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出遅れたら、追い込むしかないのだ。 

作者: 遠山海月

 天高く晴れ渡った土曜日のお昼前。

時折り吹き抜ける秋風が黄色い落葉を沿道の隅へと集めていく。

平日なら忙しく行き交う人々の喧騒が絶えないF駅も土曜日のこの時間ともあれば休日の華やぎともまた違うのんびりとした空気に包まれていた。

 そんな長閑な雰囲気を体現したかのような実に穏やかな表情を湛えた初老の男が下の改札階よりエスカレーターに運ばれホームへと上がって来た。グレーのズボンに焦げ茶色のジャケットを着た小柄で小太り、タヌキのようなその男はふわっと七・三に分けた白髪の頭を撫でながら、待合いのベンチに空きがあるのを見つけるとゆっくりと腰掛けた。

 手にした新聞を広げ目を通していたが、そろそろ電車が来るのではと紙面を畳み立ちあがりながら視線をホームの端へと送ったそのついでに隣に座っていた男の姿が目に入った。

 格好から察するに若いサラリーマンだった。キリッとすれば中々の好青年なのだろう。しかしだらしなく着崩したスーツに汚れた靴、寝ぐせで跳ねた髪、半開きの目、蜂に巣を造られても気づかないのではと思うほど無防備に開いた口、どこをとっても「残念」という装飾が施されていた。若さとは名ばかりに疲れきった魂の抜けたような様子だったがよく見れば覚えがあるその容姿にタヌキ、いや、初老の男は思わず声をかけた。

「おや、山さんじゃないか?」

山さんと呼ばれた若いサラリーマンは急な呼びかけに魂が舞い戻ってきたのか、ビクッと身体を揺らした。顔を上げて声の主を確認すると慌てて弛めていたネクタイとシャツを締め直しながら返答した。

「あれ、藪石先生!どうしたんです?往診ですか?」

「いやいや、患者もさっぱり来ないから臨時休診にして気晴らしをと思ってね。山さんこそどうしたんだい?なんか覇気のない顔して。土曜なのに営業で得意先廻りかい?お疲れ様だねぇ」

「その仕事なんですけどね、、、丁度良かった。先生、聞いて下さいよ」

捨てられた仔犬のような憐み誘う顔で話しだす男のペースにつられ、一体何が丁度良いのかと戸惑いつつも藪石は立ちあがったばかりのベンチに座り直した。

「実は先月の末に部長に呼ばれましてね、いきなり『山竹君、君はクビだ』って、こう言われたんですよ」

山さんこと山竹の切り出した話の案外に重い内容に藪石は面喰った。

「そりゃまたビックリだ。世の中不景気だって言うけどついに山さんもリストラかい。まだ若いのに気の毒だねぇ」

「まぁその場ですぐにって話じゃなかったんですけどね。部長が言うには『会社の業績が悪化しており、社長からリストラの命令がでた。俺だってかわいい部下をあっさり切り捨てる程非情じゃない。だからといって社長に逆らうわけにもいかない。来月末までの-つまり今月ですけど-営業成績が一番悪かった者の肩を叩かせてもらうことにしたからせいぜい頑張ってくれよ』と、こうなんですよ。恥ずかしい話、俺、ここ何カ月も営業成績は最下位を争う位置なんですよ。毎回最下位争いをしてるライバルに今の時点で100万円弱負けてまして。つまり部長が言いたかったのは『このままだと君はクビだ』ってことですね」

一息に話すと山竹は深く溜息をついて肩を落とした。

 話の間に乗るはずだった電車を遣り過ごしてしまった藪石も小さく溜息をついた。

「キミもなかなか大変だなぁ。だったらこんなとこでボーっとしてないで営業に走り回らなきゃダメなんじゃないか?まだクビが決まったわけじゃないんだから」

「そうは言いますけどねぇ先生、今月ったってあと4日ですよ。たった4日間で100万も稼げるわけないですよ」

「何を言うか。『あきらめたらそこで試合終了ですよ』って有名な言葉もあるだろう」

それとなく気遣って山竹の世代なら心に響きそうな名ゼリフで励ましてみた。

「ふん」

山竹は鼻で笑うかのように力なく息を吐いた。

「少年漫画じゃあるまいし現実は努力や根性でどうにかなる程甘いもんじゃないですって」

せっかくの名言も馬の耳に念仏のようだった。

「ですけど先生、俺だってまだ諦めたわけじゃないんですよ。こうなったら自腹で商品買って売り上げ伸ばそうと思いましてね。ただそんな大金持ってませんから、なんとか資金を増やそうとさっきもパチンコ屋でひと勝負してきたんですけど、、、」

「自腹で売り上げ伸ばすのかい?なんだかイジマシイ努力だねぇ。というより努力の方向が間違ってるような気もするけど。それで、資金は増えたのかね?」

くたびれた山竹の様子から結果は容易く想像できたが一応聞いてみた。

「それが逆に減る一方で。もう残金が1万円しかなくなっちゃいました。これをどうやって一気に100倍にするか、、、。途方にくれてたら先生に声かけられたってわけでして。本当のこと言いますとね、俺も最初からパチンコしにここへ来たわけじゃないんですよ。実は先生んとこへ商談のお願いに窺おうかと思ったんですけどね。ただ先月もお世話になったばかりじゃないですか。何だか顔出し辛くて、それで取り敢えずパチンコでってなったんですけど。ここで会ったもやっぱり何かの縁、神様のお導き。先生、お願いします。また商品買ってくれませんか?」

「えっ?」

トンだお導きもあったもんだ。神は神でも疫病神に違いない。こいつは藪を突いて蛇を出してしまったようだ。藪石は上着の裾を手で叩き、飛んでくる見えない火の粉を必死に払った。

「商品たってなぁ」

「また手術用のハサミ買って下さいよ。切れ味は保障しますから」

「先月はご近所のよしみで買ったけどね、そんなにたくさんハサミは要らないよ。あれだってまだ使ってないんだから」

「そんな勿体無い。良いハサミなんですからお腹でも背なかでもジャンジャン切ってもらって大丈夫ですよ。なにしろゾウニンゲンの品ですから」

「そこがまず怪しいんだよ。それじゃあまるでデヴィッド・リンチの映画みたいじゃないか。刃物の産地ならゾーリンゲンだろ」

「そんな細かいこと気にしない、気にしない。切れ味は抜群なんですから」

「切るもなにもそもそもうちは内科だからね。ハサミなんてめったに使うもんじゃない。今思えばいくらご近所で顔見知りとはいえ買った私もたいがいだけど、キミもよくもまあ内科医に外科用ハサミを売りつけに来たもんだよ」

「いやあ、何も手術だけが使い道じゃないですよ。例えば診察のついでに髪の毛カットのサービスなんてどうです?メスもありますから髭剃りもできますよ。もっと本格的にと仰るなら使いやすい専門の髪切りバサミや剃刀もありますけど、如何ですか」

「そんなら床屋へ行っとくれよ。山さんの会社は刃物しか扱ってないのかい?」

「まぁ、ハサミ専門の会社ですからね。そのかわりいろんな便利ハサミを扱ってますよ。そうだ、高枝伐りバサミなんてどうです?通販でも人気の我が社の一押し商品ですから。2段階に長さが調節出来て切れ味も抜群。本日は特別に1本2万円のところ特別価格、1万9千8百円、1万9千8百円でご提供致します」

誰かのモノマネだろうか、山竹はひと際甲高く声を張り上げ値段を強調してみせた。

「一瞬凄くお得に感じるけど2百円しか値引きしてないじゃないか。せっかくだけど家の庭にそんな大層な木は無いからねぇ」

「高い枝だけじゃなく庭木の手入れや雑草の処理もできますよ。ほら、先生んとこは凄いヤブだって界隈でも噂、、、」

「あ?ヤブが何だって?」

「あ、いえ、ヤブ、ヤブ、ヤブイ、やぶぁい、そう!藪石先生はやばいぐらい治療が上手いって噂で、、、」

失言を有耶無耶にしながら山竹は言葉を続けた。

「と、とにかく遠くから細かい枝葉も手軽に切れる優れものですから、こっちで問診しながらあっちの患者さんの治療にとかどうですか?今なら同じもの3本おまけしますよ」

「そんな乱暴な治療があるかい。だいいちうちは患者さんを切ったり貼ったりはしないんだって。

それに高枝伐りバサミなんてそんなに何本もいらないだろう。

だったらその分安くしたらいいじゃないか」

「いえね、今までもノルマ足りないたんびに自分で買ってたから家に高枝伐りバサミばっかり100本近くあるんですよ。売上貢献してくれたら全部あげてもいいですよ」

「キミの家はジャングルかい。弁慶じゃあるまいしそんなもん集めてもしようがないよ。他に何かないのかい?」

「後は焼き肉用のハサミとか鼻毛カッターとか売っても焼け石に水の安いもんばっかりで」

「そういう諦めの姿勢がいけないよ。商売はコツコツと積み重ねが大事だと思うがね」

そう諭しながらも藪石はこんな説教こそ焼け石に水なのだろうなと思うのだった。

「そりゃそうかもしれませんけど今はそんな悠長なこと言ってる場合じゃないんですよ。だいたい先生だって人のこと言えませんよ。昼間っから病院閉めて何処へ行くんです?」

突然話の矛先を自分に向けられ藪石は慌てた。

「私は…あれだよ、ちょっと動物でも見て癒されようかと…」

「動物園ですか?」

「・・・まぁそんなとこだな」

山竹はどこか歯切れの悪い藪石が手に持っているものを見逃さなかった。

「あれっ?先生ぇ、へへへ。その手に持ってるの、競馬新聞でしょ?」

慌てて後ろ手に隠そうとしたが遅かった。

「何言ってんだ。これはあれだ、ほら、動物園の情報紙だ。今週の特集記事「秋のアニマル運動会!大興奮、馬の徒競争」がなかなか興味深い」

「なにバカなことを。これから競馬場でひと儲けしようってんですね。日頃の積み重ねが聞いて呆れますよ。患者ほっといてギャンブルなんて、このヤクザ医師!」

「薬剤師ではないぞ、内科医師だ」

「注射だけじゃなくバクチも打つんですね。しっかり切った張ったしてるじゃないですか。丁度いいや、俺も競馬連れてって下さいよ。そこで一発当てて資金を増やしますから」

「そんな簡単には儲からんよ」

「いいじゃないですか。連れてってくんなかったら近所中に先生が昼間っから競馬場通いしてるって言いふらしますよ」

「よしなさいよ、変な噂たてるのは。ったく声なんかかけなきゃよかったよ。仕方ない、それじゃあ一緒に来たまえ」

半ば脅しのような山竹の懇願に渋々同意せざるを得ない藪石だった。


 

 これから勝負事に臨もうとする者はとかく縁起を担ぐものである。

勝ったときに履いていた下着を洗わずに履き続けてみたり、犬のフンを踏んだらその日はツキがあったからと次回からわざわざ探してまで踏んでみたりとそれぞれがなにかしらの拘りをもっていたりする。

薮石も先週のレースで儲けたことにあやかり同じ下着、同じ靴下を履き同じ車両の同じ場所に乗り・・・と要するに先週の行動をなぞることで縁起を担ごうとしていたのだが同行者ができるという大いなる番狂わせに先行きの不安を覚えずにはいられなかった。

 この調子じゃ今日は難しいかもしれんな。これから大勝負というのに、この若さでリストラ候補だなんていう不幸な男と一緒とはまったくついてない、とまるで山竹が勝ち運を逃がす元凶であるかのように思えてくるのだった。


 そんな藪石の不安などお構いなしに山竹は初めての競馬場にはしゃいでいた。

「へ~随分と人がいるもんですね。まったくみんな楽して儲けようなんて図々しい」

「コラコラ。我々だって同類なんだから」

「へへへ。それにしても競馬場ってのは案外狭いんですね。こんな狭い所で馬が走るんですか?」

「そうじゃないよ。ここはパドックといってこれから走る馬の状態を下見する場所だ。ここで馬がグルグル周回してるだろ。調子の良さそうな馬をうまく見つけてごらん」

「見つけるったって…どれも同じように見えるけど…あっ、あの馬なんかどうです?」

「どれどれ?あぁ、あの馬は成績も冴えないし調教も上手くいってない、いわゆるインスタント珈琲だな」

「インスタント珈琲?何ですそれ?「速い」ってことですか?」

「♪駄馬ダ~って、CMがあったろう」

「なんですかそれ。じゃああの馬はどうです?今歩きながら糞をしましたよ。走る前に身軽になっていいんじゃないですか?」

「走る前に糞?ウンを落とした馬なんか止めといたほうがいいな」

「さっきから駄洒落ばかりじゃないですか。先生、素人に選ばせてないで先生が馬の善し悪しを教えて下さいよ」

「馬鹿かね、キミは。人間の具合さえなかなか判らない私に馬の調子なんか判るわけないじゃないか」「あーあ、とうとう自分で言っちゃったよ。なんかここに来てから先生、人が変ったみたいですよ。なんだか怖い」

「何を言う。これが勝負師の厳しさだ」

「勝負師じゃなくて医師でしょ」

「勝負師も医師も‘最後まで自分を信じること’が一番肝心という点では同じだ。それなくして人の命も、命の次に大事なモノもちゃんと扱えん」

「自分を信じるのは大事ですけどお医者さんには技術とか腕とかもっと大事にして欲しいことがあるような気がするんですけど」

「知らんのか。治療だって勘と運がものをいうんだ。本質はギャンブルと変わらん」

「駄目ですよ。医者が勘と運に頼っちゃ」

「つべこべ煩いぞ。予想に集中できやしない」

「そんなあ。俺にはどの馬が良いなんて判らないんですよ」

駅で見せた穏やかさはどこへやら、細めた眼をギラつかせて今やすっかりギャンブラーの顔になった藪石。その実力に若干の疑問はあったが、それでも素人の山竹にとっては藪石の経験にすがるしかないのだった。

「仕方ない奴だな。ほらそのために専門の新聞があるんだ。次のレースはここに書いてある馬たちが走る。読むといい」

「なんか小さい数字で細々書いてありますね。一番上の数字が馬の番号ですね?」

「そう、このレースは15頭だてだから1番から15番のゼッケン番号の馬が走るわけだ。番号の下のカタカナが馬の名前、下の枠は過去のレースの成績だな。これを参考にしなさい。きっと求める答えが書いてある。なにしろ『競馬新聞こそ最高の推理小説だ』と言う人がいるくらいだからな。」

「素人100%の俺がこんな記号だらけの表を見たって何も判りませんよ。この名前の上にある◎とか△の印は何です?」

「これは記者の予想だよ。◎が本命、〇がその対抗、ライバルだな。▲や△はもしかしたらという、いわゆる穴馬だ」

「なるほどねぇ。するとこのレースは◎がたくさん付いてる10番の馬が一番強いってことですね。ふーん、『チープインパクト』…強そうな、そうでないような微妙な名前ですね。取り敢えずこの馬券を買えば儲かりますかね」

気楽な山竹の言葉に眉をしかめると、薮石は顎をしゃくって正面を見るよう促した。

「掲示板を見てみなさい。馬の名前の横に数字があるだろ。あれがオッズといって馬が勝った時の倍率だ。10番の馬は数字が小さいだろ。勝ちそうな馬は当然みんなが買うから倍率が低い。当たる確率は高いがそのぶん儲けも少ない。逆に倍率の高い馬は勝つ確率が低いが当たれば配当も大きいってことだ」

「なるほど。今の俺だと2倍や3倍の馬券が的中しても全然足りないんだよな」

掲示板のオッズをつらつらと眺めていた山竹の視線が一点で止まった。

「あっ、先生、先生!」

「なんだい、大きな声だして」

「あれ見て下さいよ、さっき歩いてる姿がちょっと気になってたんですけどね、9番の馬のオッズ。182,3ってなってますよね?」

「あぁ、ホントだ。百円買って当たれば約1万8千円だな」

「ってことは今ある所持金1万円で買って当たったら、、、約1800万円!」

「約180万円だろ。大丈夫かい?営業成績が悪い理由が判るような気がするな」

「180万円で高枝伐りバサミ買えばクビにならずにすみますよ!」

「おいおい、どんだけ高枝伐りバサミ買うつもりだい。ホントは大好きなんだろ?高枝伐りバサミ。

いいかい、倍率が高いってことはそれだけ勝つ見込みが薄いってことなんだよ。そんな馬に賭けてもお金を捨てるようなもんだからやめときなさい」

「いや、でも人生一発逆転するにはこの馬しかいない、そんな気がしますよ。名前もいいじゃないですか『ラッキーパンチ』いいです、俺この馬に決めました」

「名前も頼りないじゃないか。悪いことは言わんから止めといたほうがいいって」

山竹がどの馬に賭けようと彼の自由であるとは思うものの、強引に頼まれたとはいえ自分が案内した手前みすみす損をすると判っている馬券に手を出させるのは藪石もさすがに気が引けた。

 しかし山竹は藪石の忠告をあっさりと聞き流し脈絡ない話を始めた。

「無理矢理連れてきてもらってこんなこと言うのは何ですけどね、先生。ホントは俺、馬って苦手なんですよ」

パドックで周回する馬を眺めながら低いトーンで語る。

「『ピノッキオ』って物語を知ってますか。俺、子供の頃あの本を読んだんですけどね、その中で悪戯なピノッキオがロバにされるシーンってのが挿し絵つきであったんですよ。こう、ピノッキオの顔が長くなってタテガミが生えてくるっていう挿し絵が子供心にそりゃもう怖くて怖くて。俺もピノッキオみたな勉強嫌いで怠け者のやんちゃ坊主だったからでしょうかね。それ以来ロバだの馬だの見るだけで自分もそんな風になっちゃいそうな気がして仕方ないんですよ」

「馬のトラウマかね。ややこしい」

だったら一緒に来るなんて言わなきゃよかったじゃないか、と心の中で藪石は毒づいた。

「でも今日、本物の馬を見て考えが変わりました。馬ってのはこんだけ近くで見ると実に迫力がありますね。それなのに目がなんともいえず愛らしい。日々競争に明け暮れてるにもかかわらずあんな優しい目をしてるなんて信じられませんよ。しかも良く見りゃ1頭1頭顔が違うんですね。鼻筋のスッと通ったのとかちょっとシャクレ顔のやら実に個性的だ。堂々とした体躯に逞しい太腿。それなのに支える脚は実にか細く今にも折れそうなほどスラッとしてる。同じように牧場で飼われる畜産でも牛と違って優雅で綺麗だ。一目で馬が好きになっちゃいましたよ。中でもね、先生、あの『ラッキーパンチ』はパドックをグルグル歩いて来るたんびに俺と目が合うんですよ。つぶらな瞳で「ボクに賭けて。ボクに賭けて」って訴えられてるようでなんだか目が離せない。他の馬にはない何かを感じるんですよ」

トラウマを克服し一転馬の虜となった山竹の力説に藪石もこれ以上反対する気にはなれなくなった。

「わかったよ。ビギナーズラックって言葉もあるくらいだ、初心者の直感は案外大事にした方がいいのかもしれないな。とても私は買えないけど自分を信じるのは大事なことだ。後で後悔しないんだよ、いいね」

「今更する後悔なんてないですから。あの馬に賭けますよ」

こうしてそれぞれ自分の予想を信じ馬券を買った二人はスタンドに出るとレースを観戦するためゴール板の真ん前に陣取った。



 やがて高らかにファンファーレが鳴り各々輪乗りしていた馬たちが順々に発馬機と呼ばれるスターティングゲートの狭い枠の中に収まっていく。スタート台の上で各馬の枠入れが納まるのを窺っていたスターターが旗を振り降ろす合図とともにゲートの扉が開いてレースは始まった。

「おおお、走り出しましたよ。あれあれ、1番のゼッケンの馬が速いですね。人気の10番は真ん中辺りかな。案外だらしないや」

「あの1番の馬は逃げ馬だからな。最初から先頭を走るのは予想通りだ」

「俺の馬は、、、あっちゃービリッケツだ。やっぱり駄目だったか」

「まぁこれも予想通りだけどまだ落胆することもない。馬には逃げるのが得意な馬や山さんの賭けた馬のように馬群の最後方にいても最後に追いこんでくる馬もいる。10番の馬のように差し馬といって序盤は真ん中あたりにいてゴール前でスルスルっと前に出てくる馬もいたりとそれぞれだ」

「へー、なんだか競馬って人間の社会と似てますね。ハナっから成績優秀でエリートコースを行く奴がいるかと思えば大器晩成、歳をとってから花開く奴がいたり。仕事だってそうですよ、要領よくおいしいとこだけさっと持ってく奴もいれば俺みたいに後ろのほうであがいてるのもいる。でもそうですか、最後方からの追い込みねぇ。なんか今の俺にぴったりだ。これから怒涛の追い込みでリストラなんて言った部長を見返してやるんだ。ねぇ、先生。あれっ、先生どうしました?なんかニヤニヤして」

「よーしいいぞぉ」

「どうしたんです」

「逃げ馬に1頭、抑えがきかなくなった馬が絡んできてるんだ」

「ホントだ、2頭で競い合ってますね」

「ペースがかなり速くなってる。こりゃ面白くなってきたぞ」

藪石の言うとおり競い合って走っていた2頭は最後のカーブを曲がる頃にはお互いスタミナ切れでズルズル後退、今度は中段にいた馬たちが勢いを増して先頭へと進出してきた。

「あら~やっぱり1番人気の馬が先頭になりましたね。他の馬もどんどん前に行くのに、俺の馬ときたらまだケツを走ってるけど大丈夫ですかね」

「煩い!黙ってろ」

レースに夢中の藪石はすっかり興奮していた。


 どどどどっと地響きを上げながら馬群がゴール目がけて駆けあがってくる。その振動は見る者の鼓動を突き動かし地鳴りのような蹄の音は呼吸を荒くさせる。

「うおーなんだかわかんないけど凄い、凄い!!」

自分の賭けた馬がどこにいるのかもよく判らないまま山竹も声を張り上げていた。

大方の予想通り最終コーナーを終えゴールへ向かう直線手前にある急坂を登りきる辺りでスルスルと先頭にたったのは1番人気のチープインパクト号だった。しかしそこで多くの観客にとってまったく予想外の出来事が生じた。

脚を伸ばし後続を突き離しにかかったチープインパクト号が突然横向きに飛び跳ねるとずるずると失速したのだ。

「どうしたんですかね、先生。なんか急に走るの嫌になったように見えましたけど」

「気づかなかったかな。馬群の足音に驚いてゴール板に止まっていたスズメが一羽飛び立ったんだ。たまたまその影が馬の視界に入ったんだろうな。山さんも感じたように馬は繊細な動物だからちょっとの刺激に恐怖したり怯えたりするんだよ」

「へー。判んないもんですね。あんなに身体のでかい馬がちっちゃな鳥の影にビビるなんて」

「おい、それよりも見てみろ。ひょっとするとだぞ」

藪石の声は心なしか上擦っていた。

 言われて再び馬群を注目した山竹も身体の奥から熱いものが湧きあがってくるのを感じた。

レースの展開が味方したのか、単なる気まぐれか、それともこれが本来の実力だったのか。

これまで最後尾を追走していたラッキーパンチ号が突然稲妻のような鋭い末脚で先行く馬を猛追しはじめたのだ。

「あーっ!あれだあれだ!俺の馬!来た来た来たっー!よし抜かせ!行け!」

山竹は興奮のあまり藪石の胸倉を掴んで揺すっていた。

「ちょ、ちょ、やめろ山さん、苦しいよ」

「構うもんかどんどん抜かせ!頑張れラッキー!俺だ、お前は俺だ、俺なんだーっ!行けぇ俺!!」

それはまるで前を行く馬たちが止まってしまったのではと錯覚を覚える程の脚色の違いだった。

ラッキーパンチ号は山竹の想いが後押しするかのように一完歩ごとにグイグイと力強く脚を伸ばすと前を走る3頭の馬に並びかけ、ついにはゴール板直前で4頭が横一線となりそのまま山竹たちの目の前を駆け抜けていった。

「うわ~もう見てらんないよ」

山竹は右手で目を覆うとその場に座りこんでしまった。左手には馬券を握りしめたまま恐る恐る藪石に結果を尋ねた。

「先生、先生、、、どうですか?俺の馬、何着になりましたか?」

「分らん。ほとんど同時にゴールしたからおそらく写真判定だな。結果が出たら正面にある電光掲示板に着順が出るからもう少し待ちなさい」

「いや~ドキドキするなぁ」

興奮と期待による胸の高鳴りからまるで自身がターフを走りきったとでもいうような荒い息遣いを抑えられないまま山竹は必死に願った。


 『写真判定中なので馬券をお捨てにならないように』というアナウンスの後、4、5分、いや山竹にはそれ以上の時間が過ぎた頃、突然場内に歓声とも怒声ともつかぬ声が沸き上がった。

「山さん、結果がでたよ。人気馬が揃ってコケたからこのレースは大荒れだ」

立ちあがった山竹が手の隙間から着順掲示板を覗くと2着の位置にラッキーパンチ号の馬番号「9」が点灯していた。

「残念だったなぁ山さん。人生大逆転、これでリストラも回避できると思ったのに。写真判定にまで持ち込んで頑張ったんだがな、実に惜しい勝負だった、、、」

我が事のようにがっかりと項垂れる藪石の隣でなぜか当の山竹本人の表情はすこぶる明るかった。

 「いえいえ、先生、当たった、当たってますよ、俺」

そんな馬鹿なと藪石は耳を疑った。

「当たっただって?何言ってんだ山さん。だって買ったのは9番の単勝だろう?1着にならなきゃ駄目なんだぞ。まさかラッキーパンチ号をあんなに力説しといて買う時に裏切ったのか」

「違いますよ。さっき馬券買う為のマークシートを塗ったじゃないですか。そん時馬券の種別を塗る欄に複勝って項目があったもんですからね。複勝=福勝で福を呼びそうで縁起がいいと思って単勝はやめてそっちを塗ったんですよ」

ホラ、と山竹が差し出したのは確かに9番ラッキーパンチの複勝に1万円を賭けた馬券だった。

「確か複勝ってのは3着までに来れば当たりなんですよね。だからこれはア・タ・リ・バ・ケ・ン!」

そう、山竹が手にしているのは紛れもない的中馬券だった。

 しかし・・・喜色満面で浮かれる山竹に向かって藪石は呆れて言った。

「喜んでいいのかい山さん。単勝1着なら万馬券だ。1万円買ってりゃ180万も越えたろうけど複勝のオッズはいいとこ44倍。1万円買っても44万じゃあノルマには足りないんだろう?」

山竹の動きが止まった。

「え!?当たったのに駄目?そんな、、、」

それまでの歓喜の色やどこへやら。目を何度も瞬かせると山竹は何を確かめるのかじーっと着順掲示板を見つめては小声で「当たりなのに、当たりなのに」と呟いていた。見かねた藪石が助け舟を出した。

「まぁ、そんなに落ち込まなくてもいいじゃないか。今の当たり馬券を資金に次のレースでもっと増やせばいいんだから、さ」

そうそうラッキーは続くまいと思いながらも山竹を励ますのだったが、当の本人は精根尽きた様子で弱々しくかぶりを振る。

「いえ、先生。もう駄目ですわ」

「そんなことないって。さぁ次のレースのパドックを見に行こう」

山竹の片腕をとって促すが、それを拒絶された。

「駄目なんですよ、先生。あれを見てください」

「あれ?」

藪石は山竹の指す正面の掲示版を見た。

「何度見直しても2着だよ。複勝を買ったんだから当たってるよ」

「その横にも何か書いてあるでしょ」

山竹は掲示板の2着表示の横を指さした。

「横の表示?あぁ、あれは前の馬との着差がでてるんだ。それがどうかしたのかい?」

掲示板の着順の横には前の馬との着差が表示されていた。例えば4着の馬の横には「アタマ」の表示。つまり3着の馬との差は「頭」の差。わずかに馬の頭一つ分の差で当たり馬券の対象が左右されたことになる。

3着の馬の番号の横には「ハナ」とあった。2着ラッキーパンチ号とはわずか鼻差の大接戦であった。

そして山竹が指すラッキーパンチ号と1着馬との着差は・・・今や顔面蒼白の山竹は歯の根が合わずガチガチと音をたてている。

「やっぱり駄目だ。もう今更何をやっても駄目なんだ」

そう言うと今まで手に握りしめていた当たり馬券をビリビリと破いて小さな紙片にすると紙吹雪のごとくパッと空へ放った。

「あああああ、40万だぞ。なんてことしたんだ。もったいない」

藪石が慌てて拾い集めようとしたが無理だった。山竹がそこまで落胆し自棄になる理由が藪石には皆目判らなかった。

「どうしたんだいったい。まだチャンスは充分あったのに」

山竹は震える唇からか細い声を絞り出した。

「いいえ、やり直したって無駄なんです。だってホラ、俺の馬の横の表示、『クビ』って書いてある」


「それはつまり、、、」

藪石は説明しようとした言葉を呑み込んだ。再び力なくしゃがみ込む山竹の姿に「クビ」という単語から彼が受け続けたプレッシャーの重さがひしひしと伝わって来た。

たかが単語一つがこんなにも人を怯えさせるとは。

一発逆転には至らなかったが、まだ次のチャンスに賭けるには充分な希望を握りながら自らの手で破棄してしまった山竹の背中を秋の風が撫でていった。

 風は千切れた当たり馬券をはらはらと散らしながらターフの隅へと流れていく。

そこにはレースを終え装鞍所に続く地下馬道へと戻っていく馬たちの姿があった。小さな鳥の影に怯えたが為にほぼ手中にした勝利を逃してしまった人気馬にはスタンドから容赦ない罵声が浴びせられていた。


 手にした希望を些細なものに怯えて不意にしてしまった人と馬。

「競馬って人の社会と似てますね」先刻の山竹の言葉を藪石は思い出した。なるほどそうかもしれない。

常に何某かの結果を求められるのは人も競走馬も同じである。

 ゴールに何を想定するかはともかくそこへ至る道程は個々のペースも違えば技量によっても変わってくる。結果もしかり。勝ち続ける者もいれば終始殿を抜け出せない者もいよう。幸運に導かれる者もあれば不意の障害に躓く者もあるだろう。先の見えぬレースの流れに儘ならぬ自分の現状を重ね競馬の中に人生の縮図を見出すことは競馬ファンならよくあることだ。

 それどころか、と藪石は思う。殿から巻き返すあのラッキーパンチ号に自らを映して必死に叫んだあの瞬間から、トラウマとなったピノッキオの物語さながら山竹自身が競走馬そのものとなっていたのかもしれない、と。


「若駒の行く末を追い掛けるのもまた競馬ファンの楽しみ、か」

呟くと藪石は懐から1枚の馬券を取り出した。じっと眺めていたが「うん、よし」と一度自らに聞かせるように頷くと傍らにしゃがむ山竹の手に握らせた。

「なんですか、先生。あ、鼻水出てましたか、すみません」

おもむろに握らされたものがちり紙だとでも思ったのだろうか、その意図を自分への慰めと受け取った山竹は深く深呼吸をすると半泣きの顔に無理矢理笑顔を作って立ちあがった。

「いつまでも落ち込んでたってどうしようもないですよね。すいません、いま鼻かんですっきりしちゃいますから」

「馬鹿、それで鼻水なんかかむんじゃないよ。ほら、良くご覧、今のレースの連勝馬券だ。今度は破きなさんなよ」

「今のレース?連勝馬券?」

朦朧と山竹が聞き返す。

「山さんがあんまり自信たっぷりに言うもんだからさ、私もラッキーパンチから数点買ってみたんだ。さすがに1点1万円は無理だから2千円程ね。連勝複式のオッズは18万そこそこの配当が付いてたから目標額には充分なはずだよ。こんだけあればもう「クビ」に怯えなくてもすむだろう」

「百円で18万円の配当を2千円分ってことは、、、3600万円!」

「違う、360万円。ホントに計算に弱いねぇ。それとも欲が深いのかい」

「いえ、でも先生、いくらなんでもこんな大金受け取れませんよ。ノルマならこの半分でもお釣りがきます。残りはお返ししますよ」

「気にしなさんなって。キミの人生に役立つことに有意義に使いなさい。どうせ山さんがいなかったら絶対に買うことは無かった馬券なんだから。レースを熱く観戦できたからそれで充分に元はとらせて貰ったよ。いやぁ久々に目が血走るほどに興奮させてもらったよ。実に楽しかった」

「ホントに?ホントにいいんですか、先生。ありがとうございます。ありがとうございます」

山竹は何度も何度も頭を下げた。

「そうだ、先生。せっかくだから大当たりの祝勝会をしましょうよ。貰ったお金で恐縮だけどお礼に御馳走させてください」

「ああ、もうそんなことはいいからいいから。そんなに有難いと思ってくれるなら、これで急場を凌いだら来月からは身を入れてしっかり仕事をするんだよ。そうして地道に一生懸命稼いだお金でいつか山さんが奢っておくれよ。さぁ、失くさないうちに換金して帰ろうじゃないか」


 帰る道すがら藪石はまだ胸に残る高揚に浸っていた。

それにしても、今日はなんと驚きに満ちた1日だったことか。あんな奇蹟のようなレースを目の当たりにしたのも驚きだが、その馬券を的中させあれだけの大金を得たのも驚きだ。何よりもその大金をあっさり手放した自分自身の言動が一番の驚きだった。後悔はもちろんしていないが、次にまた同じことが出来るかと聞かれたら絶対に無理だと断言できた。

 これだけ驚くことが続けばもうしばらくは何も起こるまい。ヒリつくような刺激もたまには良いが年寄りの心臓にはちと悪い。やはり自分には穏やかで平凡な日常が合っている、としみじみ思う藪石だった。

、、、が、まさか僅か3日後、山竹から礼状とともに送られてくる180本を超える高枝伐りバサミの山に腰を抜かさんばかりに驚くことになろうなどとは想像だにしていなかった。


-了-

※タイトルは寺山修司-勇者の故郷-より

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