第二十九話 元山猫少年、再び!
5月4日、会場は両国国技館。
WBL世界ライト級王者マクシーム・M・ザイツェフと指名挑戦者である同級1位の剣持拳至によるWBL世界ライト級タイトルマッチが行われようとしていた。
検診と計量も無事終えて、前座も終わりタイトルマッチが始まろうとしていた。
ちなみのこの試合は全国中継で生放送されている。
そして都内のとあるマンションで一人の少年、否、青年がテレビの前で拳至の応援をしていた。 だがそのマンションのキッチンで料理をしていた少女、否、女性が軽く叱責する。
「もう健太郎、テレビにかじりついてないで、お皿くらい並べてよ?」
「い、いやちょっと待ってくれ! い、今から国歌斉唱が始まるからさ!」
「里香ちゃん、お皿は私が並べるわ」
「もう早苗は健太郎を甘やかし過ぎなのよ!」
と、料理を作っている女性――神宮寺里香はプリプリと怒った。
するともう一人の女性――苗場早苗が「まあまあ」と云い、彼女を宥める。
更に健太郎の近くでテレビを観ていた青年が助け船を出した。
「まあまあ、里香。 俺も手伝うからさ。
それに今夜の試合は健太郎の高校時代のライバルの試合なんだよ?
だから今夜の試合だけは、大目に見てあげてよ? ね?」
と、もう一人の青年――来栖零慈がそうフォローする。
「……高校時代のライバル? あっ!?」
里香はテレビを観て思わず声を上げた。
そこには見覚えのある顔が画面に映っていたからだ。
「こ、この人……なんか観たことある気がする!
あ、病院で健太郎になんか絡んでいた人よ!」
「あ、ああ……里香、よく覚えていたな」
と、元山猫少年である大学三年生の雪風健太郎がそう答えた。
「え? なんでこの人がテレビに映ってるの?」
「いやだから言ったろ? 今日はコイツ――剣持の世界タイトルマッチなんだよ。
だから今日はバイトも休んで、こうしてテレビの前に座ってるんだよ」
「そ、そうなの? 世界タイトルマッチ?
よ、よく分らないけど、なんか凄い事になってるのね。
でもまだ試合は始まってないでしょ? だから健太郎も手伝いなさいよ?」
「い、いや里香。 世界タイトルマッチの国歌斉唱は見逃せないイベントなんだよ?」
「もう分ったわよ。 じゃあ早苗と零慈。 作ったカレーとサラダをお皿に盛って並べて!」
「「うん!!」」
三人がそうしている間も健太郎はテレビの前にずっと座っていた。
無論、健太郎もこの大学三年間の間で成長した。
昔のように『自分の感覚だけで喋る』ような真似はもうしていない。
真面目に大学の講義を受け、サークルもバイトも真面目にやっている。
またあの選抜大会以降は、ボクシングとも距離を置いてきた。
だが今夜だけはどうしてもこの試合を見逃す事は出来なかった。
かつての自分のライバルが世界の頂点に挑む試合なのだ。
この試合だけは見逃せない、と久しぶりに胸を熱くさせる健太郎。
「健太郎、カレーとサラダをお皿に盛ったから、皆で食べるわよ」
「り、里香、オレは後で食うから先に食ってて!」
「駄目よ! 皆で一緒に食べるわよ! じゃないと別れるわよ?」
「あ~、分ったよ」
里香に伝家の宝刀を出されて、
健太郎は仕方なく皆で円卓を囲んで、一緒にカレーを食べ始めた。
本当はテレビをずっと観たかったが、ここはあえて我慢した。
だから早く食事を終わらさせるべく、健太郎は超スピードでカレーとサラダをたいらげた。
「は、早っ!!」
「う、うん。 私なんかまだ二口しか食べてないよ」
里香と早苗が驚き、零慈は苦笑を浮かべて両肩を竦めていた。
そして食器を片付けて、超高速で食器を洗う健太郎。
食器を洗い終えた健太郎はまたテレビの前で釘付けとなった。
「そ、そんなにこの試合が観たいんだぁ~」と、里香。
「う、うん、そうみたいね」
と、相槌を打つ早苗。
「なんだかんだで健太郎も元ボクサーなんだね」
と、零慈が微笑を浮かべてそう言う。
まあ三人の言う事は大体当たっているが、
当の健太郎としては、理屈でなく本能で拳至を応援していた。
その心中は少し複雑だ。
良くも悪くも拳至が居たから、高校時代の健太郎はボクシングにのめり込んだ。
そのかつてのライバルが世界タイトルマッチに挑むのだ。
だから健太郎は損得勘定を抜きにして拳至を応援していた。
「それで剣持の相手は強いの?」
「ああ、強い。 世界選手権金メダル、五輪銀メダルのスーパーエリートだ。
プロでもここまで全戦全勝、正直云って並の日本人ボクサーじゃ勝負にもならねえよ」
健太郎は零慈の問いに早口でそう答えた。
女性陣二人はあまり興味なさげに黙々とカレーとサラダを食べていた。
そして試合前の国歌斉唱と試合前の注意も終わり、試合が始まった。
すると零慈も健太郎の隣に座りながら、テレビ画面に視線を合わせた。
元空手経験者に加えて、零慈も男、故にボクシングや格闘技はそれなりに好きであった。
「お、相手の左ジャブ良いね。 でもなんか変わった角度が出ている左ジャブだね」
「ああ、というかコレってフリッカージャブじゃねえか!?」
「フリッカージャブ? あの某ボクシング漫画でも出てくるあの変則的な左ジャブのことかい?」
「あ、ああ……だがフリッカージャブは実在する技なんだ。 もっともプロでもフリッカージャブを使う奴なんて滅多に居ないけどな。 お、おっ……だが剣持の奴、相手――ザイツェフのフリッカージャブを完全に外している! 更に打ち終わりを狙って、左ジャブでカウンターを取っている!?」
「あっ、本当だ。 これは俺でも分かるよ。 凄い高等技術だね」
「ああ……剣持の奴、プロへ転向して更に成長したみたいだ」
健太郎と零慈が熱く語る中、拳至は冷静にザイツェフのフリッカージャブを回避していた。
身長、リーチ共に拳至を上回るザイツェフ。
故に基本的に拳至は接近戦を挑み続けた。
左のフリッカージャブを外して、
中へ入っても、その瞬間に右のチョッピングライトが待ち受けている。
だが拳至は左の差し合いで相手の打ち終わりを狙って、
左ジャブでカウンターを取り続けていた。
世界タイトルマッチは12ラウンドの長丁場。
故に序盤から全力で打ち合っていたら、後半で確実にバテる。
近代ボクシングの世界タイトルマッチにおいては何よりも手数が重要である。
数百発以上のパンチを出して、いかにクリーンヒットを取るかでポイントの優劣が決まる。
相手が一流になれば、なるほどダウン一つを奪うのにも苦労する。
だがこの12ラウンドある戦いのうち、
半分以上のラウンドでポイントを取れば、勝利する可能性は高まる。
逆に言えばたとえダウンを奪ったとしても、
トータルのポイントで負けていたら、試合に勝つ事は出来ない。
故に高レベルなボクサー同士の試合は、
派手さより堅実さが優先されて、観客、視聴者視点で言えば退屈な試合になりがちだ。
しかし拳至は序盤から果敢に手を出して、
そして時折、右のストレートをクロス気味に合わせる。
また左ボディフックで相手の肝臓を強打、左右のフックで相手を揺さぶる。
すると瞬く間に第一ラウンドが終わった。
「このラウンドは剣持がポイントを取ったみたいだね」
「ああ、オレの採点でも10-9で剣持だ。
だが残り11ラウンドもある。 こりゃ厳しい試合になりそうだぜ」
「でも面白い試合になりそうだね」
「ああ、剣持もザイツェフもスゲえわ」
と、興奮気味に語る健太郎。
女性陣はそれを横目に見ながら、「やれやれ」と両肩を竦めた。
健太郎の耳にもその言葉は入っていたが、
今夜のこの試合だけは多少ウザがられても応援を続けるぜ。
と、健太郎はかつてのライバルの勇姿を観て、胸を熱くさせていた。