婚約の行方
リリーローズは体を顧みなかった。できるだけ早く宮殿に行きたかったのだ。訪問の許可が出て、すぐに出かけた。一時間ほど待たされたところで応接室に婚約者が現われる。立ち上がって礼を執れば、繊細な顔立ちにしかめ面を作り、その目は彼女の右腕に吸い寄せられる。二人は向かい合わせの椅子に腰かけた。
「怪我は……まだ治っていないだろうに」
「それは。殿下も……」
彼女が気づかわしげに婚約者の左手を見た。その手には白い包帯が巻かれていた。
「手に怪我をされては、色々とご不便でしょう?」
「私の場合は侍従が世話をしてくれるから問題ない。あなたの方こそどうだ」
「わたくしにも、侍女がいますから……」
会話が断ち切られる。どうしようもない沈黙の間に、リリーローズは服の下で包帯を巻いた右腕を強く押さえた。苦痛に顔が歪むが、今の彼女にとってささやかなことに思えた。
言うべきことがあって宮殿にやってきたのに告げられず、その表情を真正面から受け止める勇気もない。目を閉じてやり過ごしたところで、リリーローズが無力であることは変わりないのに。
「あの少女は、生きているよ」
はっ、と顔を上げれば、王子はリリーローズをまっすぐに見つめていた。瞳の色は珍しいバイオレット。いつもこの瞳には気圧される。王国の将来を担う者としての重圧にも真っ向から立ち向かう強さを湛えていて、揺らいだところを一度も見たことがない。
「あなたが命がけで体を張った甲斐はあった。命までは取られまい。代わりに、あの少女は生涯あなたと会うこともなくなるけれども。その身柄は島の流刑地に送られる。出航は半月後らしい」
赤毛の「あの子」の笑顔が思い浮かぶ。野原で花を摘み、ぎこちなく花冠を作る手つきに互いに笑いあった日のこと。ようやく心を開いてくれたと思っていた矢先だった。
『アネット』。それがいじらしいくらいにリリーローズを慕ってくれた年下の少女の名。彼女と交わした言葉を思い返せば、その一つ一つで視界が滲む。涙の洪水で目まで押し流されそうになる。
「聞きたかったのはこのことではないか」
婚約者は淡々と言い放つ。それから両足を組みなおして、じっとリリーローズの返事を待つようだった。
「いえ。そのことは父より聞いています……」
彼女は首を振り、否定の意を示した。しかし、そこからがまた続かない。覚悟を決めて対面したはずが、頭の中が真っ白になって、唇は震えるばかりで声にならない。膝の上の拳が二つ、きつく握りしめられる。心臓の音と呼吸の音しか耳に入らなくなった。
「殿下、わたくしは……もう」
「あなたは弱いな、リリーローズ」
惨めな気分で俯いていると、感情がこもらない声が降って来る。
「王妃は強くあらねばならず、こんなことで感情を乱すようなことは私の妃には許されないことだ。国民に悲しい顔を見せてはならない。教師にもそう習ったはずだ」
「仰せの通りです、殿下……」
ドレスの布にきつく皺が寄るが、彼女は離せなかった。目元の熱さを忘れることに集中する。だから、彼女は正面の人物が立ち上がって、あの決定的な言葉を告げた時、反応が遅れた。
「今の弱いあなたではとうてい私の伴侶にはなれないだろう。婚約は、破棄させてもらおうと思う」
「え……?」
一寸、彼女は驚き、顔を上げかけた。まるで彼女の考えていたことをそのまま代弁したような申し出だった。リリーローズは、王妃にふさわしくない。己が数年来抱いてきた王妃の資質についての懐疑に、本人の口から引導が渡されたのだ。
彼女は、ほっとした。国母の地位につくのは、こんな役立たずであってはならない。
「感謝いたします、殿下……」
「破棄してお礼を言われるとは。あなたは結婚できない方が安心できるのだな」
「……はい。殿下には申し訳なく」
規則正しい靴音がリリーローズの足元まで近づいた。王子が自分を見下ろしている気配がする。きっと呆れているのだ。この完璧な人には彼女の悩みは些末なことに違いないから。
「私は早々に婚姻することを求められているから、すぐに別の婚約者が宛がわれるよ。婚約者があなたであったことにも大して意味はない。誰でもよいし、それなりに上手くやっていくつもりもある。あなたでなくても別に問題はないんだ」
だからあなた以外の女性が相手でも結婚する。
かけられた言葉も彼らしいもので、リリーローズは粛々と受け止めた。
「今日はもう帰るといい。あなたに必要なものは休養だ」
返事も聞かずに彼は立ち去る。部屋を出ていく背中はとても大きく見えた。
リリーローズは邸に戻った。邸内でも笑みを保ったままで自室に入る。ドレスから軽い部屋着に着替えると、体の中でずっと張りつめていた何かがぷつりと切れた。たまらずベッドの中で身体を丸める。
きつく目を瞑ると、思い出す。今日会った婚約者――クラウディオ王子との打ち解けないやり取りに至るまでの――とりとめのない出来事たちを。
※
リリーローズが、初めてアネットと会ったのは孤児院だ。リリーローズは後援者の家の娘で、アネットは孤児院に引き取られてきた子どもだった。アネットは親も兄弟もなく、ずっと一人で盗みを働きながら路上に暮らしていたという。保護される時も逃げようと無我夢中で暴れたらしく、リリーローズは引き取られた話は聞いていても、危ないからとしばらく会わせてもらえなかった。
初対面も、孤児院の地下にある、ほとんど牢屋のような反省室の格子越しであった。その前夜に脱走騒ぎを起こし、一夜をかけてどうにか見つけられたが、その罰で反省室に閉じ込められたのだ。
小さな子どもは明かり取りの小窓の光が届かない室内の隅で身体を縮こまらせていたが、リリーローズの気配に気づくとぎらぎらとした野生を湛えた眼で警戒心を露わに睨みつけてくる。普通なら怖くて動けなくなるかもしれない。しかし、リリーローズはそこに他者への怯えを見たのだ。
「こんにちは」
リリーローズは格子前で両膝をつき、そう呼びかけてみた。
「わたくしはリリーローズ。時々、この孤児院を手伝っている者です。皆には、リリー、と呼ばれているわ。……あなたの名前を教えてくださる?」
返事はなかったが、それも仕方がない。少女にとってリリーローズは妙に馴れ馴れしく接してくる怖い大人だ。そうやって極度に警戒しなければならないほどに荒れた環境にいたことも予想がつく。この孤児院にいる子どもたちは多かれ少なかれ、心に傷を負っている。胸の痛む話だ。
「また来ます。その時にあなたの名前を教えてくださいね」
彼女は持ってきた食事用のプレートを置いた。一食分抜いていると聞いていたから、空腹で辛いだろうと思ったのだ。
だが、背を向けた彼女にか細く、しかし悪意に満ちた声音が叩きつけられた。
「偽善者。地獄に落ちろ」