君へ続く道、あなたへ還る空。―4―
その夜。吉明は高台に戻っていた。一層凍える寒さになり、吐く息がそのまま凍るのではないかと思うぐらいの、そんな錯覚を覚えるほどだ。空気が澄んでいるため、空を見上げれば眩しいほどの星の瞬き。月も負けじと輝いており、思わずため息の出る様な光景だった。
吉明は空を見上げ、街を眺め、今は黒い塊と化した山の彼方を見た。変わらずにいた風景と、変わっていく日常。それはあの山の向こうにある、東京でも同じなのだろうか。
小さな足音が聞こえ、吉明は視線を高台の広場に戻す。そこには肩で息をする葉子がいた。吉明と葉子は圭成、千紗を通じて知り合った仲で、吉明にとって数少ない女友達だ。変に気兼ねすることもなく、冗談の言い合え笑いあえる仲。今、そんな仲間内から一人、去ろうとしている。
寂しいと感じてしまうのは、自己中心的な考えなのだろうか? だが、そう思っているのはどうやら自分だけではないのだろうと吉明は思う。
「はいこれ、寒いでしょ」
そう言って葉子は缶コーヒーを投げる。冷えた手にコーヒーの熱さが心地よかった。
「さんきゅ。助かる」
呼び出したのは吉明だ。葉子はもう日も変わろうという時間に呼び出されたのに、文句一つない。何を話すかわかっているのだろう。かじかんだ手でコーヒーを転がしながら、吉明はぽつりぽつりと話し始めた。
「声を、掛けることができなかったよ、圭成に」
「うん」
「友達ってなんだろうな。こういうとき助けられなくて、何が友達だよって……思う俺は変なのかな」
「私も、そうだから、変じゃないよ」
「楽しいことも、辛いことも共有して、それで歩んでいくもんだと思ったが、それをやるとなったら難しいもんだ」
「そうだね」
見れば、葉子もコーヒーを手で転がして、明かりの少ない街並みを見下ろしていた。
「なんで今俺は、子供なんだろう。もっと大人で、経験があれば、圭成にも、千紗にもなにか声をかけてやれるのに。高校卒業したら、大人になるって漠然と考えていたけど、変わんないな。無力な子供だよ」
「子供だから、こうして悩むし、笑いあうし、決断もするんだよ。だから友達になれた。千紗ちゃんも、圭成君も、吉明君もね」
二人の白い息が暗い空へと消えていく。悩みもなにも、一緒に消えていけばいいのに。無意味な願いだとわかっていても、思わずにいられない。
「千紗ちゃんね」
葉子がいつになくはっきりと言葉を紡いだ。消えていく白い息の行方を追っていた吉明は少しだけドキッとして視線を葉子に移す。葉子はまっすぐに、吉明を見つめていた。
「自分ばっかり守られて、自分ばっかり頼って。そんな自分がどれだけ弱いか、自分が圭成がいないと、駄目になってしまうか。ある時考えてしまったんだって」
語るは千紗の話。なのに、葉子は目尻に涙を溜め、自分の事のように話す。ああ、こいつも同じなのかと。俺と同じように、無力感に苛まれているのかと、吉明は、葉子と同じように涙が出るのを感じた。
「だから、全部一人で決めたって。東京行も、大学も、住む場所も。私たちに相談もせず、一人で。弱い自分を捨てるために」
「馬鹿野郎……」
弱くなんてないだろう。駄目なわけないだろう。そんな言葉が胸の底から湧きあがり、言葉になろうとする。だが吉明はそれを飲み込む。葉子に言ってどうする。ここで吐露してどうするんだ。
「胸を張って、圭成の下に帰れるように、今は離れるんだって。そして強くなった自分を見てもらうんだって。泣いてた」
こんなにも、歯がゆいのは何故なのだろう。千紗の決意はすごいことだと思う。変わらないことに心が慣れて、変わるを恐れたら、人はそれで止まってしまう。自ら変わることを望み、それを実行するとなったら、どれだけの勇気がいるのだろう。だからこそ。そういった人生の岐路にこそ、友達は立っているものではないのだろうか? それはどうやら葉子も同じ思いのようだった。悔しいという思いが顔から零れ落ちている。
「夕方の圭成君の告白、とっても嬉しかったってさ、千紗ちゃん言ってた。小さい頃から、側に居て片時も離れず、好きだと言ってくれる圭成君に、ちゃんと自分を持って向き合えるようにしたいんだって。だから、今はさようならって」
吉明は高台の柵を叩く。その音は意外に大きく、静まり返った町に響いた。葉子はそんな吉明に言葉を掛けられずにいた。
「なにが……さようなら、だよ。くっそ」
「でも千紗ちゃんが圭成君をどれだけ想っているかわかるよ。同時に、圭成君の想いの強さも。でも、悔しいけど、私たちには何もできない。千紗ちゃんと、圭成君を見守ることしかできないんだよ」
「そんな事わかってるよ! でもだけど! こんなの、悲しすぎるだろうが!」
声を荒げても意味がない。どんなに叫んでも無駄だ。でも葉子は止めない。同じだから。葉子も同じ思いだから。
「結局、私たちは……変わっていくんだね。変わらないといけないんだね。千紗ちゃんがいなくなるって受け入れないと。そして千紗ちゃんの決断に、背中を押してあげないと駄目なんだよ。もう私たちには受け入れるしかないんだよ」
吉明は思う。自分たちの方がよっぽど弱いと。いつの間にか、四人でいる事に慣れ過ぎて、それが当たり前過ぎて、かけがえのない時間を過ごしていたと、気付けなかった。依存していたのは自分たちだったんだ。
空を見上げる。つられて葉子も見上げた。満点の星空がそこにあって、無力な二人を照らしていた。
「今生の別れじゃ、ないはずなんだけどね」
「この空は東京にも続いているはずなのに、繋がって見えないのは……なんでなんだろう」
その問いは、白い息と共に夜空に散った。