桃の節句に、祖母は逝った
三月三日。
世間では桃の節句と呼ばれるその日、スーパーの棚にちらし寿司の素が並び、ショーウィンドウには雛人形が飾られ、街はどこかほんのりと甘く、華やいでいる。だが私にとって、この日は別の色をしている。
父方の祖母の命日だ。
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父は男三人兄弟の三男として生まれた。
農家の多い小さな町で育ち、三人の兄弟はそれぞれの道へと散っていったが、長男だけが祖母のそばに残り、嫁をもらって祖母と同居した。それが長子の務めだと、誰もが疑わなかった時代の話だ。
だが、長男は六十代で急逝した。
残された長男の嫁、次男、そして父の三者が、祖母の行く末について話し合いの場を持ったのは、それからしばらくして、祖母の肺に影が見つかった頃のことだった。
ステージ四。
医師から告げられたその言葉は、祖母の余命に輪郭を与えた。長くはない、とは誰もが分かっていた。だからこそ、話し合いは難航した。正確には、話し合いにすらならなかった。
「うちは無理です」
長男の嫁はきっぱりと言った。夫を亡くしたばかりの彼女の言葉に、責める気にはなれなかった。だが、問題はその後だった。祖母がまだ同居している、その家で、長男の嫁は祖母の荷物を捨て始めたのだ。
箪笥の引き出しの中身。長年使い込んだ茶碗。押し入れに仕舞われた古い着物。
祖母はそれらが次々と消えていくのを、病に侵された身体でただ見つめるしかなかった。
「私はまだ生きとる」
祖母はそう言ったという。私がその話を母から聞いたのは、ずっと後になってからのことだ。
次男の家はまた別の問題を抱えていた。次男の嫁は新興宗教に傾倒しており、家族ぐるみで年金暮らしの祖母のもとへ頻繁に訪れては、金の無心を繰り返していたらしい。祖母は「次男の家族は全員、好かん」と、珍しく強い言葉で言った。
祖母を引き取ることを、誰も望まなかった。
肉親が病の老母を押しつけ合う光景は、醜かった。そしてその醜さの中心に、当の祖母がいた。
「私が生きてるうちは、兄弟喧嘩はしないで欲しい」
祖母はそれだけを言った。怒りでも恨みでもなく、ただ静かに、そう言った。
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父が祖母を引き取ると申し出たのは、母が首を縦に振ったからだ。
「来てもらえるなら嬉しい。むしろ来て欲しい」
母はそう言った。押しつけられることへの憤りはあっても、祖母を迎えることへの拒絶は、母の中に少しもなかった。私はその話を聞いたとき、この人の娘でよかったと思った。誇らしかった。子が親を誇らしいと思う瞬間というのは、たいてい、その親が見返りを求めない優しさを見せるときだ。
ただ一つ、問題があった。父だけが、祖母の故郷から遠く離れた県外に住んでいたのだ。
祖母を連れてくるために、父は大きなレンタカーを借りた。我が家にある車は軽自動車一台で、それは私にも運転できるよう小さく選んだものだった。荷物も、祖母も、その一台には収まらなかった。
父は一人で運転し、祖母を故郷から連れ出した。
途中、父は祖母の実家に寄り道をした。
祖母が生まれ、育ち、嫁ぐまでを過ごした場所。もうそこには誰も住んでおらず、建物だけが残っていたのか、あるいはもう取り壊されていたのか、私は詳しいことを知らない。ただ、父が祖母をそこへ連れて行ったことだけは知っている。
九十代の祖母は、きっと分かっていたはずだ。この景色を目に焼きつけておかなければならない、と。もう二度と、ここへは帰れない、と。
車の中で二人が何を話したか、私には知る術がない。だが父もまた、それが祖母にとって最後の故郷になるだろうと、分かっていただろう。
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我が家に着いてから、母は走り回った。
祖母の転出届、転入届、後期高齢者医療の手続き、介護保険証の更新。行政の窓口をいくつも回り、書類を集め、印鑑を押した。
介護保険証が長年にわたって更新されていなかったことが、手続きの過程で発覚した。長男の嫁が、まるで祖母の存在を行政の目から隠すように、何もしてこなかったのだ。
驚いたことに、次男の家の正面には市役所があった。道を渡れば、そこが窓口だ。転出の手続き一つ、介護保険の更新一つ、次男一家が肩代わりしてくれていれば、母の負担はどれほど軽くなっていたか。だが次男一家は、何もしなかった。
母はそのことに怒った。祖母を引き取ることへの不満ではなかった。怒りの矛先は、あくまでも長男の嫁と次男一家の不誠実さに向いていた。
私も一緒に、窓口を回った。
役に立てることは、ほとんどなかった。書類を一枚持ち替えることも、代わりに列に並ぶことも、私にできたことはわずかだった。
「いてくれるだけでいい」
母はそう言ってくれた。一人じゃないだけで救われる、と。
私はその言葉に甘え、そして何もできなかった自分を、後になってからずっと恥じ続けた。
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両親は祖母のために、家の中の一番いい和室を用意した。
八畳の、お手洗いや洗面所に最も近い部屋だ。元は母が使っていた部屋を、母は自ら明け渡した。
介護用のベッドが届き、簡易式のトイレが置かれ、段差にはスロープが渡され、壁には手すりが取りつけられた。お手洗いにも手すりをつけた。介護保険を使えば、これらの多くがレンタルや補助の対象になることを、私はこのとき初めて知った。
祖母がこの部屋で暮らし始めた頃、私はたまに実家に帰り、祖母に会いに行った。
だが、正直に言えば、私は祖母との接し方が分からなかった。
幼い頃から父方の祖母とは疎遠で、共に過ごした記憶がほとんどない。可愛がってもらった思い出も、二人でどこかへ出かけた記憶も、私の中にはなかった。それに、祖母の言葉は訛りが強く、何を言っているか聞き取れないことも多かった。生まれてから一度も故郷を出たことがなかった祖母の言葉は、私にとってほとんど外国語に近かった。
「ばあちゃん、お茶、ここに置いとくね」
私が祖母に言えるのは、せいぜいそのくらいだった。
そのたびに祖母は、ベッドの上からゆっくりと顔を向け、こう言った。
「ありがとう」
その一言が、妙に胸に刺さった。こんな短い言葉のやり取りしかできない孫に向かっても、祖母は毎回、ありがとう、と言った。
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祖母は間もなく、自宅での療養が難しくなった。
家から最も近い緩和ケア病棟、いわゆるホスピスへの入所が決まった。
父と母は毎日、病院へ通った。母は朝から晩まで、父は会社から真っ直ぐに。長男の嫁と次男が時折やって来たが、長男の嫁は来るたびに何かしら文句をつけ、次男は椅子に腰を下ろして所在なさげに座っているだけだった。
父は、母に言われて、祖母の爪を切った。耳の掃除もした。
「三男が一番、親孝行だろう」
父は祖母に、照れ臭そうに言った。
祖母はしばらく間を置いてから、答えた。
「そうやね。三男が一番、親孝行。親孝行な息子を持って、幸せ」
幸せ、という言葉を祖母はよく使った。
故郷を離れ、見知らぬ土地に連れてこられ、余命を宣告され、病に苦しみながら、祖母は事あるごとに「幸せ」と言った。ありがとう、とも言った。
私はその話を母から聞くたびに、すごい人だと思った。自分なら、そんな言葉が出てくるだろうか。恨み言や弱音の一つも言わず、幸せ、と言える人間に、果たして自分はなれるだろうか。
祖母の病室の窓からは、線路が見えた。
ある日、祖母は母に聞いた。
「あの電車に乗れば、帰れるのか」と。
母は答えに詰まった。そのローカル線は、祖母の故郷へは繋がっていなかった。
「……帰れないね、残念だけど」
母がそう答えると、祖母はしばらく窓の外を見ていた。その横顔に、母は何も言えなかったという。
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年末年始には、祖母を自宅へ連れて帰ることもあった。
私もそのときは実家に戻り、家族で祖母を囲んで年越し蕎麦を食べた。祖母には、母が全てを小さく切って食べさせた。
酸素ボンベが必要になっていた。祖母の息は、ゆっくりと、少しずつ苦しくなっていた。看護師の資格がない者が勝手に酸素の濃度を変えることは禁じられていたが、母の姉が看護師をしていて、私にとっての伯母にあたるその人の指示のもと、祖母が苦しそうなときは濃度を上げることがあった。
そんな夜があった。祖母の胸が波打ち、ボンベのメーターを母が見つめ、電話で伯母の声を聞きながら、家族が祖母の周りに集まる夜が。
そしてある夜、祖母が自宅から救急搬送された。
知らせを受けた私は、一人暮らしのアパートで、スマートフォンを持ったまましばらく動けなかった。いよいよか、と思った。覚悟はしていた。していたつもりだった。
それから間もなくして、夜中にスマートフォンが鳴った。
父からだった。
「ばあちゃん、もうダメだから」
それだけを言った。父の声は静かだった。感情を絞り出すような静けさではなく、もっと遠いところにある静けさだった。
私は、分かっていながら聞かずにいられなかった。
「ダメって、ダメってどういうこと」
「そういうことだよ」
電話が切れた。
私は暗い部屋の中で、しばらく画面を見つめていた。
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翌朝、始発に近い電車に乗り、実家へ帰った。
九年前の、三月三日のことだ。
葬儀はあらかじめ両親が決めていた葬儀社で、家族葬として営まれた。参列者は家族と親族のみの、小さな葬儀だった。
祖母は死してなお、会ったことのない人間に囲まれることになった。
父方の従姉妹が来た。長男の娘だ。幼い子どもを二人連れてやって来て、母が用意した飲み物と食べ物を食べ散らかし、子どもたちが騒いでも咎めずに帰っていった。私たちの間に会話はなかった。従姉妹の顔を見るのも、その日が初めてと言ってよかった。
葬儀の前、祖母の清拭に女性が二人来た。
二人は静かに、丁寧に、祖母の身体を端から端まで拭いた。足の指の先まで、一本一本。その仕事の丁寧さに、私は目を離せなかった。こういう仕事が世の中にはあるのか、と思った。亡くなった人を、こんなにも丁寧に扱う仕事が。
祖母はただ眠っているように見えた。
今にも「ありがとう」と言いそうだった。「幸せ」と言いそうだった。
葬儀では父が喪主を務めた。霊柩車に乗せられていく祖母を見送りながら、私は考えた。祖母は最期、たった一人だったのだ。夜中に、両親がいないときに、見知らぬ土地の病室で、誰にも手を握られずに逝った。どれほど心細かっただろう。あの窓の外の線路を、最後に見ただろうか。
火葬場で、父はスイッチを押した。
躊躇いはなかった。だが急ぐようでもあった。嫌なものに一瞬だけ触れるように、素早く、確かに押した。
なぜ、家族にスイッチを押させるのだろう。
私は以前、母方の祖父母が亡くなったときにも同じことを思った。最後の、最も辛い役割を、なぜ遺族の誰かが引き受けなければならないのか。押すことで、区切りを与えるためなのか。
答えは今も分からない。
祖母を焼く一時間あまり、誰も口を利かなかった。
父と母は隣り合って座っていた。最期まで祖母に寄り添った二人が。その斜め向かいに、長男の嫁と次男一家が座っていた。祖母を見捨てた人たちが。
居心地の悪い沈黙の中で、時間だけが過ぎた。
やがて係の人に呼ばれ、私たちは奥へと進んだ。
祖母は小さくなって帰ってきた。
不思議と、涙は出なかった。
祖母は幸せだと言った。最後まで、ありがとうと言った。
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毎年、三月三日が来る。
桃の節句の、甘く華やいだ空気の中で、私は祖母のことを思う。
あの人は幸せだったのだろうか。
本当に幸せだったのだろうか。
そうあってほしいと、私は今も願っている。故郷から遠く離れた土地で、たった一人で逝ったあの人が、本当に、最期まで、幸せだったと感じていてくれたならば、と。
そして毎年この日、自分に問う。
あの人のように、どんな状況でも幸せと言える人間に、私はなれているか、と。
──完──




