狼の歌
短期集中連載予定。よろしくお願いします。
茂みの後ろでそっと息を殺していると、父とペーターの両方が銃を構えた。示し合わせたように同時に撃つ。ドゥン、と腹に叩き込まれるような音とともに、一匹の狐が地に倒れた。
「子どもの方は逃がしてしまいましたな」
仔狐を狙っていたペーターがさして残念がっていない様子で猟銃を背負う。父は母キツネの両足を括り付けて、ペーターへ放った。へい、と老人はそれをほかの獲物と同じように腰に巻いてから口笛を吹くと、彼の可愛がっている中型の狩猟犬が姿を現した。彼は頭を一撫ですると、褒美に小さな干し肉をやる。
「もう日暮れ時も近くなってきましょう。旦那様、お嬢様。今日はこの辺りで」
父は黙って頷いた。
老狩人がぴゅうぴゅうと二度節をつけて口笛を吹けば、長年仕込まれてきた犬は合図の通りに駆けていく。敏捷な身体はすぐに木立の向こうに消えた。犬は先ぶれとなって、邸の面々に主人たちの帰宅を告げに行くのだ。
本日の収獲を軽々と担ぐ大柄の老人の背中を追い、森の中の細い獣道を伝っていくうちに彼はふと足を止めた。左右を見渡し、ついで後ろにいる少女とその父を見た。
「狼がおりますな」
耳を澄ましてください。老練の狩人の言うとおりに少女は森の音を聞いた。少女の耳にも、低くて太い鳴き声のようなものが届く。それも一つどころでなく、いくつも折り重なり、不気味な合唱曲を歌っているように思えた。
「こちらが風下なので気づきはしないでしょう。ご安心を。先に進みます」
「うむ」
しばらくして狼たちの歌は止んだ。
彼らはことさらに注意深く進む。ようやく森の出口に至ったところで、老人は急に態勢を低くした。口元に人差し指を立て、開けた景色の向こう、小高い丘を指さした。黒い影がいくつもある。それは狼の群れだった。
「しばらく待ちましょう。じきに去ります。さあお嬢様、こちらへ」
狩人は自分の前に少女を座らせた。
「ペーター?」
狼と少女を隔てるのに小さな茂みだけでは心もとない。不安げに老人を見上げる。
「これからも旦那様とともに狩猟をされるならば、熊や兎や狐よりも先に狼との付き合い方を心得なければなりません。彼らは同じ獲物をめぐって争う人間の競争相手です。単体で動く熊よりはよほど賢い猟の仕方をする。群れとなって、獲物の集団の中で病気や怪我をしている、もっとも弱い個体を選んで殺します。もし道途中で狼の牙の痕がある動物の死体を見つけても触らずにその場を立ち去ってください。そこは狼たちの餌の保管庫なので、いずれ戻ってきて、少しずつ食いますから」
「……なんだか怖い」
後ろを振り向く少女に、老人は日に焼けた皺の多い顔に対して不揃いな黄色い歯を見せた。
「これも森には必要なのです。猟師の中には昔から『狼は獲物たちを強くする』という言葉があって、狼が弱い個体を狩ることで、種としては強い個体ばかりが残るというわけですな。森には何一つ無駄なものはないわけです。しかし、狼は近頃では随分と減りました。ああいう光景を見るのもなくなってしまうでしょうな」
冷たい風が丘から森へと吹いた。
西日に照らされた狼のシルエットが黒く切り取られている。互いにじゃれていた狼たち。ふいに尻尾をぴんと立てた狼が天を見上げ、両耳を伏せて、遠吠えをし始めた。他の狼たちもそれに合わせる。狼の奏でる音楽は、全身が楽器そのものだった。
のびやかだが、力強く。しかし個性で揺らぐ音色。よくよく聞けば一つとして同じものはないのだった。
少女はいつしか耳目を奪われて、狼たちの――自然の美しさに心までもさらわれた。
「狼は決して無情な生き物ではないのですよ。群れの仲間は大切にし、仲間を失った時には一日中でも遠吠えする。それに、仔狼の時に受けた恩は忘れません。わたくしめも祖父から寝物語に聞かされたものです。曾祖父が一度だけ助けた仔狼は成長した後も曾祖父の狩猟小屋まで時々戻り、遠吠えを聞かせたようですな。彼らは仲間を呼ぶのにも、遠吠えをするのです」
だったら、あの狼たちは何のために遠くまで届くように吠えるのだろう。少女は耳を傾けていると、胸が締め付けられるように痛んだ。
その時、背後で小さな金属音がし。銃声とともに狼たちは風のように駆け去った。
少女の父は氷のような無表情で白煙を上げる銃を下ろす。
「弱い者が滅びるのも神が与えたもうた摂理なのだ」
撃たれた狼はいなかった。