手より巧いか、下手か。
それで勝敗が決められる徹底した実力主義の世界。
そして二人はその事を骨の髄まで理解していた。
だから二人とも苦しいながらも、歯を食いしばって戦った。
「……凄い試合だね」
「ああ、本当にスゲえ試合だ」
テレビ画面で試合中継を観ながらそう云う零慈と健太郎。
激しい戦いに彼等も男として魅了されていた。
「ポイント的には剣持が勝ってるんだよね?」
「ああ、ポイントではな。 でも剣持は左眉の上をカットしている。 もう少し傷口が開けば、流血するだろう。 そうなれば剣持も苦しくなる。 だがそれでも攻め続けるしかねえだろう。 まさに死闘だぜ……」
「でも健太郎はこの剣持に二回も勝ったんだよね?」と、零慈。
すると健太郎は首を左右に振った。
「あくまで高校時代の剣持相手にだよ。
今の剣持相手じゃ勝負にすらならんさ。
それぐらい今の剣持は強い、強すぎる!」
「そっか、でも剣持がこの試合に勝ったら、
健太郎は世界王者に勝った男という事になるね」
「いやそういう事はどうでもいいよ。
今のオレにはもうボクシングは関係ないからな。
でも今は単純に剣持に勝って欲しい、それだけさ」
「そうか」
「ああ」
そこで第五ラウンド終了のゴングが鳴った。
そして両者共に自分のコーナーへ戻った。
試合はまだ中盤に差し掛かったところだが、
両者共に油断が出来ない状況が続くのであった。