聖夜、君のいない国で
長い、長い戦争が終わって、暗い、暗い冬がベラネルの街にやってきました。
吹きすさぶ木枯らしは、必死に枝にしがみつく枯れ葉たちを容赦なく引きはがしていきます。
街の真ん中には、街を東西にへだてるコンクリートの壁が冷たくそびえたっています。
戦争に敗れたドワール国の首都であるベラネルは、戦勝国であるロイーズとアゼリアの二国によって東西に分断されてしまったのです。
つまり、今ベラネルの街は東と西で違う国になっているのです。
そのため、街並みにはいつだってもの悲しさが漂っていました。
クリスマスの鈴の音がもう明日にまで迫っているというのに、街が明るくなる様子はありません。
ベラネルの街にはクリスマスツリーはおろか、ヒイラギのリースの一つだって吊り下げられてはいないのです。
そんな冬の底に沈んだ西ベラネルの大通りを、マークは薄いコートに顔を埋めながら歩いていきます。
いつもならクリスマスの書き入れ時だというのに、人通りはほとんどありません。
七面鳥も、赤と白の縞模様の靴下も、店先で寂しそうに風に揺れているだけです。
まっすぐ延びた大通りは、本当ならずっと先で一点に交わるくらいに長く続いているのですが、今はそうではありません。
途中で壁によって半分に切り分けられているのです。
あるうわさを聞きつけたマークは、その壁を目指して冬の街を歩いているのでした。
舗装された通りの上をかさかさと転がっていく落ち葉を踏みつけながら歩いていくと、いよいよ壁に突き当たりました。
マークはその壁を見上げます。
今にも雪の降りだしそうなどんよりとした空よりも、ずっと曇った色の高さ3メートルほどの壁を見据えたマークの胸の中は、壁の向こうにいるアンナのことでいっぱいでした。
マークとアンナは小学校の同級生です。
仲の良かった二人は、いつも一緒にいました。
学校にいるときも、外で遊んでいるときも。いつもアンナと一緒にいるマークのことを
「男のくせに女と遊んでやんの」
とか言ってからかうクラスメイトもいましたが、マークはそんな言葉一向に気にしませんでした。
なぜならマークは他のどの友達よりもアンナのことが好きだったからです。
マークにはまだ「恋」なんて言葉はよくわかりません。
だからマークの「好き」は友達としての「好き」にちょっとだけ恋愛感情が混ざったような、そんな気持ちです。
ですが、マークの両親も、アンナの両親も、二人がそんな風に仲良くすることをよく思いませんでした。
一度マークが大通りの向こうのアンナの家に遊びに行ったときには、アンナのお母さんが箒をブンブン振り回しながら出てきて追い返されてしまいました。
なので二人はいつも大人たちから隠れてこっそりと遊んでいました。
アンナと昨日家であったことを話したり、担任の先生のものまねをしたり、ときには真面目な顔でお互いの夢を語り合ったりする時間は、戦時中のあちこちに影がばらまかれたベラネルの街を、その間だけ平和で明るい暖かな街に染め上げたのでした。
そんな二人の秘密の時間は、半年前に戦争といっしょに終わってしまいました。
そう。あの薄暗い壁が二人を引き離してしまったのです。
終戦と街の分断は突然の出来事でした。
ある日突然街じゅうに銃を持った憲兵が配備され、それっきりその向こう側と行き来することができなくなってしまったのです。
やがて街を分断するための長い壁がベラネルの街に築かれました。
そうして、マークとアンナはお別れの挨拶も出来ないまま会えなくなってしまったのでした。
それから半年がたったクリスマス・イヴの今日まで、マークはそのあとアンナがどうなったのか何一つ分かっていません。
そもそも壁の向こう、東ベラネルがどんな状況かという情報さえ、ほとんど西ベラネルには入ってこないのです。
マークはアンナが元気で過ごしているかとても気がかりで、アンナのことを考えない日は一日だってありませんでした。
壁を越えてアンナのもとを訪ねられたらと何度願ったことでしょう。
マークが辺りを見回すと、木のやぐらがそこかしこに建てられています。
そこには銃と眼をぎらぎらさせた憲兵が待機していて、壁を越えて向こう側に行こうとする者がいないか見張っているのです。
壁を乗り越えようとして憲兵に撃ち殺された人が何人かいるそうで、そんな話を聞いた後では誰も壁の向こうに行こうとはしませんでした。
そんななか、クリスマスが近づくにつれて街のあちこちであるうわさがまことしやかに囁かれるようになりました。
「クリスマスの夜に憲兵たちのクリスマスパーティが開かれるから、その間壁の警備が手薄になるらしい」
と、そんなうわさです。
その情報がどこから出たのかは分かりませんが、そのうわさをマークも友達伝いに耳にしました。
そしてマークはこんな物々しいところに子供一人でやってきたのです。
もうマークが何を考えているかみなさんお気づきのことでしょう。
マークは今夜この壁を越えようとしているのです。
いくら子供だからと言って、マークが自分のやろうとしていることの危険性を理解していないわけではありません。
マークはマークなりに考えて、大好きなアンナのために命がけの冒険をする決心をしたのです。
マークがここにやってきた目的は冒険の下見でした。
壁とその辺りを舐めるように見回したマークは、憲兵に怪しまれないうちに家に帰ることにしました。
壁には指を掛けられる溝が規則的につけられているので、どうにかよじ登れそうです。
そして、夜がやってきました。
クリスマスとは思えないようないつも通りの夕飯を済ませてから、両親におやすみなさいを言ってマークは部屋に戻りました。
そしてコートを着て、窓からこっそりと外に出ます。
もしかしたらもうお父さんやお母さんに会えなくなるかもしれないと思うと、今頃になってマークはとても不安になりました。
だけど、今日会いに行かなければもう二度とアンナと会うことは出来ないかもしれないと思い、マークは自分を奮い立たせました。
冬の底に沈んだ夜の街には、クリスマスの歓喜を感じさせるものは何一つありません。みんな戦争とその後の街の分断でふさぎ込んでしまっているのでしょう。
家々の灯りもまばらで、そのため路面は影、光、影、光というリズムを不規則に繰り返すのでした。
気付くともう壁の真下に来ていました。その周りは常夜灯に照らされていて、憲兵は昼間と同じように壁を見張ることができそうです。
いくつもあるやぐらを見ると、中に憲兵がいるのは一つだけのようです。
うわさは本当だったのです!
そしてさらに、そのたった一人の憲兵は向こう側を見ているではありませんか。
マークは壁を登って国境を超える決心をしました。
やぐらの上の憲兵を横目で確認しながら、溝に指を掛けて登っていきます。
今にも憲兵が自分に気づくのではないかと思うと、真冬だというのに汗がとめどなく吹き出て、心臓がはち切れそうなほどに激しく動きます。
上の溝に手を掛けたり、足をずらしたりするときは、どうしても憲兵から目を離さなければなりません。
マークはそのたびに何度も、何度も想像の中で銃に撃ち抜かれました。
それでもどうにか堪えて登り進め、ようやく壁のへりに手を掛けたそのとき。
やぐらの上の憲兵が突然こちらに振り向いたのです。
銃をぎらっと光らせて、憲兵はマークに銃口を向けました。
マークは頭が真っ白になって、壁にへばりついたまま動けなくなってしまいました。
もうだめだ。
一瞬の間に何百回もそう思ったそのとき、憲兵がふっ、と笑ったような気がしました。
そして、まるで
「俺は何も見なかった」
とでも言うかのようにマークに背を向けたのです。
マークは慌てて壁の向こう側に飛び降ります。
着地すると一目散にアンナの家を目がけて走り出しました。
アンナの家の場所はもう体が覚えています。
壁を越えた途端に、アンナが元気でいるか不安になってきました。
もしかしたら、という想像が押さえ込んでも、押さえ込んでもどこからかモワモワと湧き出てくるのです。
それでもマークはサンタクロースのいない夜空を切り裂くようにひたすら走り続け、ついにアンナの家にたどり着きました。
きっとアンナの両親はマークのことを歓迎しないでしょうから、見つからないようにこっそりと家の裏に回って寝室の窓の下に潜り込みます。
果たしてアンナは元気でいるだろうかと思うと、 誰かに聞こえそうなくらいばくん、ばくんと心臓の鼓動が高鳴ります。
ゆっくり、ゆっくりと頭を上げて窓の中を覗き込みます。
寝室には灯りがありませんが、月明かりでどうにか中の様子がわかります。
ベットが三つ。
左端のベットにはアンナのお母さん、右端のベットにはお父さんが眠っています。そして真ん中のベットには……。
……そこには誰もおらず、ベットはもぬけの殻だったのです。
マークは目の前の光景を信じられず、何度も目をこすりましたが、やはりアンナの姿は見当たりません。
家の灯りはすべて消えていますから、アンナがいるとしたらこの寝室以外ありえません。ですが、そこにアンナはいないのです。
そんなはずはない、と懸命にその最悪の想像を振り払います。
ですが、何か理由があるに違いないと、何度も、何度も必死に考えた後で
アンナは死んでしまった。
マークはそう悟りました。
どれだけ否定しようとしても、なぜだか自分の中のおそろしく冷酷な自分がその現実を受け入れてしまうのです。
頭の中が焼かれたみたいに熱くなって、それでも先に溢れ出した悲しみが涙を押し戻してしまいます。
マークはただうっ、うっと声にならない声を漏らしながら涙もなく泣きました。
いつの間にかそんなマークの気持ちを代弁するかのように白い、白い雪が舞い始めていました。
マークの泣き声を吸い込んではその白さを増していくような雪です。
肌を刺すその冷たさにさえ気づかないほどに悲しむマークは、通りを歩きながら寒さも忘れて泣きました。
一緒に野イチゴを摘みに行ったこと。
他愛ない話を日が沈むまでしたこと。
一緒にいるところをマークの両親に見つかってこっぴどく叱られた後、アンナが慰めてくれたこと。
アンナとの思い出がいくつも胸の中から滲み出しては、その度にそれが体じゅうに沁みて、耐えられないほどに痛みました。
楽しかったことを思い出すたびに、静かな街は、いっそう冷たくなっていきます。
それからどこをどう歩いたのかよく覚えていません。
ただ悲しみにふたをするように無我夢中で歩いていたのです。
いつの間にか、マークはあの壁のところまで戻ってきていました。
常夜灯に黄色っぽく照らし出された壁を、マークは恨めしそうな目つきで見つめました。その視線の先に、あの見張りやぐらが見えます。
見ると、先ほど見逃してくれたあの憲兵がまだそこにいました。
憲兵はマークの姿に気づくと、にっと笑って親指を立て、壁の向こう、マークの家のある方を差しました。
マークは憲兵が帰れと言っているのだと思って、来た時と同じように壁をよじ登りました。
手がかじかんでいてなかなか登れません。
それでもどうにか登って、壁のへりに手を掛け、両腕に力を込めて体を壁の上に持ち上げたマークの目に映ったのは、光の輪を描く常夜灯の向こう側で、家々の屋根に雪が染み込んでいく光景でした。
雪は今度は常夜灯の灯りを吸い込んで、さらに真っ白になりました。
それからマークは飛び降りようと思って下を見ます。
そのとき、なだらかな光の中に一つの人影が落ちていることに気づきました。
マークはじっと目を凝らします。
目を細めてみると、その人影の主が女の子であることがわかりました。
さらに集中すると、ついに女の子の顔にはっきりと焦点が合いました。
マークは驚いて思わず息を呑みます。
だって、そこにいたのは……
「アンナ!!!」
マークはビックリしてほとんど転げおちるように壁から飛び降りました。
マークに気づいたアンナの顔は一瞬でぱっと明るくなり、それを見たマークは、街全体が真昼のように輝き出すのを感じました。
「マーク!!!」
二人は駆け寄って、ぎゅっと強く抱き合い、お互いの背中をばしばし叩きました。
マークもアンナも体は雪で冷え切っていました。
抱き合うとお互いの冷たさがコート越しにじん、と伝わってきます。
マークはもちろん、アンナの顔にも白っぽい涙の筋がついています。
その筋は、マークがアンナを想っていたように、アンナもマークを想っていた証しなのです。
聖夜はいよいよ深まって、降る雪はますますその量を増していきます。
まるで、一度は互いの死を悲しみあった二人の再会を祝福するかのように……。